見えない微笑み(インビジブル・スマイル)
下の試験場では大騒ぎが起こっていたが、上の観覧席は水を打ったように静まり返っていた。
呉雄士、呉桃花、そして二人の長老は、誰も言葉を発せなかった。
口を開けるのは、呉愛蓮だけだった。
「まあまあ。すごかったじゃありませんか。ねえ、老公?」
彼女が夫に声をかけると、呉雄士はまるで呆けから覚めたように瞬きをした。
妻へ視線を向け――
その唇が、ほんのわずかに動いた。
気づける者はほとんどいないほど小さな、小さな動きだったが、
間違いなく、そこには笑みがあった。
呉愛蓮は満足げににっこりと笑い返した。
「そうだな。あやつは、この半年で大きく成長した。」
呉愛蓮は胸を張った。
「でしょう? あなたったら、昔“あの子は気が弱すぎて大成しない”なんて言ってたのよ。ちゃんとこの瞬間を覚えておいてね。」
呉雄士はわずかに顔をしかめた。
「……しかし、あの頃は本当に、家のためになるほど強くなるとは思えなかったのだ。」
彼は氏族長であり、氏族全体を守る責務を負っている。
自分の息子だからといって特別扱いするわけにはいかない。
公平であることこそが氏族長の義務であり、
もし偏った態度をとれば、氏族内の秩序は崩壊する。
「だからといって、無視して、もっと“価値のある子”――例えば、呉勇を鍛える方がいいと判断したってわけ?」
呉愛蓮の視線が呉桃花へと向く。
呉桃花はその視線を冷たい無表情で受け止め、何も言わなかった。
呉愛蓮は彼女を嫌っているわけではない。
だが――
二人が決して相性の良い関係ではないことは、誰の目にも明らかだった。
呉愛蓮は明るく自由奔放で、毎日を楽しむことを信条としている一方、
呉桃花は冷静沈着、常に合理と効率を重視し、呉愛蓮のような感情表現は
“氏族に不要な弱さ”だと考えていた。
「こんなこと、あり得ん……」
呉偉が呆然と呟いた。
「どうしてあんな虚弱だった少年が、こんな短期間であれほどの力を得られるというのだ?」
疑いを込めて、彼は呉雄士へ鋭く視線を向けた。
「……まさか、お前が手助けしたのか?」
呉雄士の声は氷のように冷たかった。
「貴様、我が氏族の掟を破り、試練を乗り越えていない者を私が優遇したとでも言うのか?」
「い、いや……まさか。」
呉偉は慌てて首を振り、先ほどの発言を撤回した。
「すまぬ。ただ、あまりのことに動揺しているだけだ。外部の助力もなく、あそこまで強くなるなど……通常では考えられん。」
呉家には、惜しみなく錬丹薬を買えるだけの財力はない。
錬丹薬は、武者が最も効率よく力をつける手段ではあるが、
限られた資源は“才能と覚悟を示した者”にだけ与えられる。
努力し、道を切り開こうとする者には資源を与える価値がある。
そうでない者に与える余裕など、この家にはない。
「安心しろ。私は一切、呉簡を手助けしていない。」
呉雄士は、微動だにせず嘘をついた。
この真実を知るのは、彼と呉愛蓮だけ。
呉愛蓮に頼まれた彼は、己の私蔵の錬丹薬をこっそりと息子に渡していた。
そして――
呉簡が呉美瑩と共に西牙山へ忍び込み、
銀蓮 を手に入れたことも黙認していた。
呉雄士は、家長として家族への情を決して表に出せない。
情に流されれば、氏族の判断が歪み、秩序が崩壊する。
平等であり、公正であり、個人的な感情を排除しなければならない。
だが――
それでも、彼には一つだけ弱点があった。
呉雄士の――
唯一の弱点。
それは、呉愛蓮だった。
本来、彼と呉愛蓮が結ばれるはずなどなかった。
彼女はただの村娘にすぎず、彼が旅の途中で偶然出会っただけ。
しかし二人は恋に落ち、
呉雄士は前当主の反対を押し切って彼女を家に連れ帰り、妻とした。
当時、それが許されたのは――
呉雄士が次期当主ではなかったからだ。
次の当主になるはずだったのは、呉偉である。
呉偉は何度も呉雄士に、
「氏族の血を濃く保つため」
「家の格を守るため」
と、氏族内部の娘との婚姻を強要した。
だが呉雄士は、そのたびに拒否した。
最悪の事態が起きたのは、
呉偉が呉愛蓮の修行を廃する――つまり、彼女を“婚姻にふさわしくない存在”にしようとした時。
その瞬間、呉雄士の逆鱗が弾け飛んだ。
彼は怒りに任せて呉偉へ決闘を申し込み、
徹底的に叩きのめし――
そのまま当主の座を奪い取ってしまった。
もし旧当主が呉偉を庇わなければ、
呉雄士はあの日、彼を殺していただろう。
呉雄士と呉偉の関係は昔から最悪だった。
ただし、呉偉がいま「大長老」として座っていられるのは、
旧当主が下した判断のおかげだ。
旧当主は呉偉の行いを
「軽率ではあるが、氏族のためを思っての行動」
と見なして処罰を軽くし、
一年の独房幽閉 だけで済ませた。
それ以降、呉偉は表向きなら問題を起こしていない。
氏族の利益だけを考えて動いているように見える。
証拠がない以上、
呉雄士は彼を追放できなかった。
それを許せば、
氏族内部に亀裂が走る可能性があったからだ。
「呉簡が強くなったとすれば、
それは全て本人の努力によるものだ。
私は一切、手を貸していない。」
呉雄士が断言すると、
呉偉は穏やかな老人のように微笑んだ――
だがその笑みの裏には、深い闇が渦巻いていた。
呉愛蓮には、それが手に取るように分かった。
「では、強さの試験を続けよう。」
呉桃華が静かに言った。
「うむ。……呉孔!」
と、呉晋素が次の受験者の名を呼んだ。




