↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/197

第32話 試力式の朝

翌朝、俺は早く目を覚ました。


隣では、いつの間にかメイがすやすや眠っている。


上体を起こして伸びをすると、肘や背中の関節がポキポキと鳴った。


軽くメイを揺らして起こそうとしながら、自分の稽古着に袖を通す。


濃い灰色の生地に、桜を抱く龍が巻きついた意匠――軽くて、肩にしっくり馴染むお気に入りだ。


「んんん〜……」


小さな寝息が聞こえて振り返ると、案の定、メイはまだ布団の中だった。


「メイ。メイ。起きる時間だぞ」


肩を軽く揺さぶる。


「んむぅ……ふぁぁ……ジエーン……もう朝なのぉ?」


大きなあくびをしながら、メイがとろんとした目で俺を見る。


「朝だよ。ほら、早く自分の部屋に戻らないと。ティエンティエンが様子を見に来るだろ? 部屋にいなかったら怒るぞ」


「はぁぁ〜……ここにいられたらいいのに」


「俺もそう思うさ。そうできたら、もっと色々楽になるしな」


ふらふらとベッドから降りたメイは、外套とガウンを羽織って近づいてきた。


手を差し出されたので、自然と握り返す。


そして――軽く唇が触れた。


「じゃあ、食堂でね♪」と、メイがにこっと笑う。


「うん。またあとで」


メイが去ったあと、俺は身支度を整え、外に出て食堂に向かった。


今日は少し寝過ごしたせいで、太陽はもう昇りきっていて、ぽかぽかした陽気が身体を心地よく温めてくれる。


食堂に入ると、すでに何百人ものウー一族の人間でいっぱいだった。


いつもの席に座ると、侍女が粥の椀を運んできたので――


「悪いけど、メイの分も一つ頼む」


そう頼むと、侍女はこくりと頷き、素早く奥へ戻っていった。


「ふん。来たんだな」


侍女が離れたあと、そんな声が降ってきた。


顔を上げると――ウー・ヨンが俺を睨みつけていた。


あの騒動からそこまで日数は経っていないはずなのに、俺にとってはずいぶん前のことのように感じる。


あの一件のあと、俺の中では色々なことが変わった。


けれど、ウー・ヨンの中では、俺への憎しみがさらに深まったらしい。


その横には、いつもの腰巾着二人――ウー・ミンとウー・フェイ。


腕を組んで、まるで俺がご先祖様を侮辱したかのような顔で睨んでくる。


……正直、まだ怖い。


長年いじめられてきた恐怖は、そんな簡単には消えない。


でも――それでも前に進むためには、逃げない選択をしないといけない。


「来るに決まってるだろ」


俺は答えた。


「挑んだのは俺なんだ。来ない理由があるか?」


「臆病風に吹かれたとか?」


ウー・ヨンが嘲るように口角を上げた。


「……それは、前の俺だよ」


小さく、けれどはっきりと答える。


「前の俺は……お前が怖かった。今も怖い。だけど――もう逃げない」


その一言が、なぜか奴の神経を逆撫でしたらしい。


ウー・ヨンの顔がみるみる赤紫になり、ズカズカと歩み寄ってきて、俺の真上に影を落とした。


氷のような双眸――ぞくりと背筋が震えた。


思わず逃げ腰になりそうになる心を抑えるために、太ももを思い切りつねる。


痛みが、俺の意志をつなぎ止めてくれた。


――もう、昔の俺じゃない。


「ほぉ? 逃げないって言うのか?」


ウー・ヨンの唇が、意地の悪い弧を描いた。


「じゃあ――なんで震えてるんだよ?」


悔しい。


――悔しいけど、身体が勝手に震える。


拳を握りしめる。


震えを止めようとしても、唇まで震えてしまう。


怖い。


本当に、心臓が潰れそうなくらい怖い。


けれど――


それでも俺は、もうこのままではいたくなかった。


この恐怖が、俺の未来を奪うのはもう嫌だ。


「見ろよ! まだ俺が怖ぇんだ!」


ウー・ヨンが勝ち誇ったように声を上げる。


「腰抜けだな!」


「赤ん坊みたいに震えてるじゃん!」


横でウー・ミンとウー・フェイがケラケラ笑いながら囃し立てる。


悔しさで顔が熱くなる。


涙が出そうになるのを必死にこらえる。


逃げたい。


耳を塞いで走り出したい。


――でも、逃げたら終わりだ。


食堂は、今や水を打ったように静まり返っていた。


ここにいる全員が、俺とウー・ヨンの勝負を知っている。


“どう出るのか”を見ている。


視線が刺さる。


絶対に笑っている。


俺を見下している。


目を閉じてしまえば楽だ。


だけど、俺は――閉じない。


歯を食いしばり、俺は立ち上がった。


震える膝を押さえ込み、ゆっくりとウー・ヨンへ振り返る。


たった一つの思いだけが胸にある。


逃げない。


強くなる。


そのために、今ここで立たなきゃいけない――!


もし俺が強くなれなければ――


俺は一生、家の恥のままだ。


もし俺が強くなれなければ――


父上は俺を誇りに思うことはなく、母上はずっと俺を哀れむだけだ。


もし俺が強くなれなければ――


メイが俺の前から消えてしまう。


誰かに奪われて、二度と会えなくなる。


――そんなの、絶対に嫌だ。


その想像だけで、胸の奥の恐怖が押し返された。


逃げたくても、逃げられなくなった。


「……負けたあとに、好きなだけ俺を笑えばいいさ」


言葉が喉に引っかかったけれど、それでもなんとか絞り出して言った。


ウー・ヨンも、ウー・ミンも、ウー・フェイも――ぴたりと笑いを止めた。


冷たい視線が一斉に俺へ向けられる。


食堂全体が静寂に包まれた。


誰も喋らない。


誰も食べない。


息を潜め、全員がこの瞬間を見守っていた。


「……いいだろう」


ウー・ヨンが奥歯を噛みしめながら言った。


「なら“力比べ”で決めてやる。忘れるなよ、ジエン・ニャンパオ。お前のその減らず口――全部飲み込ませてやる」


“ニャンパオ”は男を女々しいと侮辱する言葉だ。


その呼び方をするというだけで、ウー・ヨンがどれだけ俺を見下しているかよく分かる。


ウー・ヨンは鼻を鳴らし、「行くぞ」と言って食堂の奥へ向かった。


ウー・ミンとウー・フェイが後に続く。


その途中、ウー・フェイだけがふと振り返り、妙な眼つきで俺を見た。


何か言いたげだった。


でも結局何も言わず、再び向き直ってウー・ヨンたちの後を追っていった。


ウー・ヨンたちが離れていったあと、俺はようやく大きく息を吐き、椅子に沈み込んだ。


心臓がバクバクとうるさい。


そのとき――


「今の、とても勇敢だったわね」


やわらかい声が隣から聞こえた。


「メイ……」


ウー・メイインがにこーっと笑って、俺の横に座る。


「本当にすごかったわよ、ジエン。皆の前で、自分をいじめてきた相手に正面から立ち向かうなんて、そう簡単にできることじゃないわ」


頬が熱くなるのを感じた。


「ありがとう。でも……たいしたことじゃないよ」


「ふふん。強がっちゃって。そういうところ、結構かわいいわよ?」


メイインは得意げに言ってから、手を合わせた。


「さ、食べましょ。もうすぐ“力試し”が始まるし、体力をつけないと」


「だな」


二人で静かに朝食を食べ始めた。


周囲ではざわざわと会話が広がっていく。


ほとんどが俺の話題だ。


――また見られてる。


何を言われているんだろう。


勇気を出した俺を褒めている?


それとも、震えていた俺を笑っている?


気になる。


でも、知りたくない。


(俺は……いつか、この弱い心を克服できるのかな?

いつか、もっと強くなれるのか?)


横目でメイインを見る。


彼女は周囲の視線なんてまったく気にしていない。


(メイみたいになりたい。

誰の目も気にせず、自分のままでいられるように……)


そんなことを考えているうちに、朝食は終わった。


すると、ウー・ジンスが食堂へ入ってきた。


その瞬間、場の空気が一変し、全員の視線が彼へ向かう。


「皆、ついてきなさい。まもなく“力試し”を始める」


ジンスの言葉に、食堂にいた子どもたちが一斉に立ち上がった。


彼を先頭に、男の子も女の子もずらりと列を作り、俺たちはウー一族の屋敷の北側へと向かって歩き始めた――。


ウー一族の“力試し”は、一族の屋敷の外で行われる。


俺たちは北門――本門よりも小さな門――をくぐり、木々に囲まれたでこぼこ道を歩いていった。


しばらく歩くと、崖に張り出した大きな段丘が見えてくる。


ここは西牙山ではなく、もう少し手前にある小高い山で、歩いて数分ほどの距離だ。


そこに広がるのが、ウー一族の強さを測るための試験場だった。


山肌を削って造られた円形の競技場で、十八歳以上の武者たちが座る観覧席もある。


さらにその奥には、ウー一族全員が座れるんじゃないかと思えるほど大きな第三観覧席がどっしりと構えていた。


すでに父上、母上、タオフア叔母上、そして三長老のうち二人が最上段の雅な東屋の下に座っていて、そこから競技場全体を見渡せるようになっていた。


ウー・ジンスもそちらへ向かい、空いている席に腰を下ろした。


俺とメイイン、それに十八歳未満の子どもたちは階段を下りて試験場へ入っていく。


試験場はほとんど何もない、石張りの広い空間だった。


その一番奥には階段があり、そこを上ると巨大な黒い立方体が鎮座している。


大人の背丈の二倍はあろうかという、黒曜石のような立方体。


俺たちはこれを何度も見てきた。


半年に一度、ウー一族の子どもたちはここに連れてこられ、そこで腕力と身体能力を測るのだ。


俺はごくりと唾を飲んだ。


胸がうるさいほど脈打ち、手のひらがしっとりと汗ばんでくる。


――本当に……大丈夫なんだろうか?


これまで何度もそう思ってきたが、今日ほど強く思ったことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。