第二話
ニューヨーク郊外の防衛基地での、最初の三日間は、怜桜にとって、徹底的な学習期間だった。
彼は、地球班での実務経験がなく、月の観測所でのオペレーション業務しか経験していない。だが、地球での活動には、月での経験だけでは対応できない、多くの実践的な知識が必要だった。
「まず、地球での放射能レベルについて、理解する必要がある」
その教育を担当していたのは、防衛基地の放射線測定技官・マリア・サンタナだ。彼女は、四十代後半の女性で、地球での長年の経験を持っていた。
怜桜は、彼女の指導の下で、複雑な防護スーツの着用方法を学んだ。それは、単なる防護服ではなく、地球の過酷な環境で生存するための、複合的なシステムだった。
「このスーツの各部分には、複数のセンサーが組み込まれている」
マリアは、怜桜の肩に、スーツの一部を指差した。
「これが放射線レベルを計測するセンサー。これが気温と湿度。そして、これが酸素濃度と、外部環境の化学成分の検出器」
「複雑ですね」
怜桜は、そのシステムの複雑さに、圧倒されていた。
「月では、すべてが人工的にコントロールされている。だから、こんなことは必要ない。だが、地球は違う。自然が、あるいは、放射能汚染が、すべてを支配している」
マリアの言葉には、地球への深い経験と、同時に、畏敬の念が込められていた。
「そして、もう一つ、君が知っておくべきことがある」
マリアは、防護スーツの着用を完了させた後、怜桜を基地の別の区画へ連れて行った。
そこは、武器庫だ。複数の銃器、爆発物、そして、近接戦闘用の武器が、整然と並べられていた。
「地球での活動では、防護スーツの他に、武装が必要だ。異常生物との遭遇は、常に可能性として存在している」
マリアは、一丁の銃を怜桜に渡した。それは、月光司令部の標準装備である、エネルギーライフル。小型で、非常に高火力だ。
「これは…」
怜桜は、銃の重さを感じた。月の観測所では、このような武器を持ったことはない。
「重いだろう。だが、この銃が君の命を救う可能性は、高い」
マリアは、その銃の使用方法を、丁寧に説明した。その説明は、理論的であり、同時に、極めて実践的だった。
怜桜は、マリアの指導の下で、銃の操作を練習した。射撃訓練。照準の精度。予測と調整。その過程で、彼の身体が、次第にその武器に順応していった。
感情的で、行動的な怜桜の性質は、この実践的な訓練に、予想外に適していたのだ。
三日目の夜、怜桜は、基地の宿泊区画で、アレンと対面した。
アレンは、彼をプライベートな場所へ導き、複数のファイルを見せた。その顔には、深い思考の跡が刻まれていた。
「怜桜。君に見せたいものがある」
アレンは、彼を基地の奥にある、セキュリティの高い部屋へ連れて行った。そこは、個別の分析室で、外部からの信号をシャットアウトできるように設計されていた。
「ここなら、監視カメラの死角だ。思う存分、話ができる」
アレンは、複数のファイルを開いた。そこに映し出されたのは、異常生物に関する、複数の分析データだ。
「俺が、月光司令部の公開データベースから、時間をかけて収集した情報がある」
アレンは、一つのファイルを指差した。
「異常生物の進化に関する論文だ。複数の論文が存在するが、そのすべてが、同じ人物を著者としている」
怜桜は、そのファイルに目を通した。
『放射線環境下における生物適応パターンの研究』
著者:エドガー・フライシャー博士
著作日:2043年~2044年
「このエドガー・フライシャーという人物。俺が調べたところ、四十五年前から、その名前の記録が完全に消えている」
アレンの分析は、極めて冷静だった。
「つまり、この人物は、何らかの理由で、月光司令部の正式な記録から削除されているということだ。だが、同時に、その人物による論文は、月光司令部の公開データベースに、今もなお存在している」
「これは、矛盾だ」
怜桜は、そのことに気付いた。
「そう。何か大きな事実が、隠蔽されているはずだ。それに…」
アレンは、さらに別のファイルを開いた。
「ロッキー山脈の地下には、四十五年前から、月光司令部の秘密施設があるという情報を、俺は発見した」
「秘密施設…?」
「ああ。正式な記録には存在しないが、予算報告の断片的な言及がある。それらを組み合わせると、ロッキー山脈の地下約五百メートル地点に、大規模な施設が存在する可能性が高い」
アレンは、複数のドキュメントを表示した。予算表、人事記録、物資輸送の記録。それらすべてが、ロッキー山脈方面への、何か大規模なプロジェクトの存在を示唆していた。
「だが、その施設への詳細情報は、機密指定レベル9だ。君が月の観測所で見たのと同じレベルの隠蔽だ」
怜桜は、アレンの分析に、息を呑んだ。
つまり、月光司令部は、何か極度に重大な秘密を、ロッキー山脈の地下に隠蔽しているのだ。そして、その秘密は、異常生物の出現と関連しているのだろう。
「では、ロッキー山脈に調査に向かうべき、ということですか」
怜桜が尋ねると、アレンは慎重に答えた。
「俺たちが、月光司令部に無断でそれを行えば、反逆罪に問われる可能性がある。だが…」
アレンは、窓の外を見つめた。基地の奥には、地球の大地が広がっている。
「俺たちが、その秘密を知らなければ、月光司令部に操られ続ける。そして、人類全体が、その秘密の代償を払わされ続けるかもしれない」
「では、調査に向かいましょう」
怜桜は、即座に決定した。
「ただし、月光司令部に報告する前に、自分たちで真実を確認する。事実がなければ、報告できないし、報告したら何が起こるのか、予測もつかない」
アレンは、彼の決定に頷いた。
「同意だ。ロッシ中将に、ロッキー山脈への調査許可を申請する。公式な理由は、飛行型個体の行動パターン分析のため、ということにしよう」
ロッシの許可
翌日の昼間、怜桜とアレンは、ロッシ中将の執務室へ向かった。
そこは、基地の中核部分に位置する、厳重な警備に守られた部屋だ。ロッシは、その後ろの大きな机に座り、彼らを見守っていた。
「ロッシ中将。ロッキー山脈への調査許可を申請したいのですが」
怜桜が申請の趣旨を述べると、ロッシは、ほぼ即座に承認した。その反応の速さから、怜桜は、ロッシが何か知っているのではないかと、疑いを持った。
「ロッキー山脈への調査か。いいだろう」
ロッシは、簡潔に答えた。
「だが、同行者として、もう一名、参加させる」
「誰ですか」
アレンが尋ねると、ロッシの執務室のドアが開いた。
そこには、一人の女性が立っていた。年齢は、推定四十代後半。白衣を着ており、研究者としての雰囲気を放っていた。
「ドクター・ヘレナ・カーター。生物学及び進化生物学の専門家で、この基地における、生物関連情報の最高責任者だ」
ロッシが紹介した。
ヘレナは、怜桜たちに厳しい眼差しを向けた。
「私は、地球班における、生物現象に関連する秘密情報の管理者です。あなたたちが、何を調査しようとしているのか、私はある程度、推測しています」
その言葉は、怜桜に大きな衝撃を与えた。
つまり、ロッシもヘレナも、彼らの意図を、最初から知っていたのだ。
「では、なぜ…」
怜桜が質問しかけると、ヘレナが答えた。
「なぜなら、あなたたちが知るべき時期が、今だからです。月光司令部の隠蔽は、あまりに長く続いています。そして、その隠蔽の時間が、もうすぐ終わろうとしています」
ヘレナの言葉は、暗号めいていた。だが、その中に、怜桜たちが求めていた承認がこもっていた。
「では、ロッキー山脈への調査は」
アレンが確認すると、ロッシが答えた。
「公式な許可だ。そして、私からのアドバイスとして、君たちが発見したものを、月光司令部に報告する前に、その事実を完全に理解することだ」
「なぜですか」
怜桜が尋ねた。
「なぜなら、事実を完全に理解しなければ、月光司令部の説明を、信じることはできないからだ。また、その事実を知った時点で、君たちは、もはや単なる兵士ではなくなる。その責任を背負う覚悟ができているか、しっかり考えるんだ」
ロッシの言葉には、深い意味が込められていた。
出発の前夜、怜桜は、宿舎でアレンと計画を練った。
地形図。気象情報。放射能レベルの分布。それらのデータを集めて、彼らは、ロッキー山脈への最適なルートを決定した。
「三日間あれば、秘密施設に到達できる計算だ」
アレンが、地図上で指を動かしながら、説明した。
「往路三日、滞在一日、復路三日。合計七日間。月光司令部への報告までに、充分な時間がある」
「それに、ヘレナも同行する」
怜桜が述べた。
「彼女が同行するということは、月光司令部が、ある程度、俺たちの調査を黙認しているということだろう」
「そういうことだ」
アレンは、頷いた。
「ロッシにしても、ヘレナにしても、月光司令部の中で異議派なのかもしれない。権力層の秘密に反対する立場の人間たちだ」
その夜、怜桜は、眠ることができなかった。
彼の心は、焦燥感に満ちていた。秘密施設で何が待っているのか。エドガー・フライシャーとは何者なのか。そして、隕石衝突とトレイター個体の出現にどのような関連があるのか。
すべての謎が、ロッキー山脈の地下に隠蔽されているはずだ。
四日目の朝、怜桜、アレン、そしてヘレナの三人は、ロッキー山脈へ向けて出発した。
基地から提供されたバギー型の乗用車は、地球での荒野を移動するために、特別に設計されていた。放射能遮蔽の強化、複雑な地形での走破能力、そして、異常生物との遭遇に備えた装甲。それらすべてが、このバギーに統合されていた。
移動の途中、ヘレナは、運転席のアレンに話しかけた。
「ウィルソン副官。あなたは、エドガー・フライシャーという名前に、心当たりはありませんか」
アレンは、その質問に注意を払った。
「いいえ。月光司令部の公開データベースには、その人物に関する情報がほとんど存在しません。非常に古い論文が数編あるだけです」
「そうですね」
ヘレナは、窓から地球の荒野を見つめながら、話を続けた。
「エドガー・フライシャーは、四十五年前の重要な研究プロジェクトに関わった人物です。その過程で、彼は、人類の通常の倫理基準を超えた研究を実施しました」
「どのような研究ですか」
怜桜が尋ねた。
「異常生物の研究」
ヘレナの答えは、簡潔であり、同時に、慎重だった。
「具体的には、隕石衝突後に地球に出現した異常生物の、進化メカニズムの研究です」
「進化メカニズム…」
アレンが、その言葉を反復した。
「つまり、トレイター個体がどのように進化するのか、その過程を研究していたと」
「そうです。そして、その研究の過程で、フライシャーは、興味深い結論に達したのです」
ヘレナは、窓を閉じた。外部との通信を遮断する行為だ。
「異常生物の進化速度は、自然進化では説明できないほど速い。それは、何らかの外部要因が、その進化に影響を与えている可能性を示唆しています」
「外部要因…」
怜桜は、その言葉の含意を理解しようとしていた。
「つまり、誰かが、異常生物の進化に、意図的に干渉している可能性があるということですか」
ヘレナは、長く沈黙した。そして、ゆっくりと答えた。
「その可能性は、存在します。だが、その事実を証明する証拠は、ロッキー山脈の地下施設に保存されているはずです」
ロッキー山脈の麓に到達するまでに、さらに二日を要した。
その過程で、三人は、複数の奇妙な痕跡を発見した。巨大な足跡。折れた樹木。そして、奇形した植物。それらすべてが、飛行型個体の通過の跡を示していた。
「個体は、確実にこの方向に移動している」
アレンが、追跡データを分析しながら、呟いた。
「そして、その目的地は、恐らく、この山脈の奥深くだ。でなければ、ここまで遠くへ移動する理由がない」
バギーは、険しい山道を登っていった。その過程で、怜桜は、地球の自然の圧倒的な力を、感じることができた。月の人工的な環境では経験できない、自然の息吹。それは、同時に、恐ろしくもあり、美しくもあった。
風が吹き、樹木が揺れ、地面が鳴る。すべてが生きているかのような感覚。
「地球って、本当に何か生きてるみたいだ」
怜桜が、呟いた。
「そうです」
ヘレナが、応じた。
「月は、人間が構築した人工的な世界です。だが、地球は、人間が出現する前から、何十億年も生きてきた世界です。その歴史の重さが、この空気から伝わってくるのです」
やがて、彼らは、異変を目撃した。
それは、山の斜面の一部が、人工的に掘削されたトンネルの入口だ。通常の自然の洞窟ではなく、明らかに機械で掘られた形跡がある。そして、その入口の傍には、かすかに見える、金属製のプレート。
ヘレナが、バギーを停止させた。
「ここだ」
ヘレナが、そう言いながら、バギーから降りた。
「トレイター・プロジェクト・ファシリティ。四十五年間、月光司令部によって隠蔽されてきた施設」
怜桜は、その名前を、自分の中で反復した。トレイター・プロジェクト。その名前が、これほどの秘密を隠蔽しているのだ。
「では、中へ…」
三人は、防護スーツのチェックを行い、トンネルへ向かった。
懐中電灯の光が、奥へ向かって伸びていく。その先には、何が待っているのか。
それは、彼らの人生を、大きく変えることになる。
そして、同時に、人類全体の歴史を、問い直すことになる。




