エピローグ
数週間後、月白記念病院の窓には、もう満月ではなく朝の空が映っていた。月代ひかりは退院に向けたリハビリを始めている。まだ長く歩けば息が切れる。食事の量も戻りきってはいない。眠る前に、少しだけ怖くなる夜もある。それでも彼女は、もう眠り続けようとはしなかった。病室の机には、古びた宝石箱が置かれている。蓋は閉じていた。中には、小さな黒猫の首輪と鈴、それから幼い日のひかりがメイを抱いて笑っている写真が入っている。オルゴールは、もう鳴らない。ぜんまいを巻いても、かすかな音を立てるだけで、あの旋律は戻らなかった。けれど、ひかりはそれでいいと思っていた。音が鳴らなくても、名前は残っている。
ひかりはベッド脇のノートを開き、ゆっくりと鉛筆を走らせた。
「メイへ。
今日は朝まで起きていられました。
でも、夜も怖くありません。
あなたがいた夜を、もう閉じ込めなくていいと思えたから」
書き終えると、彼女は少し考えて、ページの端に黒猫の絵を描いた。丸い頭。小さな耳。長いしっぽ。鈴のついた首輪。あまり上手ではない。けれど、その絵を見て、ひかりは小さく笑った。泣きそうにはなったが、今度は泣くことを怖がらなかった。
そのころ、六道学園の校舎では、鳴海マナが古い名簿を開いていた。放課後の資料室には人の気配がなく、窓の外では夕方の光が廊下を薄い金色に染めている。マナは赤い栞を挟んだ本を机の端に置き、失踪者名簿の余白に新しいメモを書き加えた。
「月白記念病院・月代ひかり。
個人世界閉鎖症例。
メア型残響あり。
ミラーズ残響の侵入あり。
ホスト、現実接続回復。
名前残響、消失ではなく内在化」
そこまで書いて、マナのペンが止まった。
「……メア型」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。彼女はその文字をしばらく見つめていた。誰かを失った心は、夜を作る。夜は優しい。失ったものを、まだ失っていないように見せてくれる。けれど、そこに長く留まりすぎれば、人は朝へ戻れなくなる。いつか、別の少年が、失われた名を抱えて世界の境界へ立つとき、彼女はこの病室の朝を思い出すのだろう。黒猫の名前が、消えずに残った朝を。
マナは名簿を閉じた。赤い栞を挟んだ本を胸に抱え、資料室の灯りを消す。窓の外で、ふと薔薇の香りがした。そこに薔薇は咲いていない。けれどマナは驚かなかった。ただ一度だけ振り返り、静かに目を伏せた。
「忘れないことと、戻らないことは、両立できる」
そう呟いて、彼女は廊下へ出た。
病室のノートの端では、黒猫の小さな絵が、朝の光を受けていた。




