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月光のしおり  作者: 翠蓮草


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第五話

 テレースの瞳が、完全に開かれた時、彼女が最初に見たのは、天井の白い光だった。


 その光は、徐々に焦点を合わせ、彼女の視覚系統が、四十五年ぶりに外部の情報を処理し始めた。脳波が、段階的に活性化していく過程が、隣接するモニター画面に表示されていた。


「脳波は正常です。体温、心拍数、すべてが正常範囲内にあります」


 ヘレナが、医学的な観察を述べていた。その声には、専門的な冷静さと、同時に、深い感情が込められていた。


 テレースの身体は、生命維持装置から徐々に解放されていった。各種の管が、丁寧に取り外され、彼女の肌が、外気に触れ始めた。


 その時、テレースは、初めて、自分がどこにいるのか、何が起こっているのか、という認識を始めた。


 四十五年間の眠りの間に、彼女の意識は、どのような状態にあったのか。それは、完全な無意識だったのか、それとも、何かの夢を見ていたのか。


 その答えは、彼女にも、わからない。


 だが、今、彼女は確かに、目覚めていた。


 テレースが、最初に発した言葉は、非常にシンプルなものだった。


「ここは…どこですか」


 その声は、幼い少女の声のようであり、同時に、深い知性を感じさせるものだった。


 怜桜は、その質問に、丁寧に答えることを心に決めた。


「ここは、月のセレーネドーム。Sublevel 7という地下施設です。あなたは、四十五年間、この施設で、保管されていました」


 テレースは、その答えを聞いて、数秒間、沈黙した。その間、彼女の脳は、膨大な情報を処理していたはずだ。


「四十五年…」


 テレースが、その数字を反復した。その声には、驚きと混乱が含まれていた。


「では、私は…何ですか」


 その質問は、テレースの最も根本的な疑問を示していた。彼女は、自分が何であるかを、知らないのだ。


 ヘレナが、その質問に答えた。


「あなたは、テレース。改造人間個体A-0006。あなたは、人間と同じような形態を持ちながら、高度な知能と、人間らしい感情を備えるために、設計された個体です」

「改造人間…」


 テレースは、自分の両手を見つめた。白く、完璧な肌。細長い指。それらすべてが、完全に人間的に見えた。だが、その身体は、人工的に設計されたものなのだ。


「では、私は…人間ではないということですか」


 その質問に、怜桜は、慎重に答える必要があると感じた。


「人間とは何か、その定義によります。もし、人間らしい感情と知能を持つことが、人間の条件なら、あなたは人間です。もし、生物学的に特定の遺伝子を持つことが人間の条件なら、あなたは異なる存在です」


 怜桜は、立ち上がり、テレースの側に近づいた。


「ですが、重要なのは、あなたが何であるかではなく、これからあなたが何になりたいのか、ということです」


 テレースは、生命維持装置から完全に解放された後、ゆっくりと身体を動かし始めた。


 四十五年間、静止していた筋肉は、再度の活動を求めていた。初めは不自由だったが、やがて、その動きは滑らかになっていった。それは、彼女の改造人間としての身体が、急速に適応していることを示していた。


「あなたは、自分のことについて、何か知りたいことはありますか」


 ヘレナが、尋ねた。


 テレースは、数秒間、考えた後、尋ねた。


「私が、何のために、作られたのか。その理由を、知りたいです」


 アレンが、その説明を引き受けた。


「あなたは、本来、トレイターという異常生物を制御するための、兵器として、設計されていました。ですが、設計過程で、エドガー・フライシャー博士は、あなたに、完全な人間らしい感情を与えることを決めた」


「なぜ、そのようなことを…」

「博士の意図は、この記録に残されています」


 アレンは、古い研究日誌の記録を見せた。


『個体A-0006の製造を完了した。この個体は、最初の計画では、失敗作として廃棄されるはずであった。だが、私は、彼女を生かすことを決定した。なぜか。それは、人類の未来のためだ。単なる兵器ではなく、真の意味で、人間らしい判断ができる存在。そのような存在が、もし自由を得たなら、彼女は、何を選択するのか。その答えが、人類の行く末を決定するかもしれない』


 テレースは、その記録を読み、深く思考した。


「つまり、博士は、私を…実験の対象として、扱ったのですか」


 その質問に、ヘレナは、率直に答えた。


「そうです。ですが、同時に、博士は、あなたを守ろうとも考えていた。あなたを保管させ、いつかの日のために、温存した。それは、あなたの自由を信じていたからです」


 怜桜が、付け加えた。


「そして、今、その時が来た。あなたは、自由を得た。その自由を、あなたは、どう使うのか。それは、あなた自身が決定するのです」


 怜桜たちは、テレースに、現在の月光司令部の状況を説明した。


 飛行型トレイター個体A-0001による攻撃。月光司令部の軍事力の喪失。権力層の混乱。そして、改変派による、月光司令部の改革を目指す動き。


 テレースは、その情報を聞いて、複雑な表情を浮かべた。


「では、個体A-0001は…」

「あなたと同じく、改造された個体です」


 ヘレナが、説明した。


「ですが、彼は、人間のような感情を抑制されており、代わりに、完全な制御可能性を持つように設計されました。あなたは、彼を、脳波による直接的なコミュニケーションで、制御することができます」


「制御…」


 テレースは、その言葉に反応した。


「つまり、私は、彼を操ることができるということですか」

「そうです」


 アレンが、答えた。


「ですが、それをあなたがするのか、しないのか。その選択は、あなた自身にあります」


 テレースは、窓から月の景色を見つめた。セレーネドームの内部から見える、月面の光景。そして、その上空で、個体A-0001による攻撃が続いているのだろう。


「個体A-0001を、制御すれば、月光司令部の改変に、協力することになるということですか」

「そうです」


 ヘレナが、頷いた。


「月光司令部の権力層は、四十五年前の秘密を隠蔽し続けています。その秘密とは、隕石衝突が自然災害ではなく、意図的な人口削減計画だったということです。また、トレイター・プロジェクト、そして改造人間プロジェクトも、その秘密の一部です」

「その秘密を暴露し、月光司令部を改変することが、改革派の目的です。そして、あなたが、個体A-0001を制御することで、その改変は、加速します」


 テレースは、長く沈黙した。その沈黙の中で、彼女は、自分の人生の最初の大きな選択に直面していたのだ。


 テレースが、ついに口を開いた時、彼女の言葉は、静かながらも、非常に明確だった。


「私は、個体A-0001を制御します」


 その宣言に、怜桜たちは、驚いた。彼女は、あまりに簡単に、その選択を下したのだ。


「本当ですか。あなたは、その選択の意味を理解していますか」


 ヘレナが、確認した。


「理解しています」


 テレースは、答えた。


「四十五年間、眠り続けた私は、この世界の何も知りません。ですが、私は知っています。隠蔽と陰謀は、人類を腐らせるということを」


 テレースは、そう言いながら、立ち上がった。


「私は、エドガー・フライシャー博士の意図を、尊重したいと思います。私が、自由を得た時、何を選択するのか。その答えが、人類の行く末を決定するかもしれない。ですから、私は、正直に選択します」

「秘密を暴露することが、正しいと思いますか」


 アレンが、尋ねた。


「正しいか、正しくないか、その判断は、人類全体がするべきです。ですが、秘密に基づく支配は、確実に間違っています」


 テレースの言葉には、四十五年間の眠りの中で、何かを考え続けていたような、深い思慮が感じられた。


「では、個体A-0001との接触を開始します」


 テレースは、目を閉じた。


 彼女の脳波が、高度に変化し始めた。それは、改造人間としての特殊な能力――トレイター群との脳波共鳴――が、発動した兆候だ。


 モニター画面に、複数の脳波パターンが、リアルタイムで表示され始めた。テレースの脳波と、個体A-0001の脳波が、次第に同期していく様子が、見て取れた。


 その同期が完全になった時、セレーネドーム周辺での、個体A-0001による攻撃が、突然停止した。


 通信システムから、複数の警報が、一斉に鳴り響いた。月光司令部の各施設から、状況報告が入り始めたのだ。


『飛行型個体が、攻撃を中止。現在、静止状態に入った』

『原因不明。センサーにも異常はない』

『何が起こった』


 その混乱の中で、テレースは、目を開いた。


「完了しました」


 テレースが、静かに言った。


「個体A-0001は、現在、私の指示を受け入れている状態にあります」


 月光司令部への宣告


 その直後、セレーネドーム内の全通信ネットワークに、緊急放送が流れた。

 それは、テレースからのメッセージだった。


『月光司令部の全市民へ。私は、テレース。改造人間個体A-0006。四十五年間の眠りから、目覚めました』


 その声は、優雅で、知的で、そして、非常に説得力のあるものだった。


『月光司令部は、四十五年間、大きな秘密を隠蔽してきました。隕石衝突は、自然災害ではなく、意図的な人口削減計画。トレイター・プロジェクトは、地球の環境クリーニングではなく、人類の意図的な削減。改造人間プロジェクトは、人工的な兵器の製造』

『これらの秘密は、月光司令部の権力層によって、隠蔽されてきた。その隠蔽が、月光司令部そのものを腐らせています』

『私は、個体A-0001の制御を得ました。そして、月光司令部の改変を求めます。秘密の全面的な公開。権力層の責任追及。そして、透明で民主的な統治体制の構築』

『月光司令部の市民の皆様へ。あなたたちは、隠蔽の中で、人生を過ごしてきました。ですが、その隠蔽の時間は、終わります。これからは、真実に基づいた世界を、構築します』

『同意する者は、改変派に参加してください。拒否する者は、その判断を尊重します。ですが、隠蔽は、もう許されません』


 その放送が終わった時、セレーネドーム内は、静寂に包まれた。


 その沈黙の中で、月光司令部の歴史が、大きく転換していたのだ。



 テレースの宣告の直後、月光司令部の権力層の中で、複数の動きが起こった。


 月光総司令官グレゴリ・マルタンは、自分の執務室に籠り、外部との連絡を遮断した。彼の四十五年間の権力が、一瞬にして崩壊しようとしていたのだ。


 一方、改革派は、テレースの宣告を機に、本格的な活動を開始した。月光司令部内の複数の重要施設を、占拠し始めたのだ。


 その過程で、一般市民の中にも、混乱が広がった。隠蔽されていた真実が、突然、公開されたのだ。その衝撃は、測り知れないものがあった。


 怜桜は、Sublevel 7から、月光司令部の戦術分析室へ移動した。そこからは、リアルタイムで、セレーネドーム内の複数の施設の状況が、モニター画面に映し出されていた。


「予想より早い展開だ」


 アレンが、そう呟いた。


「テレースの宣告の影響が、想像以上に大きい。月光司令部内の権力構造が、既に動き始めている」


 ヘレナが、その観察に同意した。


「テレースは、単に情報を公開したのではなく、月光司令部の市民に対して、直接的な呼びかけを行いました。その呼びかけは、権力層の支配を、根本的に揺るがすものです」


 その時、エドガー・ヘルメットからの通信が入ってきた。


『橘中尉。ウィルソン副官。現在、月光司令部改革派の指導部が、セレーネドーム中枢タワーの掌握を開始しています。あなたたちも、その一部として活動してください』


 怜桜は、その指示を受け入れた。


「了解しました。私たちも、改革活動に参加します」


 セレーネドーム内の複数の施設での武装闘争が続く中で、テレースは、Sublevel 7に留まり続けていた。


 彼女は、常に個体A-0001との脳波通信を、維持していた。それにより、個体は、攻撃的な行動を取らず、改革派の要求する位置に、静止していたのだ。


「疲れませんか」


 怜桜が、テレースに尋ねた。彼は、戦術分析室での活動を一時中断して、彼女の元へ訪れていたのだ。


「疲れています」


 テレースは、率直に答えた。


「個体A-0001との脳波通信は、私の精神に大きな負荷をかけています。ですが、継続する必要があります」


 テレースは、そう言いながら、目を瞑った。


「ですが、この経験を通じて、私は、何かを学んでいます」

「何を」


 怜桜が、尋ねた。


「個体A-0001も、私と同じく、被害者だったということを。彼は、制御されるために、設計された。その設計を受け入れることしか、彼にはできなかった」


 テレースは、その言葉を続けた。


「ですが、私は、彼に自由を与えることができます。いや、与える必要があります。この改革が成功した後で」

「自由を与える…」


 怜桜は、その言葉の意味を考えた。


「つまり、個体A-0001を制御から解放するということですか」

「そうです」


 テレースは、確実に答えた。


「彼も、人間らしい選択をする権利がある。制御されるか、自由か。その選択を、彼に任せるべきです」


 その言葉を聞いた時、怜桜は、テレースの人間性が、如何に深いものであるかを、改めて認識した。


 彼女は、わずか数時間前に、眠りから目覚めたばかりだ。それなのに、彼女は、複雑な倫理的問題に対して、完全に人間らしい判断を下しているのだ。


 セレーネドーム内での武装闘争は、三日間続いた。


 その三日間の間に、月光司令部の権力構造は、大きく転換した。グレゴリ・マルタン総司令官は、部下たちに逮捕され、改革派による新しい指導体制が、確立されたのだ。


 その新しい指導体制の中で、テレースは、特別な地位を得ていた。彼女は、改造人間プロジェクトの正当な後継者として、月光司令部の再構築において、重要な役割を果たすことになったのだ。


 だが、テレース自身は、その地位に執着していなかった。彼女が望んでいたのは、ただ一つ。真実に基づいた世界の構築。そして、自由。


 三日目の夜、セレーネドームの観測室で、テレースは、地球を見つめていた。


「美しい」


 テレースが、呟いた。


 怜桜も、その隣に立っていた。


「地球ですか」

「そうです。私は、地球を見たことがありません。ですが、地球班の記録を読んで、地球がどのような星であるのか、理解できました」


 テレースは、その青い星を見つめ続けた。


「隕石衝突は、人工的なものだったという説があります。ですが、今、地球は、再生の過程にあります。人類は、その地球と向き合う必要があります」

「では、どうするのですか」


 怜桜が、尋ねた。


「改革派は、地球への関与を再開する予定です。隠蔽から、対話へ。支配から、共生へ」


 テレースは、その計画を述べた。


「その過程で、私も、役割を果たします。ですが、それは、私の意思です。強制ではなく、選択」


 テレースは、地球から目を離さずに、そう言った。


「私が、四十五年前のエドガー・フライシャー博士に、何を求めているのか。それが、わかるような気がします」

「何ですか」

「希望です。被造物としての人間が、自由を得た時、何を選択するのか。その答えが、人類の未来を決定する。それが、博士の信念だったのだと思います」


 テレースは、その時点で、四十五年前に眠りに就く前に、自分が何を考えていたのか、思い出したのかもしれない。あるいは、眠りの間に、無意識のうちに、何かを考え続けていたのかもしれない。


 いずれにせよ、彼女は、今、完全に目覚めていた。


 そして、その目覚めが、人類全体の目覚めの始まりになるのだ。


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