覚悟を固める時
しばらくして、俺は目を覚ました。
部屋の雨戸を開けると、夕日が差し込んでくる。
……どうやら、夕食の時間はとっくに過ぎていたらしい。
もっとも――
今の状況で、それがどれほど意味を持つのかは別の話だ。
(そもそも、全員に行き渡るだけの食料が残ってるのか……?)
物資は減っている。
食料も例外じゃない。
(あと何日持つ……?)
少し考えて――やめた。
(……まあ、どのみち長くはないか)
体を鍛えるのはやめておいた。
だが、柔軟だけは欠かさない。
こういう時こそ、身体の調子は整えておくべきだ。
姿勢を正し、息を吸う。
そして、吐きながら上体を倒し――
指先でつま先に触れる。
十秒ほどそのまま維持し、ゆっくりと身体を起こす。
続けて、太腿の筋肉を伸ばす動きへ移る。
そんなふうにストレッチをしていると――
コンコン、と扉が叩かれた。
「剣児? まだ寝てるの?」
「起きてるよ、母上。どうぞ」
引き戸が開き、母上が入ってきた。
……ひどく疲れている。
目の下には濃い隈。
背中も少し丸まっていて、頬もこけていた。
呉少林と並ぶ、呉家の主力治療師。
俺なんかより、はるかに忙しい。
しかも母上は修行者だ。
水の気質を持っていて、治癒には最適。
だからこそ――
前線に出られない分、後方で酷使されている。
「……ちゃんと休めてるのか?」
母上は微笑んだ。
……だが、その笑みはどこか疲れている。
「休めるときには休んでるわ。でも……正直、全然足りてないと思う」
小さく息を吐く。
「それはともかく――あなたに用があるの」
少しだけ真剣な顔になる。
「父上が呼んでるわ。陶花阿姨と長老たちと一緒に、今後どうするかを話し合っているの」
「……俺を?」
「ええ。あなたにも来てほしいって」
「分かった。すぐ支度する」
今の俺は下着姿だった。
黒いズボンを履き、袖のない上着を着る。
その上から黒の漢服を羽織り、帯でしっかり締める。
準備を終えると、母上と一緒に家を出た。
向かう先は会議堂だ。
中に入ると――
すでに父上、陶花阿姨、そして長老たちが揃っていた。
俺と母上が入った瞬間、全員の視線がこちらへ向く。
「来たか、剣。こっちに来て座れ。腹も減っているだろう」
父上が手招きする。
その隣には、一人用の机と座布団が用意されていた。
机の上には――
白米に、肉。
それと、簡単なつけだれ。
その瞬間だった。
――ぐぅぅぅ……
腹が、遠慮なく鳴った。
(……最悪だ)
耳が熱くなるのが分かる。
周囲から、くすっとした空気が漏れる。
……いや、ほとんどの人は笑ってる。
父上だけは――
……たぶん笑ってるんだろうけど、分かりづらい。
あの人、基本ずっとあの顔だからな。
「……腹は減ってる」
素直に認めた。
「なら食え」
父上は短く言った。
「先に食べなさい。私はまだやることがあるから」
母上が俺の頭に手を置いて、軽く撫でる。
そのまま踵を返し、部屋を出ていった。
俺は引き止めなかった。
そのまま席に向かい、腰を下ろす。
箸を手に取り、食事に向き合う。
……質素だ。
今まで食べた中でも、間違いなく一番簡素な食事。
だが――
ほぼ一日食べていなかった俺には、
それでも十分すぎるほどの“ご馳走”に見えた。
米と肉を掴み、たれにくぐらせる。
そのまま、口に運んだ。
……味は、薄い。
それでも――
妙に、うまかった。
そんなことを思いながら食べていると、周囲ではすでに話し合いが始まっていた。
「防御はどれくらい持つ?」
父上が問いかける。
「……まだ持っています。しかし――長くはありません」
大長老・呉錦蘇が苦々しく首を振った。
「あと一日……もって二日でしょう」
小さく息を吐く。
「そもそも、あの結界は長期間の防衛を想定したものではありません。それに……長年使われていなかったことで、符もかなり劣化していました」
少しだけ苦笑する。
「正直に言ってしまえば……あれが今まで機能していたこと自体、奇跡のようなものです」
……厳しいな。
そう思った瞬間――
さらに重い言葉が続いた。
「問題は、それだけではありません」
師範――いや、三長老・呉林が口を開く。
表情も声も、重い。
「医療物資はすでに底をつきました。食料も、ほとんど残っていません」
静かな声で告げる。
「一族全員を養えるだけの食料はありません。おそらく……あと一日も持たないでしょう」
……最悪だ。
「このままでは、何もせずとも飢えで滅びます」
呉家は――
ここまで長引く包囲戦を想定していなかった。
備蓄していた食料も、あくまで“緊急時用”の量。
それも――
包囲が始まる前の話だ。
包囲戦。
外部との補給を断ち、時間をかけて消耗させる戦い。
敵の最初の突入は失敗した。
明申、巨石孫、そして呉明が討たれたことでな。
その後も何度か攻撃はあったが――
すべて退けている。
だが――
それでも状況は、好転していない。
突入がことごとく失敗したことで――
烈虎門、明家、巨石家は方針を変えたらしい。
力攻めではなく、消耗戦。
俺たちを“干上がらせる”つもりだ。
……もし準備ができていれば、ここまで追い詰められることはなかった。
(完全に、読みが甘かったな)
普段、呉家は月に一度、街へ出て物資を補充している。
それに加えて、農地からの収穫で一族全員を養い、
余剰分は売っていた。
だが――
この包囲が始まったのは、ちょうど月末。
つまり、もともと備蓄は少ない状態だった。
その上――
農地まで毒を盛られていた。
あれが敵の意図だったのかは分からない。
だが――
そんなことは関係ない。
結果は変わらない。
(……詰んでるな)
俺たちは、完全に追い込まれている。
「若者と戦えない者たちだけでも逃がすべきだ」
大長老が口を開いた。
「せめて、一部でも生き残らせる」
「……敵がそれを許すと思いますか?」
三長老がすぐに反論する。
「気分を害するつもりはありませんが――烈虎門が追撃部隊を出して、無力な者たちを皆殺しにする可能性は十分にあります」
淡々と続ける。
「連中には、その程度の戦力はあります。それに……安全な避難先が、近くにありますか?」
「周家に向かわせればいい」
大長老が言う。
だが――
「周家は中立を保たねばなりません」
二長老・呉孫が首を振った。
「我々を匿えば、それは商国に属する者への加担と見なされる可能性がある。制裁の対象になるでしょう」
きっぱりと言い切る。
「彼らは、そのリスクを負いません」
「では、どうしろと?」
苛立ちを隠さず、三長老が声を上げる。
「降伏して、情けをかけてもらうのを期待するのか?」
「それはない」
父上が即座に遮った。
声を強め、腕を振り下ろす。
「明家は、もはや不倶戴天の敵だ。奴らが情けをかけることはない」
一瞬、言葉を区切り――
低く続ける。
「……仮にかけたとしても、受ける気はない」
目に、強い意志が宿る。
「この呉幽士が、明翰などという下衆に頭を下げるくらいなら――死んだ方がましだ」
……さすがだな。
「となると、振り出しに戻るな」
誰かが呟いた。
俺は食事を終え、箸を置いた。
そのまま、議論に耳を傾ける。
……まとまらない。
三長老は、最後の一手として正面からの総力戦を主張している。
だが大長老は、それを自殺行為だと否定し、
戦える者が犠牲になって時間を稼ぎ、逃がすべきだと言う。
二長老は――
決めきれずにいる。
何を選ぶべきか、答えを出せていない。
ふと父上を見ると――
その目には、はっきりと疲労が滲んでいた。
まだ回復途中だ。
本来なら戦えない。
それでも――
一族をまとめるために、ここに立っている。
(……強いな)
胸の奥で、何かが燃えた。
父上は強い。
俺が欲しいと思っている“強さ”を持っている。
それは肉体の強さじゃない。
精神の強さ。
意志の強さだ。
こんな絶望的な状況でも――
折れない。
だから――
俺は口を開いた。
「……俺は、戦うべきだと思う」
その一言で――
場が静まり返った。
長老たちも、父上も、陶花阿姨も。
全員が、驚いたように俺を見ている。
……まるで、俺の存在を忘れていたみたいだな。
「なぜ、そう思う?」
父上が腕を組んで問いかけてきた。
「時間がない。それに、選択肢もないからだ」
俺は迷わず答える。
「逃げれば、追われる。逃げ切れるわけがない。全員、疲れ果てたところを狩られて終わりだ」
一拍置いて、続ける。
「ここに籠もり続けても同じだ。食料も医療物資も尽きかけてる。このままじゃ、餓死するだけだ」
そして、視線をまっすぐ向ける。
「でも――正面から戦えば、まだ可能性がある」
空気が少し張り詰める。
「敵の“頭”を叩く」
昔からある言葉だ。
蛇は頭を落とせば、体は動かなくなる。
一族や門派にそのまま当てはまるわけじゃないが――
指導者を失えば、士気は確実に落ちる。
それに、連中の主力は間違いなくそこにいる。
そこを削れれば、戦況は動く。
「理屈は分かるが……問題はそこだ」
大長老が腕を組み、眉をひそめた。
「本当に奴らの頭を落とせるのか?」
低い声で続ける。
「胡李、巨石峰、明翰、そして魏……全員が修羅境だ」
場の空気がさらに重くなる。
「こちらの修羅境は、私と幽士大人、そして陶花だけだ。だが幽士大人はまだ戦えん。陶花も……修為はそこまで高くない」
……確かに。
現実は、厳しい。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沈黙が続く。
そのとき――
陶花阿姨が、すっと手を挙げた。
一斉に視線が集まる。
「実は……少し前に、修羅境第九小境まで到達したの」
「なっ!?」
大長老が思わず声を上げる。
「いつの間にそんな実力に――!?」
陶花阿姨は肩をすくめた。
「そこまで最近じゃないわ。ただ、修為が安定していなかったから黙っていただけ」
少しだけ真剣な顔になる。
「でも……今回の連戦で丹田と経脈に相当な負荷がかかってね。それで、気合いで一気に突破した感じかしら」
軽く息を吐く。
「昨日、ようやく安定したわ」
「そんなことが……」
三長老が地面に手をつき、身体を預けるようにしながら呟いた。
「話には聞いたことがある。生死の境に追い込まれることで限界を超え、新たな力に目覚める……とな」
少しだけ首を振る。
「だが、実際に見るのは初めてだ」
その言葉に――
場の空気が変わった。
希望。
長老たちの表情が、わずかに明るくなる。
父上ですら、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
……すごいな。
正直、驚いた。
でも同時に――嬉しかった。
陶花阿姨は、父上の役に立つために毎日修行していた。
それが、ちゃんと実を結んだんだ。
だが――
「それでも、状況は有利とは言えません」
二長老が口を開く。
その一言で、空気がまた重くなった。
「陶花が第九小境に到達したとはいえ、まだ安定したばかりだ。一方で敵は、修羅境が四人。こちらは三人」
淡々と言い切る。
「数で劣っています」
……確かに。
それが現実だ。
せっかく生まれた希望が、また沈んでいく。
だが――
その空気は、長くは続かなかった。
バンッ!
扉が勢いよく開く。
そこに立っていたのは――
ニヤリと笑った、母上だった。
「全部聞いたわよ!」
「おい貴様! ノックというものを知らんのか!?」
大長老が怒鳴る。
だが母上は、まるで気にしていない。
完全に無視だ。
「状況は絶望的に見えるけど――」
そのまま、ずかずかと中に入ってくる。
「やりよう次第では、勝てるわよ?」
……その一言で、
大長老の顔がさらに赤くなった。
「……何を考えている?」
父上が眉をひそめて母上を見る。
母上はというと――
「ふふふ」
腰に手を当て、胸を張り、
まるで悪戯が成功した子猫みたいな顔で笑っていた。
……嫌な予感しかしない。
「正面からぶつかれば不利なのは事実よ。そこは否定しないわ」
あっさり認める。
だが――
そのまま、にやりと口元を歪めた。
「でもね?」
指を一本立てる。
「陶花が戦場に出る“前”に、敵を弱らせておけばどうかしら?」
その一言に――
父上と長老たちが顔を見合わせる。
……来たな。
間違いなく、母上の“ろくでもない策”だ。
そして――
大抵こういう時の母上は、
一番厄介で、一番当たる。




