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ファントム・パラレル  作者: 秋月キアラ
月光姫譚―眠り姫と黒猫の名前―
9/10

終章 宝石箱のオルゴール

 塔の奥にある白い小部屋には、宝石箱だけがあった。壁も、床も、空気さえも白い。けれど、それは病室の白とは違っていた。現実の病室の白は、消毒液の匂いと機械の音をまとっている。ここにある白は、長いあいだ閉じたままの記憶が、光を浴びずに色を失ったような白だった。窓はない。扉も、入ってきたはずの廊下も、振り返るたびに遠ざかっていくように曖昧だった。ただ、どこからともなく月光が差し込み、中央の小さな台だけを照らしている。その上に、宝石箱が置かれていた。古びた木箱。角の丸くなった蓋。小さな金具。表面に貼られた、幼い字のシール。メイ、と書かれている。少し曲がった字。丁寧に書こうとして、緊張した筆跡。メイはその字を知っていた。知っている。けれど、思い出したくなかった。思い出せば、この胸の中でかろうじて少年の形を保っている何かが、ほどけてしまう気がした。


 遠くで湖が鳴っている。赤く染まった水が塔の根を叩く音。姫とベレッタが沈んだ水の底で、白い繭がまだ閉じている気配。怒りと諦めが互いの手を離せないまま沈んでいく感覚。メイは小部屋の床に膝をつき、宝石箱の前に座った。傷ついた腕はまだ痛む。白薔薇の花弁が傷口に貼りついているが、痛みを完全には消していない。その痛みが、今のメイをここへ留めていた。自分がまだ選べるのだと知らせてくれていた。


 ローズは入口のそばに立っていた。黒いインバネスが白い床へ細い影を落とし、白い仮面は月光を受けても表情を見せない。彼女は近づかない。手を伸ばせば届く場所にいながら、決して宝石箱へ触れようとしない。鍵は私の手にはない。あの病室でそう告げたときと同じ静けさが、今も彼女の周囲にあった。


「少女が目を覚ませば」


 ローズが言った。


「君は、この世界から消えるかもしれない」


 メイは蓋に置きかけた手を止めた。指先が震える。箱の内側から、ちりん、と鈴が鳴った。小さく、懐かしく、逃げ場のない音だった。


「僕は、現実には戻れないの?」


 問いは、自分でも驚くほど静かに出た。叫びたかったのかもしれない。違うと言ってほしかったのかもしれない。君は少年だ、ただ迷い込んだだけだ、目が覚めればどこかに帰れる、と。けれどローズは答えなかった。沈黙が、小部屋の白へ降りた。


 答えないことが答えだった。


 メイは少しだけ笑った。笑えたことが不思議だった。悲しいのに、怖いのに、胸の奥にある鈴の音が妙に澄んでいた。


「僕は本来、もういないんだね」


 ローズは何も言わない。その沈黙は、冷たい肯定ではなかった。ただ、嘘をつかないための沈黙だった。メイはそれでよかった。ひかりが泣けなかったように、自分もずっと見ないでいたのだ。鏡に映った黒猫。湖面に揺れた影。少女の膝。首輪の鈴。苦しい呼吸。閉じていく視界。全部、ここへつながっていた。


「それでも開けるのかい」


 ローズの声は低かった。問いであり、最後の猶予でもあった。今なら、まだ閉じていられる。箱を開けなければ、メイはメイのまま、少年の形のまま、この白い小部屋で少しだけ長く存在できるかもしれない。湖の底で眠るひかりの核も、閉じたままになる。姫とベレッタは沈み、夜は歪みながら続く。それでも、メイは自分が消える瞬間を見ずに済む。


「あの子が目覚めてくれるなら、それでいい」


 メイは言った。


 言ってから、胸が痛んだ。怖くないわけではなかった。消えるのは怖い。名前が薄れて、身体がほどけて、声も手もなくなってしまうのは怖い。ひかりにもう一度呼ばれて、それに返事をしたあとで消えるのは、もっと怖い。けれど、ひかりが目覚めないまま夜に沈むことの方が、もっと嫌だった。ひかりが朝を見ないことの方が、ずっと怖かった。


 メイは宝石箱の蓋を開けた。


 最初に、オルゴールの金具が鳴った。きしむような小さな音。長いあいだ閉じられていたものが、ようやく息を吸う音だった。蓋の内側には、色褪せた小さな鏡がついている。そこに映ったのは、少年の顔ではなかった。黒い毛並み。丸い瞳。首輪の鈴。けれどメイはもう目をそらさなかった。


 箱の中には、オルゴールの機構が入っていた。小さな金属の櫛。回転する円筒。月の飾り。端には、黒猫用の細い首輪が折りたたまれている。鈴は少しくすんでいたが、指で触れると澄んだ音を立てた。その隣に、一枚の写真があった。幼いひかりが、黒猫を抱いて笑っている。ぎこちない笑い方だった。カメラへ向かって笑っているのではない。腕の中の黒猫が動いてしまい、思わず笑った瞬間を切り取られたような写真。黒猫は目を細め、ひかりの胸元に身体を預けている。首には、箱の中にあるものと同じ鈴の首輪。


 写真を見た瞬間、すべてが戻った。


 雨の日だった。小学生のひかりは、傘を差すのが下手で、肩の片方だけを濡らしていた。家へ帰る途中、軒下の段ボールから、小さな声がした。声というより、息のかけらだった。ひかりは立ち止まる。段ボールの中には、黒い子猫がいた。目やにで瞼が重く、身体は痩せ、雨に濡れて震えていた。ひかりはしばらく見つめていた。周りを見た。誰もいない。誰も気づかない。気づいても、きっと急いでいる。ひかりは傘を畳み、子猫を抱き上げた。制服が汚れることも、手が濡れることも、家で叱られることも、そのときは考えなかった。ただ、小さな身体が冷えていたから、胸に抱いた。


 家へ連れて帰ると、両親は驚いた。飼えるか分からない、病院へ連れて行かなければならない、責任を持てるのか。いくつもの言葉が飛び交った。ひかりはいつもなら黙ってしまうところを、その日だけは譲らなかった。お願い。ちゃんと世話するから。名前も、もう考えたから。そう言って、濡れた子猫をタオルで包んだ。


 名前をつけた夜、ひかりは子猫を膝に乗せ、ノートに大きく「明」と書いた。


「明るいって書いて、メイ」


 彼女はそう言った。


「夜でも、あなたがいると明るいから」


 黒猫は言葉を理解していなかった。漢字も、夜でも明るいという意味も、まだ分からなかった。けれど、声の温かさだけは分かった。名前を呼ばれるたび、ひかりの声が少しだけ明るくなることを覚えた。メイ、と呼ばれると、そちらへ行った。膝に乗った。机の上に前足を乗せて叱られた。窓辺で昼寝をした。雨の日には、ひかりがカーテンを少し開け、外を見ながら背中を撫でた。


 ひかりは成長した。制服が変わり、鞄が重くなり、部屋の本が増えた。外では笑って帰ってくることがあった。けれど、部屋の扉を閉めると、笑い方が分からなくなったような顔をした。学校で言えないこと。家族に言えないこと。友だちの輪に入れなかったこと。嫌だと言えなかったこと。寂しいと言えなかったこと。ひかりは全部、メイに話した。メイは返事をしない。人間の言葉は分からない。それでも、ひかりが話している間は逃げなかった。膝の上で丸くなり、指が震えれば、その手へ額を寄せた。ひかりはそのたびに、少しだけ息をした。


 最後の日。身体が重かった。食べ物の匂いが遠く、ひかりの声も水の向こうから聞こえるようだった。ひかりは何度も名前を呼んだ。メイ。メイ。お願い。いかないで。泣きそうな顔をしているのに、涙はこぼれなかった。泣けば本当に終わると思っていたから。メイは、言葉を返せなかった。けれど、最後に思った。泣かないでほしいのではない。自分を忘れてほしいのでもない。ひかりに、生きてほしかった。朝の窓を見てほしかった。ご飯を食べて、誰かと話して、また泣けるなら泣いて、笑える日が来るなら笑ってほしかった。


 視界が閉じる直前、ひかりの顔が見えた。


 泣けない少女の顔。


 その顔を、メイはずっと覚えていた。


 オルゴールが鳴り始めた。


 細い金属の歯が、古い旋律を一音ずつほどいていく。その曲は、塔の階段で聞こえていた曲だった。湖の上で姫が踊っていた曲だった。ベレッタが無意識に口ずさんでいた曲だった。ひかりが眠る前、宝石箱の蓋を開け、メイの背を撫でながら聞いていた曲だった。最初は小部屋だけに響いていた旋律が、やがて壁を越え、塔を越え、湖へ広がっていく。音は波紋になり、赤く染まった水面を震わせた。


 塔の壁にひびが入った。白い石の亀裂から、夜ではない色が滲む。薄い金色。淡い橙。まだ朝とは呼べない、けれど夜だけではない色。空の満月が少しずつ薄くなる。星々は遠ざかり、黒かった空の端に白い線が引かれていく。湖の赤が、ゆっくりと蒼へ戻っていった。深紅の水が透き通り、沈んでいた記憶の粒が泡になって浮かび上がる。泡は水面で弾けず、空へ昇った。ひとつ、またひとつ。七色に光る泡が塔の周囲を満たし、やがて薄い膜を破って蝶になる。オーロラ色の小さな蝶たちが、朝になりきれない空を舞った。


 メイは宝石箱を抱えたまま、小部屋の外へ出た。知らないうちに塔の道は開いていた。白い廊下は屋上へつながっている。ローズは後ろを歩いている。何も言わない。だが、その沈黙は、今のメイには冷たくなかった。選んだ者の背中を、最後まで見届ける沈黙だった。


 屋上へ戻ると、湖の底から白い繭が浮かび上がっていた。


 繭は大きく、月の卵のようだった。赤から蒼へ戻りつつある水を押し上げ、湖の中央へ静かに浮かぶ。その表面には、無数の光の糸が巻きついている。糸の中には、姫の黒いドレスの影と、ベレッタの赤い頭巾の色が見えた。二つの影は別々ではなかった。重なり、ほどけ、また重なる。姫は悲しみだった。ベレッタは怒りだった。どちらも、ひかりが生きるために必要な感情だった。どちらかを殺せば朝が来るのではない。どちらかを沈めれば楽になるのでもない。悲しみも、怒りも、自分のものとして抱きしめなければ、ひかりは目覚められない。


 繭にひびが入った。小さな音だった。けれど、世界中の月が割れるように響いた。ひびの隙間から、朝の光が漏れる。メイは塔の端へ走った。傷ついた腕が痛む。身体が少し軽い。いや、薄い。指先が透け始めている。けれど、まだ声は出せる。


 メイは湖へ向かって叫んだ。


「ひかり!」


 初めて、彼は本当の名前を呼んだ。


 その声で、繭が割れた。


 白い殻が硝子のように砕け、光の蝶になって空へ舞い上がる。中から現れたのは、姫でもベレッタでもなかった。現実の月代ひかりに近い年齢の少女だった。姫ほど大人びてはいない。ベレッタほど幼くもない。黒い喪服でも、赤い頭巾でもなく、月光と朝焼けを織り合わせたような白い服をまとっている。長い髪は湖の風に揺れ、頬には、まだ流れ出していない涙の跡が光のように宿っていた。


 ひかりは湖の上に立った。


 水面は彼女を沈めなかった。月光世界が、初めて彼女を閉じ込めるためではなく、支えるために水を差し出していた。ひかりは塔の上を見上げる。メイと目が合った。長い夜を越えて、ようやく、本当のひかりがメイを見た。


「メイ」


 その声は、幼い頃と同じだった。成長しても、悲しみに沈んでも、眠り続けても、名前を呼ぶときの温かさだけは変わっていなかった。


 メイは笑った。


「うん」


 それだけで十分だった。言葉はいくらでもあった。思い出したこと。怖かったこと。会いたかったこと。そばにいたこと。死んでいたこと。もう帰れないこと。けれど、名前を呼ばれ、返事をする。そのたったひとつで、すべてが届いた気がした。


 ひかりはメイへ駆け出そうとした。湖面に足音が広がる。けれど、湖と塔の距離は縮まらない。どれだけ彼女が進んでも、塔は同じ高さで遠くにある。メイも手を伸ばした。届かない。二人のあいだには、黒い水でも、薔薇の道でもなく、現実と記憶の距離があった。


 メイの身体が薄くなり始めた。足元から光の粒がほどけていく。少年の服が朝の色に溶け、指先が透け、髪が風に混ざる。ひかりの顔が歪んだ。


「行かないで」


 その声で、メイの胸は痛んだ。けれど、今度はその痛みから目をそらさなかった。


「僕は、もう行ってたんだと思う。ずっと前に」


 ひかりが首を振る。


「違う。だって、ここにいる。メイは、ここに」


「うん。ひかりが呼んでくれたから。ひかりが僕の名前をずっと持っていてくれたから、僕はここに来られた。でも、現実の僕は、もう行ってたんだ」


 ひかりの瞳から、涙がこぼれた。


 最初の一粒が頬を伝った瞬間、湖が静かに震えた。二粒目、三粒目。涙は止まらなかった。ひかりは泣いていた。声を押し殺すことも、綺麗な悲しみに閉じ込めることも、怒りで撃ち砕くこともしない。ただ、泣いていた。メイはそれを見て、胸の奥から力が抜けるのを感じた。安心したのだ。ひかりが泣けたから。泣けるなら、彼女は朝へ戻れる。悲しみが水になって流れるなら、夜だけに沈み続けなくていい。


「忘れないで」


 メイは言った。


 ひかりは涙の中で頷く。


「忘れない。忘れるわけない」


「でも、僕のところに来ないで」


 ひかりの顔が凍った。


 メイは続けた。言わなければならなかった。優しいだけの別れでは、ひかりはまた夜へ戻ってしまうかもしれない。名前を残すことと、眠り続けることは違う。忘れないことと、後を追うことは違う。そのことを、今のメイだけが言えた。


「僕を覚えていて。でも、僕がいない朝を見て。僕の名前を呼んでいい。写真を見ていい。鈴の音を聞いて泣いてもいい。でも、僕のところへ来ちゃだめだ。ひかりは、生きて」


 ひかりは両手で口元を押さえ、泣きながら頷いた。何度も、何度も。声にならない返事だった。けれど、メイには分かった。猫だった頃も、彼女の言葉を全部理解していたわけではない。それでも、気持ちは分かった。今も同じだった。


 月が薄れていく。空が白む。蒼白い花の森に、朝の光が差し込んだ。夜のランプのように光っていた花々は、ひとつずつ普通の白い花へ変わっていく。青い風は温度を持ち、湖の水面は窓ガラスのように透明になった。塔の白い石も、冷たい月光ではなく、朝焼けの柔らかな色を受け始めている。黒い湖、白い塔、蒼い花、赤い薔薇。すべてがほどけ、現実へ戻るための光になっていく。


 ローズは少し離れたところで見届けていた。黒いインバネスの裾に朝の色が触れても、彼女は揺れない。ただ、白い仮面だけが、ほんの少しだけ柔らかく見えた。


 メイは振り返った。


「ありがとう」


 ローズは首を横に振った。


「礼を言われることではない。選んだのは君だ」


「でも、声をかけてくれた」


 ローズは黙った。その沈黙の奥に、微かな痛みがあった。何度も誰かの夜へ入り、何度も完全には救えず、何度も喪失を伴う選択を見届けてきた者の痛み。メイはそれ以上言わなかった。ただ、笑った。


 身体がさらに薄くなる。少年の輪郭がほどけ、その内側から黒猫の影が現れた。小さな影。首輪の鈴が朝の光の中で一度だけ鳴る。ちりん。ひかりがその音に顔を上げる。黒猫の影は塔の端に座り、尾を丸め、彼女を見た。鳴き声はない。けれど、ひかりには届いた。


 黒猫の影は、朝の光へ溶けた。


 現実の朝は、静かに始まった。


 月白記念病院の病室では、白いカーテンがかすかに揺れていた。夜の間、窓に貼りついていた満月はもうない。窓ガラスには、薄い青空と、病院の中庭の木々が映っている。花瓶に挿された白い花は、もう青白く光っていなかった。ただ、朝の光を受けて静かに咲いている。


 最初に気づいたのは、母親だった。ベッドの脇の椅子で浅く眠っていた彼女は、シーツの上の指が動いた気配で目を覚ました。ひかりの睫毛が震えている。閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。


「ひかり……?」


 母親の声は、信じることを恐れるほど小さかった。ひかりはしばらく白い天井を見つめていた。長い夢から戻ったばかりの目。何を見ているのか、何を思い出しているのか、母親には分からなかった。次の瞬間、母親は立ち上がり、震える手でナースコールを押した。父親が病室の外から戻ってくる。医師を呼ぶ声。看護師の足音。病室は急に慌ただしくなった。


 ひかりはその騒ぎの中で、ゆっくりと顔を横へ向けた。ベッドの脇に、小さな宝石箱がある。閉じたままの木箱。表面には、幼い字でメイと書かれたシール。ひかりはそれを見て、唇を震わせた。


「メイは?」


 病室が一瞬、静かになった。


 母親の顔が歪む。父親が言葉を探す。医師も看護師も、そこには踏み込めなかった。母親はベッドのそばへ戻り、ひかりの手を握った。泣きながら、何度も言おうとして、ようやく声にした。


「メイは……もう、亡くなったの」


 ひかりは目を閉じた。


 少し前なら、その言葉は彼女をまた夜へ連れ戻したかもしれない。白い天井が湖になり、窓が満月になり、宝石箱が閉じたままになり、彼女は朝を拒んだかもしれない。けれど、今は違った。ひかりは胸に手を当てた。そこに、黒猫の重さはない。毛並みも、体温も、鈴の震えもない。けれど、名前がある。メイと呼んだ記憶がある。呼べば返事をしないことも、もう知っている。それでも、消えたわけではない。


「うん。知ってる」


 ひかりは言った。


 母親が息を呑む。父親が目を伏せる。ひかりは涙をこぼした。けれど、その涙は眠りへ戻るためのものではなかった。朝の中で流れる涙だった。


「でも、ここにいる」


 彼女は胸に置いた手を、少しだけ強く握った。


 病室の外の廊下に、鳴海マナが立っていた。医師たちの慌ただしい声も、家族の泣き声も、彼女は少し離れた場所で聞いていた。病室へ入ろうとはしない。説明することも、名乗ることも、礼を受け取ることもしない。彼女の手には、赤い栞を挟んだ古い本がある。朝の光が廊下の窓から差し込み、その栞の端を照らした。


 栞に、黒猫の毛のような細い影が一瞬だけ触れた。


 マナは足を止めた。振り返る。廊下には誰もいない。ただ、窓の外の中庭で、朝の風が木々を揺らしている。彼女の表情はいつも通り静かだった。けれど、その声は少しだけローズの声に近かった。


「名前は、残ったのね」


 それ以上は言わず、マナは歩き出した。黒い傘は持っていない。もう雨の夜ではないからだ。赤い栞を挟んだ本を胸に抱え、彼女は病院の廊下を静かに去っていく。背後の病室では、ひかりが泣いている。母親も泣いている。父親は言葉を失いながら、娘の手を握っている。悲しみは消えていない。失ったものも戻っていない。それでも、朝は来ていた。


 病室の窓が少しだけ開いていた。朝の風が入り、白いカーテンを揺らす。窓の外に薔薇は咲いていない。中庭にあるのは、まだ若い木と、手入れされた低い植え込みと、病院の白い外壁だけだ。それでも、紅い薔薇の花びらが一枚、どこからともなく舞い上がった。


 ひかりはそれを見た。


 花びらは朝の光の中でゆっくり回り、窓の外へ上がっていく。その向こうに、一瞬だけ黒猫の影が見えた。窓枠に座るような、小さな影。首輪の鈴は鳴らない。鳴き声もしない。けれど、ひかりは分かった。別れは、いなくなることだけではない。行くべき場所へ行かせることでもある。


 ひかりは涙の残る顔で、微笑んだ。


「いってらっしゃい、メイ」


 紅い花びらは、朝日の中へ消えていった。

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