scene3
――3――
元宮登美子。
写真で見る彼女の姿は、想像よりもずっと穏やかだった。
資料はその日のうちに用意されていた。ずっと、保管してあったのだと思う。御門さんが両親にも連絡を入れてくれて、わたしは資料を読む前に、ちょっとだけ電話で二人とお話しもした。
わたしの家は、いわゆるイギリス風のカントリーハウスだ。塔のような屋根や広いエントランス。アンティーク風の調度品。最新鋭の科学とレトロな感じがぎゅっと詰まっている。
中でも度々利用するのが、庭先のサンルームだ。庭園がよく見える位置にあって、昼は日差しが柔らかく差し込み、夜は星空が優しく包んでくれる。ガラス戸が閉まる構造だから空調完備で、机と椅子を出せばあっという間にサービスルームだ。
小春さんと、小春さんのお母さんの御門春名さんの二人で、ささっとガーデンテーブルと横長のガーデンベンチを用意してくれた。白い鉄製のテーブルの上には、湯気の立つ紅茶のカップが置かれている。夜だから眠れなくならないように、カフェインレスのオレンジルイボスティーだ。
「こはるさん、みかどさん、よろしくお願いします!」
「はい、つぐみ様。……具合が悪くなるようでしたら、すぐに仰って下さいね」
「ふふ、つぐみ様の一助となれますのなら、この春名、なによりの喜びです」
わたしの右手に小春さん。わたしの左手に御門さん。心強いサンドイッチに、頬が緩む。
わたしは二人に覗き込まれる形で、資料が取り込まれた薄いシルバーのタブレットを手に取った。
「えーと、もとみや――」
元宮登美子。一九八七年八月生まれ。
故郷は愛知県南部。官僚の父と専業主婦の母の間に生まれる。上に兄が一人、姉が一人。少し年の離れた妹が一人。兄・登は警察官僚に、姉・美子は医者になる。登美子は家族を支え、妹を可愛がる優しい少女だったそうだ。
妹・美衣子は利発で可愛らしい少女で、登美子は彼女を気に掛けていたという。けれど美衣子は奔放で、登美子の制止を聞かないことも度々あったそうだ。
そんな中、美衣子が事件に遭う。幸い命に別状はなかったが、登美子は制止しきれなかった自分をひどく責め、また、この件から美衣子とは疎遠になっている。
登美子は大学で家政学・語学を優秀な成績で納めると、富裕層向けの家事代行の仕事から家庭教師の仕事を紹介され、小学校受験対策に複数の家庭で実績を納める。
「しりょうは、これだけなんですね、こはるさん」
「はい。たった一枚で収まってしまいます。人の経歴は、まとめられてしまいますからね」
「……あとは、わたしのときのこと、教えてください」
「――はい」
二〇二〇年二月。つぐみと……わたしと良好な関係を築いていた登美子は、その日、ひどく思い詰めた表情をしていたそうだ。けれどマミィの体調が芳しくなかったため、御門さんはマミィの付き添いに病院に行っていて、屋敷にはあまりわたしに関わらない従業員しか残っていなかったらしい。
登美子本人が仕事を全うできると言っていたこと。富裕層向けの家事代行の仕事経験もあるから、御門さんがいないときに不慮の事態が起こっても対処できること、そしてなにより登美子本人への信頼から、わたしの世話を任せて、そして。
「こはるさん」
「はい」
「みかどさん」
「はい」
「てを、にぎっていてください」
二人は小さく頷くと、わたしの手を、両手で優しく握ってくれる。その温かさに、思わず頬が緩んだ。
目を閉じる。記憶の狭間に潜り込むのは簡単だ。だってわたしは、何度も何度も自分の内側に潜り込んで、鶫と向き合ってきたから。
苔むした廃墟。
カードレールが歪んだ道路。
夜空の下に佇む鶫は、黒髪を揺らしてわたしを見る。
「いいの?」
「うん。だって――こんな気持ちじゃ、演技でワクワクできないから!」
「そっか、そうだね、じゃあ行こうか、つぐみ」
「うんっ、行こう、鶫!」
ひび割れたコンクリートを踏みしめて。
苔むした洋館を見つけて、鉄のアーチを潜る。
薊の棘と茨の這う道の先で、視界が、開けた。
(ここは、記憶だ)
目を開ける。
天蓋付きのベッドがある広い部屋。わたしの私室で、字の書き方を教えてくれる女性の姿が視界に入る。今よりも少しだけ小さなわたしの手に重なる、細い指。
「つぐみ様、そこはちょんと跳ねるのです」
「こう? とみこさん」
「ええ。よくできました」
細い眼鏡と理知的な瞳。少し陰のある表情。いつも優しい登美子さんは、その日、少しだけいつもと様子が違った。
「……とみこさん、げんきない?」
「つぐみ様、は――なんでもお見通しなんですね」
登美子さんは優しかった。いつも、わたしが失敗したらほんの少しだけアドバイスをくれて、一緒にがんばって次を教えてくれる。そして、頑張ったら、ご褒美に小さな折り紙細工をくれるのだ。普通の折り紙の四分の一くらいのサイズで、鶴や亀、ピアノなんかも折ってくれた。
わたしがカラスやカエルやヘビに興味を示すことを知ると、黒い折り紙で色んなポーズの烏を折ってくれたり、ぴょんっと跳ぶカエルを折ってくれたり、にょろにょろ伸びるヘビを折ってくれたりした。
どうして、忘れていたんだろう。
事故にあって目が覚めたとき、わたしは登美子さんを恐ろしい人物であるかのように認識していた。
でも、こうして“知る”覚悟で思い出してみると、植え付けられたトラウマよりも、ずっとずっと穏やかな彼女の姿を、思い出すことができた。
どうして、忘れてしまっていたんだろう。
簡単だ。わたしが、わたし自身の心を守るために、鶫にとって親しみ深い“ホラー”の形で、記憶を保管してしまっていたのだろう。それが結局、わたし自身を追い詰めるなんて、夢にも思わず。
「疎遠になっている妹から、連絡がありまして」
「そえん?」
「うーん。ケンカを、してしまったんです」
「なかなおり、できないの?」
「ええ。私が、悪いものですから」
伏せた瞳。
苦渋の声。
震える喉。
淀む言葉。
「どうして?」
まだ人との機微がわからなくて、無遠慮に尋ねるわたしに、登美子さんは苦笑を零した。
「厳しいことを言ったら、あの子は嫌がって反発するとわかっていたのに……奔放な、ええと、自由でやりたいことをやれるあの子が羨ましくて、つい、厳しく言ってしまったんです。『野犬が出る道を選ぶなんて、バカのすることよ』と。私の口汚い言葉に怒った美衣子――妹は、反発するように飛び出して、消えない傷を、作らせてしまった」
そう語る登美子さんの横顔は、暗く沈んでいた。
「今日、妹から連絡があったんです。『傷のせいで、婚約がダメになった。あんたがあのとき、余計なことを言ったせいでできた傷のせいで』――と。私の不出来が、妹を傷つけてしまったんです」
だから。
そうだ、だから、わたしは。
「とみこさんは――ずっと、くるしかったんだね」
「つぐみ様……?」
「だいじょうぶ。わたしは、とみこさんのことを、すきだよ」
「ッ」
慰めることはせず。
流すこともせず。
容易に踏み込み。
「つぐみ、様――ぁぁ、なんて愛くるしい……あの子も、そうであればよかったのに」
吐き出した後悔の形は、登美子さんが封じ込めていた願望をさらけ出してしまうものだった。
「とみこさんがやさしいから、あまえちゃったんだね」
「つぐみ様、ああ、あなたは、なんて愛おしい――も、もうし訳ありません、急に」
「どうして?」
踏み込んじゃダメだ。
傷ついている人の逃げ場になりたいのなら、傷つけられる覚悟もしなきゃだめだ。
でも。
「あいしてくれるの、うれしいよ?」
そのときのわたしは、そんなことは知らなくて。
愛に飢えて後悔に迷う女性に、そう、甘く言葉を投げかけた。
「ああ――なんて可憐な。あなたは、天使なのでしょうか、ぁぁ、ぁぁ、なんて」
登美子さんは、ふらりと立ち上がる。
精神的に追い詰められていた彼女は、揺れ動く理性を抑えるように、顔に手を当てて後ずさった。
「とみこさん? だいじょうぶ? くるしい?」
「なんて、お優しい」
「とみこさん?」
「なんて、ああ、どうして、あなたは私のものじゃないの?」
わたしは、登美子さんに手を差し伸べる。登美子さんは何度も逡巡して、それから、何度も何度も躊躇って、でも、最後には、わたしの手を取った。
「おお、おお、つぐみ様。どうか私のものに――だめ、だめだ、つぐみ様は美衣子ではないのに、こんな、どうしたら」
「いっしょに、おいしゃさまのところにいこう? わたしがね、ついていってあげるから」
「いっしょに、来て、くれるの?」
「うん。だって――」
だめ、だめだよ、わたし。
その先は、本当は、こんな風になんの思いも込めずに言ったら、だめなんだ。
「――わたしは、とみこさんのこと、あいしているから」
「ッ、ぁ」
登美子さんの表情から、理性の色が抜け落ちる。登美子さんは幽鬼のように、ふらふらとした足取りで、わたしに手を引かれて歩いた。
「どうしたらいい? どうしたら、私だけに微笑んでくれる? つぐみ様がいるのなら、もう兄と姉ばかり贔屓する父さんも、美衣子ばかり可愛がる母さんも、私を見下す兄さんも、私をサンドバッグにする姉さんも、我が儘放題で私を召使いにする美衣子もいらない。つぐみ様だけいればいい。つぐみ様だけ側にいてくださればいい。私の天使、私の女神様。ああ、ああ、どうしたら、どうしたら、私にだけ微笑んでくれるの?」
その、血を吐くような言葉に。
「だめだよ、とみこさん」
「え……?」
「わたし、みーんなだいすきだから、とみこさんにだけわらえないよ。ふふ」
わたしはそう、笑顔で返した。
「ああ、そっか、そうよね、一人だけに慈愛を向けた天使はいない。みんなに信仰される慈悲深い女神様。だからいつかは、私の手から離れて、いつかは私のことなんて忘れてしまう。ふ、あははっ、なんて間抜け。どうすれば、どうすれば、どうすれば、ああ――ああ、そっか、うふふ、そうよ、アハ、アハハハッ……ああ、そうだ。いっそ、私だけの世界に生きてくれたら、もう、なにも、いらないわ」
「とみこさん?」
エントランスを見下ろす大階段。
金刺繍の赤い豪華なカーペット。
シャンデリアに見下ろされ。
「つぐみ様」
「ぁ」
か細い手が、わたしを押した。
足が滑って、転がるように落ちていく。
痛みよりも衝撃が強くて、衝撃よりも驚きが強くて。
驚きよりも、裏切られたようなショックと、信頼を覆された痛みが、鋭くて。
「ぁぁ――私は、ッ、ああ、なんてこと、を」
頭から流れた血が、身体を覆っていく。
わたしを歪んだ笑みで見下ろしていた登美子さんは、広がる血に、我に返って、そして。
風が吹き抜ける。
一枚絵のように場面が凍結して、わたしは、心の内側の廃墟に戻ってきた。
夜空は晴れて、青空の下にいる。鶫は、何も言わずにわたしを見ていた。
「こわい?」
「ううん」
悲しいとも、寂しいとも言える。
でも無責任に愛を囁いたわたしにできることは――赦しては、いけないということだろう。他ならぬ登美子さんのためにも。登美子さんが、わたしとレオを攫った、鵜垣刑事みたいにならないようにするためにも。
「もう、こわくないよ」
鶫の背を押すような笑顔と一緒に、意識が浮上する。
わたしは握り返してくれる小春さんと御門さんの手に嬉しくなって、口元を緩ませた。
「きゅうきゅうしゃ、とみこさんが呼んでくれたんですね、みかどさん」
「ええ。我に返った彼女は、ひどく錯乱していたそうです」
「こはるさん、とみこさんは今、どうしているの?」
「ご実家では静養が難しく、仮釈放後、遠方に暮らす祖父母の元で保護観察を受けています」
なら、やっぱりわたしがしても良いことは一つもない。
わたしは資料が入っていたタブレットを小春さんに返すと、二人に向かって振り返った。
「みかどさん! こはるさん! わたし、甘いものがたべたい!」
自分でも珍しいな、と思うけれど、なんだかお腹が空いてきた。
御門さんと小春さんは顔を合わせると、二人で柔らかく微笑んで頷いてくれる。
「特別ですよ。小春、お湯を沸かして」
「はい。ココアとハチミツとマシュマロですね」
「つぐみ様、食べ終わったらきちんと歯を磨いて下さいね」
「はーい! みかどさんもいっしょに!」
「ええ、光栄です」
恐怖とは、知らないことだ。
知ってしまえば、あとには事実だけが残る。
あとは、せんせい。
悧巧院一紗先生。
あなただけだよ。
知らない恐怖は、もうないのだから。




