第三話
トンネル内の空気は、思ったより澄んでいた。
だが、その清潔さは、不自然なものだった。あたかも、何らかのシステムが、四十五年間、ずっとこの空間を保守してきたかのような印象を受ける。
懐中電灯の光が、前方へ伸びていく中で、怜桜は自分たちがどれほど深く、月光司令部の秘密へ進もうとしているのか、改めて認識した。防護スーツのシステムが、かすかな音を立てながら、彼の酸素供給を継続している。
「足もとに注意してください」
ヘレナが、前方を進みながら、警告した。
「床は、長年の放置により、部分的に崩落している可能性があります」
三人は、慎重に前へ進んだ。トンネルを進むにつれて、やがて、人工的な構造物の痕跡が現れ始めた。
まず、床が、単なる岩から、整形されたコンクリートへと変わった。次に、壁に、かすかな配線が見えるようになった。そして、その先には、巨大な金属製の扉が現れた。
『TRAITOR PROJECT FACILITY - RESEARCH COMPLEX ALPHA』
扉に刻まれた文字を見た時、怜桜の心臓が高鳴った。
「ここだ」
ヘレナが、静かにそう呟いた。彼女の声には、この場所を訪れることへの、複雑な感情が込められていた。後悔か、決意か、あるいはその両方か。
「扉は、電力で制御されているようだ」
アレンが、扉の側面にある、制御パネルを調べた。
「だが、四十五年前から電源が入っていない可能性が高い。手動で開く必要があるかもしれない」
三人は、扉を力ずくで押してみた。初めの抵抗は大きかったが、やがて、金属音をたてながら、扉は徐々に開いていった。その過程で、かつてのシステムが、かすかに反応した。内部のライトが、ぼうっと点灯し始めたのだ。
その先に広がっていたのは、巨大な地下空間だった。
施設の内部は、四十五年間、人間を失ってから、かなりの劣化が進んでいた。
複数の建造物が、地下空間に配置されていた。それらは、研究棟、居住棟、そして、何らかの保管施設と思われるものだ。だが、そのすべてが、長年の放置により、ボロボロになっていた。
「かなり前から、誰も来ていないんだ」
怜桜は、床に積もった、厚いほこりを見て、呟いた。
その時、彼の足が、何かに引っかかった。
見ると、それは、人間の骨だった。
怜桜は、その発見に、激しく息を吸い込んだ。
「死体だ」
アレンが、その骨の状態から、推測した。
「腐敗の進み具合から見て、四十五年近く前のものだろう。損傷の具合から判断すると…」
アレンは、骨をさらに詳しく観察した。
「衝撃外傷。それも、かなり強い力が加えられたものだ」
ヘレナが、その骨を慎重に調べた。
「恐らく、プロジェクト終了時に、この施設から脱出できなかった職員だ」
施設の内部を進むにつれて、同じような遺骨が、複数発見された。いずれも、人間のものだ。通路の角には、折られた懐中電灯。床には、裂かれた衣服。壁には、暗い液体の痕跡。
すべてが、この場所で何か悲劇的なことが起こったことを、物語っていた。
「何があったのだ」
怜桜が、ヘレナに尋ねた。
「プロジェクト終了時の混乱」
ヘレナは、淡々と説明した。その声には、この事実を幾度となく、確認してきたであろう、疲労が滲んでいた。
「エドガー・フライシャー博士は、異常生物制御システムの機能喪失を認識した。つまり、飼育されていた異常生物個体が、制御不能に陥ったのだ」
「飼育…?」
アレンが、その言葉に反応した。
「つまり、このプロジェクトの目的は、異常生物そのものについて、研究していたということですか」
「そうです。そして、その研究の過程で、エドガーと彼のチームは、興味深い発見に達した」
ヘレナは、施設の中枢棟へ向かった。
「異常生物の行動は、単なる本能的なものではなく、ある程度の知性を示していた。特に、個体A-0001という特別な個体は、非常に高い自我を形成していた。その個体が、制御システムに反抗し始めたのです」
「個体A-0001…」
怜桜は、その番号に注意した。あの飛行型個体。ニューヨークを襲った個体も、恐らくこれと関連しているはずだ。
「その結果、プロジェクトは終了を余儀なくされ、すべてのスタッフに対して、脱出指示が下された。だが、その脱出過程で、制御を失った異常生物が暴走し、施設内で多くの職員が亡くなったのです」
ヘレナは、さらに詳細を説明した。
「エドガー・フライシャー博士は、自ら最後の対異常生物爆破装置を作動させると宣言し、施設内に留まった。彼の決定を尊重して、残りのスタッフは脱出し、以後、この施設は封鎖されました」
研究棟の内部は、まさに時間が停止したかのような光景だった。
机の上には、古いコンピュータが放置されたままだ。壁には、複雑な図表や、生物構造図が、貼られている。床には、複数のファイルが散乱していた。
「データベースが、まだ稼働しているかもしれない」
アレンが、メインコンピュータのバッテリーバックアップシステムを調べた。
「バックアップ電源が、まだ動いている。恐らく、自動充電システムが、これまで機能していたんだ」
アレンは、コンピュータを起動させた。起動に要した時間は、数分。その間、スクリーンは、かすかな電子音を発しながら、ブートプロセスを進めた。
やがて、ログイン画面が表示された。
「パスワード保護か」
アレンは、何度か試行した。彼の分析眼と、コンピュータセキュリティに関する知識を駆使して、可能性のあるパスワードを試していった。
一般的な日付。人物の名前。科学用語。それらを組み合わせた複数のパスワードが試行された。
そして、五度目の試行の時、スクリーンが反応した。
『ACCESS GRANTED』
スクリーンに表示されたのは、膨大なデータだ。それは、プロジェクトの実行記録。個体ごとの生体情報。そして、制御プログラム。
「ここに、すべてがある」
アレンは、その膨大な情報に、圧倒されていた。
ヘレナは、特定のファイルへのナビゲーションを行った。彼女の動作は、迷いがなかった。恐らく、彼女は、このシステムに関する情報を、既に持っていたのだろう。
『異常生物個体製造プロセス』
そのファイルを開くと、複雑な生物学的プロセスが記録されていた。それは、放射線環境での自然進化を促進するための、複数の実験的手段の記録だ。
「見て」
ヘレナが、別のファイルを指差した。
『改造人間プロジェクト:概要』
その言葉を見た時、怜桜の呼吸が、一瞬止まった。
「改造人間…?」
「異常生物プロジェクトと並行して、別のプロジェクトが存在していました」
ヘレナが説明した。その語調は、教科書的で、感情的な起伏がなかった。だが、その底流には、深い悲しみが流れているように感じられた。
「それが、改造人間プロジェクト。異常生物を制御し、同時に月光司令部の指示に絶対に従う、人間改造個体の製造です」
アレンは、そのファイルを詳しく読み始めた。彼の眼が、次第に大きくなっていった。
「これは…」
アレンが、呟いた声には、深い衝撃が込められていた。
「何だ」
怜桜が尋ねると、アレンは画面を彼に向けた。
そこには、改造人間個体の一覧が表示されていた。
個体A-0001から、個体A-0010まで。合計十体。
そしてその隣には、各個体のステータスが記録されていた。
『成功個体:A-0001、A-0002、A-0003、A-0004、A-0005』
『失敗個体:A-0006、A-0007、A-0008、A-0009、A-0010』
「失敗個体A-0006の詳細情報」
ヘレナが、そのファイルをクリックした。
するとスクリーンに表示されたのは、一人の少女の画像だ。
年齢は、推定十六歳。褐色の肌と、翠色の瞳。その顔には、明らかに人間的な表情が浮かんでいた。柔らかく、知的で、そして、どこか悲しげな瞳をしていた。
『改造人間個体A-0006:失敗型個体』
『失敗理由:感情システムの過度な発達。正常な制御プログラムでの操作困難と判定』
『製造目的:異常生物集団の統合的制御。高度な判断能力を備えた個体として設計。だが、倫理的感情の発達により、当初の目的から逸脱した個体形成が確認された』
『推奨処置:廃棄。ただし、プロジェクト終了のため、処置未実行。現在のステータス:保管中』
「この子は…」
怜桜は、その少女の顔を見つめた。何か、心を揺さぶる感覚を覚えた。
「失敗型個体A-0006。彼女は、他の九体と異なり、ただ一体、人間らしい感情を完全に保持するように改造されました」
ヘレナが説明した。
「他の成功型個体は、制御のために、感情を極度に抑制されています。だが、個体A-0006は、その逆。完全な人間らしい感情と、高度な知能を持つ個体として、設計されたのです」
「なぜ、そのような矛盾した設計を…」
アレンが質問すると、ヘレナは首を振った。
「それは、私にもわかりません。ただ、プロジェクトの記録から推測するに、エドガー・フライシャー博士の独断的な判断だったのでしょう。彼は、何か理由があって、この個体を特別に設計したのです」
ヘレナは、さらに別のファイルを開いた。
『エドガー・フライシャー博士の研究日誌より:2045年4月23日』
『個体A-0006の製造を完了した。この個体は、最初の計画では、失敗作として廃棄されるはずであった。だが、私は、彼女を生かすことを決定した』
『なぜか。それは、人類の未来のためだ。単なる兵器ではなく、真の意味で、人間らしい判断ができる存在。そのような存在が、もし自由を得たなら、彼女は、何を選択するのか。その答えが、人類の行く末を決定するかもしれない』
『彼女を保管し、いつかの日のために、温存する。それが、私の最後の願いだ』
怜桜は、その日誌を読んで、深く考えた。
つまり、エドガーは、この少女を、単なる兵器ではなく、人類の未来を試すための、一つの希望として、設計したのだ。
恐ろしい真実
怜桜たちは、さらに奥深いファイルへアクセスした。
そこには、プロジェクト終了日誌が保存されていた。
『異常生物プロジェクト及び改造人間プロジェクト終了日誌』
『最終日付:2045年6月15日』
『本日、異常生物制御システムの完全な機能喪失を確認。フェーズ3(野放し段階)への移行に失敗した』
『異常生物個体の知能進化速度が、予測を大きく超過した。特に、個体A-0001は、非常な知能を示し、自我の形成を開始している』
『その他の個体についても、同様の傾向が観察される。放射線環境という極限条件が、予想以上に生物の進化を促進させたのだと考えられる』
『制御不能と判定し、施設スタッフ全員の撤退を命じた』
『エドガー・フライシャー博士は、自ら最後の対異常生物爆破装置を作動させると宣言し、施設内に留まった。彼の決定を尊重し、施設からの全員撤退を実行した』
『改造人間成功個体5体は、月への輸送が決定された。彼らは、異常生物制御の最終兵器として、月光司令部の直下に配置される予定である』
『改造人間失敗個体5体についても、月への輸送が決定されたが、プロジェクト終了に伴い、以下のように判定された』
『個体A-0006は、人間的感情の発達が著しく、制御困難と判定。当初廃棄予定であったが、エドガー博士の遺言により、生命維持装置での保管が決定。場所:セレーネドーム最下層Sublevel 7』
『その他の失敗個体については、廃棄処分を実行した』
『プロジェクトは、公式には、隕石衝突による施設の損壊により、終了したこととする』
『以上』
その日誌を読み終わった時、怜桜は、自分たちが直面している真実の重大さを、完全に理解した。
「つまり…」
怜桜は、ゆっくりと言葉を組み立てた。
「隕石衝突は…」
「自然災害ではなく、何か計画されたものだった可能性が高い」
ヘレナが、その言葉を補足した。
「あくまで、ここに記録されているデータから推測すると、月光司令部と関連する組織は、地球での異常生物に関する研究を、意図的に進めていました。そして、その研究の過程で、地球の環境に対して、何らかの操作を加えた可能性があります」
「では、隕石衝突そのものが…」
アレンが、その含意を理解した。
「確実ではありません。ですが、ここの記録には、隕石衝突の日時が、非常に正確に記録されています。もし、隕石衝突が自然現象であれば、これほどの正確性は、一般的ではありません」
怜桜は、その言葉の意味を咀嚼した。
つまり、隕石衝突は、月光司令部によって、何らかの方法で、引き起こされた可能性があるのだ。
「では、地球の人類が…」
「計画的に、地球から排除された。そして、月へ移住させられたという可能性があります」
ヘレナは、静かに言った。
「理由は、何か。地球の環境問題。人口問題。あるいは、異常生物の研究に邪魔だったから。詳細な理由は、ここには記録されていません」
施設の奥へ向かった時、彼らは、最も衝撃的な発見をした。
保管施設の内部には、複数の生命維持装置が配置されていた。それらは、人間サイズの、カプセル型の構造をしていた。
「これは…」
怜桜が、そのうちの一つに近づいた。
その生命維持装置の窓には、人間の形が見えた。少女の形。
そしてその顔は、研究棟で見た、改造人間個体A-0006の顔と同じだった。
「個体A-0006が…」
怜桜の声は、震えていた。
「ここに…」
「そうです」
ヘレナが、その生命維持装置の表示パネルを確認した。彼女の指の動きに、かすかな震えが見えた。
「個体A-0006は、四十五年間、この装置の中で生存しています。バイタルサインはすべて正常です。脳波も、活動を示しています」
「生きているのか…」
アレンが、呟いた。
「そして、彼女は、月へ送られたのではなく、ここに保管されていたのです。しかも、月光司令部の秘密施設ではなく、地球のこの施設に」
ヘレナは、複雑な表情を浮かべた。
「理由は、不明です。だが、恐らく、その感情システムが、月光司令部にとって危険だと判定された結果なのだと推測されます。あるいは、エドガーの遺言により、この場所での保管が実現されたのかもしれません」
怜桜は、その少女の顔を見つめた。
四十五年間の眠り。その間、この少女は、何を夢見ていたのか。自由か。解放か。それとも、何も感じていなかったのか。
生命維持装置は、一定のリズムで、かすかな音を立てていた。心臓の鼓動のようなその音は、この少女が、確かに生きていることを示していた。
「では、これからどうするのか」
アレンが、実際的な質問をした。
「この情報を、月光司令部に報告するのか。それとも…」
アレンの言葉は途中で止まった。だが、その含意は明確だった。
報告すれば、彼らは、この秘密を守る側になる。隠蔽の一部になるのだ。
だが、報告しなければ、彼らは、月光司令部に対する背反者になる。
「報告する」
怜桜は、決定を下した。
「ただし、月光司令部に報告する前に、自分たちで完全に理解する必要がある。そして…」
彼は、生命維持装置の中の少女を見つめた。
「この個体A-0006が、今後、どのような役割を果たすのか。それも、考えておく必要がある」
アレンが、その計画に頷いた。
「そうだな。ここに保管されていた理由があるはずだ。月光司令部が、わざわざこの個体を生かし続けているということは、何か目的があるはずだ」
ヘレナが、さらに詳細なデータを検索した。
そこには、個体A-0006に関する、複数の追加ファイルが存在していた。
『個体A-0006覚醒条件』
『個体A-0006は、特定の音声コマンドにより、生命維持装置から覚醒させることが可能である。覚醒プロセスは、約三時間を要する』
『覚醒後の個体は、完全な人間としての認識と、高度な知能を保有する。同時に、トレイター群との脳波共鳴能力を備えている』
『この能力により、個体A-0006は、トレイター群を直接的に制御することが可能である。この能力は、月光司令部の最高指導層によってのみ、知られている』
怜桜は、その情報を読んで、深く考えた。
つまり、この少女は、単なる失敗作ではなく、月光司令部の秘密兵器として、温存されていたのだ。
「では、この個体を覚醒させるべきか」
アレンが、そう呟いた。
「いいえ」
ヘレナが、即座に言った。
「今はまだ、時期ではありません。月光司令部が、この個体の覚醒を望むなら、彼ら自身が実行するはずです」
怜桜は、その判断に頷いた。
三人は、施設内の複数のデータを、記録装置にダウンロードした。
トレイター・プロジェクトの詳細。改造人間プロジェクトの詳細。そして、個体A-0006についての完全な情報。
すべてが、記録され、彼らの手の中にあった。
地表へ戻る途中、バギーの通信システムが反応した。
月光司令部からの通達だ。
『橘中尉、ウィルソン副官、カーター博士へ。ロッキー山脈調査に関する緊急通達。調査を即座に中止し、ニューヨーク郊外防衛基地へ帰還すること。繰り返す。調査を中止し、帰還すること。なお、この通達の受信確認を要請する』
その通達は、何度も繰り返された。
「警戒されたのか」
アレンが、そう呟いた。
「恐らく、我々の施設へのアクセスが、検知されたのだろう」
ヘレナが答えた。
「だが、これは想定内です。月光司令部が、私たちをこのロッキー山脈へ送り込んだのであれば、彼らは、我々が何を発見するのか、ある程度予測していたはずです」
「では、急ぎましょう」
怜桜は、バギーの速度を上げた。
地球の荒野は、次第に加速する。ロッキー山脈の遠い光景。そして、その先には、月光司令部との対峙が待っていた。
彼らは、月光司令部の秘密を知った。そしてその知識は、彼らの人生を変えてしまったのだ。
もう、戻ることはできない。
前へ進むしかない。
基地への帰還。そして、その後の決断。
それらすべてが、彼らの未来を決定することになるのだ。
そして、四十五年間、眠り続けた少女の運命をも。




