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岩の乙女(いわのおとめ)

俺とメイは、いつものように図書館にいた。

鍛錬を終えて、授業を受けて、一日の締めくくりに読書をする――これが俺たちの日課だ。

ウー・イエイェが貸してくれた本のタイトルは『岩の乙女』。

親切で優しい漁師に恋をした少女・リン・リーが主人公で、

彼女はその男と結婚するが、ある日、夫が海で行方不明になる。

それでも彼女は希望を捨てず、海を見下ろす断崖の上で夫の帰りを待ち続け、

その姿に心を痛めたデワ境の修行者が、彼女を石へと変えてしまう。

やがて夫は帰ってきて、石となった妻を見つけ、

彼女を元に戻してほしいと修行者に頼み込み――物語は幕を閉じる。

「この話…本当に、いい話だよな…」

俺はつぶやきながら、目元をこする。

泣いてなんかない。これは…そう、目の汗だ。

「そう思うの?」

メイが眉を寄せ、本に穴があきそうなほどじっと睨んでいる。

「え? 思わないのか?」と俺。

メイは唇を尖らせたまま、視線をページから外さない。

「うーん…なんか…好きになれない…」

何がそんなに気に入らないのか、俺にはまったくわからなかった。

すごく良い話じゃないか。強い修行者だって心がある、って証明してるし。

「なぁ、メイ。もし俺がある日突然いなくなったら…待ってくれるか?」

俺が尋ねると、メイは勢いよく胸を張った。

「もちろん待つわ! 永遠にでも待ってあげる!」

少し恥ずかしいけれど、そんな言葉が胸の奥を温かくしてくれた。

「へへっ。俺もだよ。メイのためなら永遠にだって待てる。」

そう言いながら、俺は首を傾げて考え込んだ。

「でもさ、人を石に変えるなんて本当にできるのかな?」

「んー、どうかしらねぇ…」

メイは頬に指を当てて考え込む。

「できなくはないと思うわ。大地属性に秀でてる修行者っているじゃない? その中でも、ものすごく強い人なら、人を石に変えるくらい朝飯前かも。でも…大地属性って普通は身体強化が得意じゃなかった? うーん…でも強すぎる地の親和を持ってたら、そういうこともできるのかもしれないわね。」

「じゃあ、ウー・イエイェに聞いてみる?」と俺。

「ダメよ。」メイは即答だった。

「イエイェには迷惑をかけちゃうし、たぶん答えられないもの。」

ウー・イエイェはこの図書館にある本を全部覚えていると言われるほどの物知りだ。

俺は他に聞く相手が思い浮かばなかったが、メイが“No”と言うなら、そうなのだろう。

メイほど知識があって、先の未来まで見える人はいない。

俺たちは本を閉じ、図書館の入口付近にある机へ持っていく。

ウー・イエイェはいつもの優しい笑みで出迎えてくれた。

「もう読み終わったのかい?」

「どうだった?」と尋ねてくる。

「とても面白い話でした!」

俺は笑顔で答えた。

一方のメイは腕を組んで不満げに鼻を鳴らす。

「でも納得できません。どうしてデワ境の修行者が、わざわざ彼女を石にして、夫が帰ってきたらすぐ元に戻すんですか? 何の見返りも求めずに? 強者ってもっと傲慢なはずでしょ? あれじゃただの便利屋さんです」

図書館に静かに響くメイの辛辣な評論に、

ウー・イエイェは目を瞬かせ、困ったように笑った。

これがメイがこの物語を嫌がっていた理由なのか?

言われてみれば、確かに変だ。

デワ境の修行者が、見返りもなくあんなことをするだろうか?

デワ境は“真の強者の領域”と言われている。

俺とメイが暮らすシャング王国には、その境地に達した修行者は一人もいないが、大きな国や宗門では軍の中核となる存在だ。

王朝には百人以上のデワ境修行者がいると言われているし、強大な宗門の中には「デワ境に達していなければ門下に入れない」というところまである。

多くの修行者にとって、デワ境とは“神へ至る第一歩”でもあった。

「はっはっはっ」

ウー・イエイェは笑いながら言った。

「確かにお前さんたちの指摘は面白い。民話というのは理屈が合わないものが多いからのう。ましてや、デワ境のような強者が“無償で何かをする”なんて、常識的に考えてありえん。彼らは我々とは違う次元の存在だ。弱者を気にかける理由は何一つない。

——では、なぜ誰かがこんな話を作ったのか?

お前さんたちはどう思う?」

俺は黙っていたが、横を見るとメイが眉間にしわを寄せて考え込んでいた。

何を考えてるんだろう。

俺にも一応、思うところはあるけど……メイの答えが気になって口を開けない。

メイの眉間のしわがふっと消えた。

「理由は二つ考えられます!」

「おお?」

白い眉をぴくりと上げるウー・イエイェ。

興味津々という顔だった。

まあ当然だ。

メイは同年代どころか、大人よりも頭がいいから。

「ひとつ目の理由は――人は“自分たちより強い存在に救われたい”と思っているからです。

その強い存在が本当は自分たちに興味がなくても、強い修行者が弱い人を助けてくれる、なんて物語を作るのは“希望が欲しい”からです。」

ウー・イエイェは頷きながら顎ひげを撫でた。

「人間は希望なくして生きられんからのう。なるほど道理だ。

では、もうひとつの理由とは?」

メイは息を吸い込み、困ったように笑った。

「もうひとつの理由は……こういう“いい話”を作るよう誰かに頼まれたからです。

つまり、強い修行者を“優しい存在”に見せかけるための宣伝ですね。

私たちの世界では、強さこそがすべて。強き者は弱き者を踏みにじる権利さえ持っています。

そんな世界で、デワ境の修行者が見ず知らずの夫婦を助けるなんて……普通考えられません。

明らかに分不相応です。

これは修行者を“慈悲深い存在”に見せるために作られた物語だと思います。」

――そんな発想、俺には一切なかった。

でも、メイが言うなら正しいんだろう。

……だけど、本当に、すべての修行者がそんな冷酷なのか?

俺はどうしてもそうは思えなかった。

だって、もし修行者という存在が全員“最低”だったら、この世界はもっと無秩序で地獄みたいな場所になっているはずだ。

ウー・タオフアが教えてくれたところによれば、修行者の役目は“強力な魔獣や災厄から人々を守ること”でもある。

力を使う代わりに、民からは神のように崇められる――そういう関係らしい。

……でも、それでも。

“どこかの知らない夫婦を、デワ境の修行者が助けるか?”

という疑問には、まだ答えが出なかった。

「君は思っていたよりずっと冷静で、そして……シニカルだな。」

ウー・イエイェは引きつった笑みを浮かべ、顎ひげを撫でながら言った。

「だが、まぁ……間違ってはいない。

修行者は一般人を“ある程度”守るが、だからといって民の問題を優先するわけではない。

普通の人間をわざわざ害することはしないが、見返りもないのに助けるような善人は稀だ。

これだけは覚えておきなさい。

修行の世界は残酷だ。強者だけが自由を得る。

自分の歩む道を自分で選びたいなら、強くならねばならん。」

「心に刻んでおきます」

メイは真剣な顔で頷いた。

「俺も……肝に銘じます」

俺も同じように頷いた。

「よろしい。では、もう帰りなさい。

明日は大事な日だ。ゆっくり休むのだぞ。」

ウー・イエイェは、いつもの祖父のような優しい眼差しで俺たちを見送り、図書館を後にした。

外に出ると、夕日がゆっくりと西牙山の向こうに沈んでいくのが見えた。

その光を眺めながら――俺はあの日の恐怖を思い返した。

あの斑雪獅スポッテッド・スノー・ライオンに襲われた時のこと。

そして、自分がどれほど無力だったかという事実。

胸の奥で羞恥と悔しさがじわじわと広がる。

魔獣は、同じ境界の修行者より基本的に強い。

理由は知らない。でも、それが事実だ。

母によれば、あの斑雪獅は阿修羅境・第二段階に到達していたという。

父より一段階上。

だからこそ、父とタオフア叔母の二人がかりでようやく倒せた。

しかも、あの魔獣は最後まで粘り、戦い抜いた。

もし父かタオフア叔母が単独で相対していたら……間違いなく死んでいただろう。

そう考えると――背筋が冷たくなる。

俺の軽率さが、父を殺していたかもしれない。

その恐怖が、改めて胸に重くのしかかった。

――強くならなきゃいけない。

誰よりも強くなって、俺の大切な人たちを守れるように。

メイを――誰にも奪わせないために。

「明日は……武家の“試力式テスト・オブ・ストレングス”だな」

そう呟くと、メイが軽く頷いた。

「うん。そうだよ」

「俺……恥をかかずに済むぐらいには、強くなれてると思うか?」

不安を吐き出すと、メイは胸を張り、即答した。

「もちろんだよ!

だって、誰よりも努力してるもん。

それに錬丹れんたん薬の助けもあったし、すごく珍しい天然の宝まで使ったでしょ?」

メイは続ける。

「シルバーロータスについてもっと調べたんだけどね。

あれは冷たい陰気が一点に集まって結晶化した時に生まれるんだって。

身体を強化するだけじゃなく、体内の“穢れ”も浄化してくれるから、

もっともっと鍛えられるようになるんだよ」

「俺も似たようなことを読んだよ」

胸に手を当て、深呼吸をして吐き出す。

「……まぁ、明日になってみないと分からないな。

どうなるかは、やってみなきゃ」

「その通り! 明日の問題は明日の私たちに任せよ♪」

メイは明るく笑った。

その笑顔に、張り詰めていた胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。

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