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月光のしおり  作者: 翠蓮草


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第一話

初投稿です。

初日の今日は三話分、明日以降は一日一話、毎日18時更新で進めていきます。

 西暦2086年。月軌道衛星セレーネドーム。

 

 深夜の観測所は、人間のぬくもりがほとんど感じられない、冷徹で整然とした空間だった。薄暗い照明の下で、複数の大型モニターが、壁一面に並んでいる。そこに映し出されるのは、地球の衛星画像。くっきりとした輪郭を持つ大陸、白く渦巻く雲、青く輝く海。それらすべてが、色鮮やかなビジュアルとして、観測所の中に存在していた。


 橘怜桜(たちばなれお)は、その映像群の中に身を置き、静かにモニターを見つめていた。

 月光司令部地球班のオペレーター。それが、彼の正式な肩書きだ。二十五歳という若さで、この職務に就いているのは、彼の能力が認められた証だった。だが、深夜の観測所での業務は、通常、退屈なものだ。地球の放射能レベルが安定していることを確認し、異常がないことを記録する。それの繰り返し。


「まあ、平穏なのはいいことか」


 怜桜は、コーヒーのカップを手に取り、小さく呟いた。その声は、観測所の静寂の中に、かすかに吸収されていく。

 観測所の設計は、すべてが効率を優先したものだ。床材は、音を消すようにデザインされた吸音材。壁は、完全に白で統一されており、心理的な圧迫感を最小化するように計算されている。そして、モニター画面からの光が、唯一の色彩を提供していた。


 怜桜は、自分がこの場所を好きになれないまま、ここで働いて三年が経つことに、ため息をついた。感情的で、行動的な彼にとって、このような静寂に満ちた環境は、ある種の拷問に近かった。


「地球の光景を見るのはいいんだけどな…」


 彼は、モニター画面の一つに、目を向けた。そこには、青い海と、褐色の大陸が、幾何学的な図案のように広がっていた。かつて、人類の大多数が暮らしていた場所。今では、放射能汚染地帯として、人間の立ち入りが禁止されている場所。


 地球。


 それは、人類にとって、同時に懐かしくも、恐ろしくもある存在だった。

 

 怜桜は、地球の光景を見つめながら、自分がなぜ、月光司令部に配属されたのかを、改めて考えた。それは、彼の適性試験の結果だった。地球へのその他の職員にはない強い関心。観察眼。そして、判断能力。それらが、月光司令部上層部の目に止まり、地球班への配属が決定されたのだ。


 だが、本当のところ、怜桜がこの職務に向いているのかどうか、彼自身もよくわかっていなかった。


「ん…?」


 その時、彼の視線の隅に、かすかな異変が映った。


 それは、微細な変化だった。モニター画面の一つに、北米大陸の上空で、わずかな


 赤い光点が、点灯した。それも、ほんの一瞬。


 怜桜は、その光点に集中した。


 モニター画面を詳細に分析するモードに切り替える。複数の計算式が、画面上に展開された。それは、衛星からの放射線検出データを、リアルタイムで処理するシステムだ。


「これは…」


 怜桜の心臓が、高鳴った。


 赤いドット。それは、放射線異常反応を示す表示だ。通常、そのような反応は、月光司令部が常時監視している地点に現れるはずがない。地球は、四十五年前の隕石衝突以来、放射能汚染地帯として、厳密に管理されているのだから。


 怜桜は、すぐさま、レポートファイルを開いた。


『異常観測記録:2086年4月2日午前3時15分』

『北米大陸北東部(推定地点:ニューヨーク周辺)で高度な反応を示す生物個体を検出』

『個体分類:Cクラス飛行型と推測。反応強度:高。移動速度:時速60km程度。方向性:北西方向』

『現時点での評価:要警戒。月光総司令部への報告推奨』


 怜桜は、そのレポートを入力し、送信ボタンを押した。


 その瞬間、観測所内のアラームが、鳴り響いた。

   ウウウウウ…

 けたたましい音。それは、彼が今まで仕事をしている間に、一度も聞いたことのない音だった。


「これは…」


 怜桜は、立ち上がった。その瞬間、観測所のドアが、自動的に開いた。


 月光司令部副司令官・佐藤則之が、急速に観測所に入ってきた。年配の男で、顔には深いしわが刻まれていた。彼は、月光司令部で三番目の権力者だ。


「橘中尉。異常報告の詳細を、教えてくれ」


 佐藤の声は、落ち着いていたが、その内側には、深い緊張が隠されていた。


「副司令官」


 怜桜は、敬礼した。


「北米大陸北東部で未確認の生物個体の反応を検出しました。通常の放射能背景よりも、はるかに高い強度の反応です」

「未確認の生物個体…」


 佐藤は、その言葉を反復した。彼の表情が、微かに硬くなった。


「Cクラスの飛行型という分類は…」

「初めての観測です。これまで、飛行能力を持つ個体は報告されていません」


 怜桜の答えに、佐藤は深く沈黙した。

 副司令官は、怜桜の隣に立ち、モニター画面を見つめた。


「君の分析では、この個体の現在地は」

「約三百キロメートル北西で、継続移動中です。このペースだと、推定一時間以内に

 ニューヨークに到達すると予想されます」


 怜桜は、冷静に報告した。だが、彼の心臓は、激しく動悸していた。この状況が、通常でないことは明らかだった。

 佐藤は、通信端末を起動させた。


「月光総司令部に緊急通達。異常生物報告。未確認の飛行型個体、ニューヨーク方面へ移動中。防衛部隊出動を要請する」


 その通信の後、観測所は、より一層、緊張に包まれた。


 怜桜が月光司令部に配属されて以来、彼が知っていることは、限定的だった。


 トレイター。それは、四十五年前の隕石衝突以来、地球に出現した生物だ。隕石衝突によってもたらされた放射線環境に、驚異的な速度で適応した、凶暴な肉食生物。通常は四足歩行で、体長は五メートル程度のCクラスが、最も一般的だ。放射能汚染という極限環境が、自然進化を加速させたのだと考えられている。


 だが、飛行型トレイターは、確認されたことがない。


 観測所のベテラン職員たちは、トレイターについて、かなり詳細な情報を持っていた。彼らの話によれば、トレイターは、隕石衝突後の放射線による自然進化の産物であることは間違いないという。だが、同時に、その進化の速度が、予想外に速いという話も、しばしば聞こえてきた。


「おかしい」


 怜桜は、心の中で呟いた。


「もし、トレイターが自然進化なら、飛行能力を持つ個体が出現するには、もっと時間がかかるはずだ。四十五年は、進化的には、あまりに短い。それに、一般的な進化論では説明できない速度で、複数の新種が確認されている」


 彼は、観測所のコンピュータシステムにアクセスした。月光司令部のデータベースから、トレイター関連の情報を検索した。


 ヒットしたのは、複数の論文と、観測記録だった。

 その中に、彼の目を引いたものがあった。


『トレイター進化過程分析』

 著者:エドガー・フライシャー


「誰だ、この人は…」


 怜桜は、著者の名前を検索した。だが、結果は、ほとんどヒットしなかった。わずかに、極度に古い論文が、いくつか出現しただけだ。その論文の日付は、四十五年前だった。


『放射線適応生物の進化パターン予測』

 著者:エドガー・フライシャー博士


 怜桜は、その論文を開こうとした。だが、その瞬間、エラーメッセージが表示された。


『アクセス権限なし。このドキュメントは、機密指定レベル9』


 機密指定レベル9。それは、月光司令部でも、ほとんどの職員がアクセスできないレベルだ。総司令官とそのごく近い側近だけが、そのレベルの機密情報にアクセスできるはずだった。


 怜桜は、その事実に気付いた。つまり、トレイターについて、月光司令部は、何か重大な秘密を隠蔽しているのではないか、という疑念だ。


「待て。これ以上の詮索は危険かもしれない」


 怜桜は、その思考を打ち消した。月光司令部では、秘密指定情報への無許可アクセスは、厳格に禁止されている。その違反は、懲罰を意味する。


 だが、その瞬間、観測所の通信端末から、新たな緊急通達が入ってきた。


『地球班オペレーター・橘怜桜。月光総司令部からの緊急指令。本日深夜の夜勤をもって、月光司令部地球班からの異動が決定された。異動先:地球・ニューヨーク郊外防衛基地。出発予定時刻:本日午前4時30分。以上』


 怜桜は、その通達を読んで、驚いた。


「今日…? 異動は突然だし、時期も…」


 通常、人事異動は、数日前から予告される。だが、この異動は、ほぼ即座に実行されようとしていた。それは、彼の異変を発見する直後だった。


 偶然だろうか。それとも、何か意図的な意思が働いているのか。


 怜桜の直感が、警告を発していた。だが、月光司令部の指令に逆らうことはできない。彼は、自分の仕事を整理し、出発の準備を整えることにした。


 ルナ・ハブ。月軌道ステーションの補給基地だ。


 怜桜は、地球への定期シャトルに乗り込んだ。同乗者は、自分の他に、二人の月光司令部スタッフだけだ。通常の定期便では、十人以上が乗り込むはずだが、この便は異常に少ないメンバーだった。


「どうなってるんだ…」


 怜桜は、シャトルの窓から月を見つめながら、呟いた。


 月軌道ステーションから月へ向かう景色は、何度見ても美しかった。ドーム都市ヘ

カテー。そして、より大きなセレーネドーム。さらに、小規模な二つのドーム。それらすべてが、月面に配置され、人類の第二の故郷を形成していた。


 だが、その美しさの下に、何か暗い秘密が隠蔽されているのではないか。そのような予感が、彼の心の中で、むくむくと膨らんでいた。


「中尉。大丈夫ですか」


 シャトルのパイロットが、彼に声をかけた。パイロットは、年配の男で、何度も地球との往復を経験しているようだ。


「ええ。平気です」


 怜桜は、答えた。だが、その答えは、実際のところ嘘だった。彼の心は、落ち着かなかった。


 シャトルは、月の軌道から離脱し、地球への軌道に入った。


 その過程で、怜桜は、通信ウィンドウを操作し、自分の個人用メールにアクセスした。そこには、唯一の親友からのメッセージがあった。


『ウィルソン・アレン:怜桜へ』

『地球への異動、おめでとう。羨ましいな。僕は相変わらず、月光司令部の研究部で、データ分析をしている。ところで、怜桜。君の観測が引き金になったらしい。北米でのトレイター異常報告。防衛部隊が緊急出動したって聞いたよ。君の仕事がいかに重要か、改めて認識させられるね。地球で安全に過ごしてくれ』


 アレン。彼は、怜桜の相棒だ。月光司令部の研究部に属し、データ分析を専門としている。彼は、怜桜と同じくらい優秀だが、性格は対照的だ。冷静で、分析的で、感情的な動きを避ける傾向がある。


 怜桜は、そのメールを読んで、複雑な感情を覚えた。彼のメッセージから、何かを察している様子が窺えたのだ。


『返信:怜桜より』

『アレンへ。ありがとう。でも、何か変だ。異動が急すぎるし、タイミングがおかしい。何か知ってることがあったら、教えて。君の分析眼を信頼してる』


 怜桜は、そのメッセージを送信した。

 

 アレンからの返信は、すぐには来なかった。


 シャトルは、地球への着陸進路を取っていた。窓から見える地球は、次第に大きくなっていった。青い星。その表面には、かつての文明の痕跡が、わずかに残っているはずだ。


 だが、四十五年前の隕石衝突と、その後の放射能汚染により、地球は、人類にとって、もはや故郷ではなく、危険な戦場へと変貌していた。


 地球への着陸は、予定時刻よりも三十分早く実行された。


 ニューヨーク郊外の防衛基地は、怜桜が想像していたよりも、はるかに大規模だった。複数の施設が、地下壕のような構造で、地表下に隠蔽されている。そこは、純粋な軍事施設であり、同時に、地球での人間活動を支える重要なハブだった。


 基地の指揮官は、ジェームズ・ロッシ中将だ。年配の男で、地球での長年の経験を、顔に刻んでいた。


「橘中尉。ようこそ。我々の基地へ」


 ロッシは、彼を握手で迎えた。その握手の力は、思ったより強かった。


「ありがとうございます。で、私の任務は何でしょうか」


 怜桜は、直接的に質問した。


「それなのだが…」


 ロッシは、彼を奥の部屋へ導いた。そこには、複数の大型スクリーン、計算機、そして、複数の職員がいた。


「これが、戦術分析室だ。君は、ここで、地球での異常生物対策を、サポートすることになる」

「異常生物対策…」


 怜桜は、その言葉に反応した。

「つまり、トレイター対策ですね」

「そうだ。だが、今回の異常生物出現は、通常の事案ではない。飛行型個体の出現は、これまで予測されていなかった。君のような新しい視点が、この問題解決に必要だと、月光総司令部は判断したのだ」


 ロッシの説明は、一見、筋が通っていた。だが、怜桜の直感は、それだけではない何かが隠蔽されていると、警告していた。


 その時、戦術分析室のドアが開いた。


 一人の青年が現れた。年齢は、推定三十前後。顔立ちは整っており、眼光は非常に鋭かった。


「あ、おい。怜桜、来たんだ」


 その青年は、怜桜に笑顔を向けた。だが、その笑顔は、どこか不自然に見えた。


「アレン…!」


 怜桜は、その青年を認識した。


 それは、ウィルソン・アレン。彼の相棒だった。だが、彼が、地球班に異動しているなど、彼は知らなかった。


「お前はいつから、ここに…」

「三日前だ」


 アレンは、静かに答えた。


「月光総司令部から、急遽、ここへの異動を命じられた。何か企まれているのか、それとも偶然なのか。わからんが…」


 アレンは、怜桜の耳に口を寄せた。その声は、極度に低い。


「何か、おかしい。月光司令部の上層部は、俺たちを意図的に地球へ送り込んでいる。その理由が何であるかは、まだわからない。だが、警戒を怠るな」


 怜桜は、その言葉を受け止めた。彼の分析と直感は、彼の警戒心と一致していた。


 つまり、彼たちは、何か大きな計画の一部に、組み込まれているのだ。その計画が、何であるかは、まだ明らかではない。だが、それは、人類の未来に関わる、重大な事柄のはずだった。


「では、異常生物対策は」


 ロッシが、再び声をかけた。


「北米地域での飛行型個体の追跡を開始する。君たちの役割は、その個体の生態と行動パターンを分析することだ」


 ロッシは、大型スクリーン上に、飛行型トレイターの衛星画像を映し出した。


 その画像は、怜桜が観測所で見たものと同じ個体だ。体長十メートル、翼幅十五メートル。その巨体は、通常の進化パターンでは説明できない形態だった。


「この個体を知ることが、君たちの最初の任務だ」


 ロッシの指示は、明確であり、同時に、多くの疑問を含んでいた。

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