第七章 湖へ沈む二人
姫の黒いドレスが、塔の端で大きく開いていた。月光を受けたその裾は、風に煽られる布ではなく、夜そのものが花弁になったように見えた。欄干の向こうには湖がある。塔の真下で、黒い水が音もなく広がっている。空の月が湖面に落ち、水底の月がそれを迎える。二つの月のあいだに、塔は細い針のように立っていた。星々は近く、触れれば砕ける硝子片のように冷たく光っている。ナイト・メアが散ったあと、世界は静かになった。静かすぎた。悪夢の番人が消えたのに、朝は来ない。夜は壊れず、月は欠けず、湖はなお深い。その事実だけが、塔の上に残った者たちの胸を締めつけていた。
「ならば、わたくしが沈めばいい」
姫はもう一度、ほとんど息のように言った。メイは動けなかった。傷ついた腕にローズの白い花弁が貼りついている。痛みは少し和らいでいたが、血の熱はまだ残っている。その熱がなければ、自分が今ここに立っていることさえ信じられなかったかもしれない。鏡に映った黒猫。首輪の鈴。ひかりという名前。姫の口から呼ばれた「メイ」。すべてが胸の奥で絡まり、ほどこうとするたびに痛んだ。
「待って」
メイはようやく声を出した。
姫は振り返らなかった。黒いドレスの背中が月光に浮かぶ。彼女の肩は細く、どこか病室の白い寝具の上で眠る少女の肩を思わせた。喪服の姫であり、塔の主であり、この夜を望んだ心でありながら、その背中はひどく幼かった。
「来ないで」
「行かないで」
「あなたが来れば、わたくしは朝を思い出してしまいます」
「朝を思い出したら、だめなの?」
メイの問いに、姫はゆっくりと顔を横へ向けた。涙はない。けれど、泣けないことそのものが涙の代わりに顔へ刻まれている。
「目覚めれば、メイはいない」
その言葉は、ナイト・メアの爪より深くメイを裂いた。
メイは息を呑んだ。姫は知っている。自分が何者かを、少なくとも現実へは戻れない存在だと分かっている。鏡が黒猫を映すより前から、彼女は分かっていたのだ。だからこそ、湖で去れと言った。だからこそ、名前を呼ぶなと言った。朝が来れば、いないものがいないと分かってしまう。あの言葉の中で、彼女が本当に恐れていたのは、ただの朝ではない。メイがもうそこにいない朝だった。
「あなたは、ここにいる。わたくしの夜には、まだいる。わたくしを見て、わたくしの名前を知らずに呼ぼうとして、わたくしのところへ来てくれた。けれど、目覚めれば違います。白い天井。消毒液の匂い。両親の声。医師の声。窓の外の明るさ。そこに、あなたはいない」
姫は塔の端から湖を見下ろした。黒い水面には、彼女の影が長く落ちている。
「小さな首輪も、鈴の音も、夜にわたくしの話を聞いてくれた黒い影も、どこにもいない。名前を呼んでも、返事はない。朝は、それを教えるために来るのです」
メイの胸の奥で、鈴が鳴った。ちりん。遠い、けれど確かな音だった。彼はそれを聞きながら、知らないはずの光景を見た。少女の膝。少女の手。白い窓辺。カーテンを透かす雨の日の光。黒い身体を撫でる指。自分の喉が震える。声にならない返事。人間の言葉ではないけれど、そこにいるという返事。泣きそうな少女の横顔に、身体を寄せる。言葉は分からない。けれど、悲しいことだけは分かる。だから、逃げなかった。膝から降りず、夜が明けるまでそこにいた。
「メイは、黒猫でした」
姫は静かに言った。
ベレッタがわずかに息を呑む。彼女も分かっていたはずだった。湖面に映った黒猫。鏡の中の姿。メイがひかりという名前を呼んだこと。それでも、姫の口からその事実が出ると、塔の空気が一段冷えた。
「ただの飼い猫ではありませんでした。周りの人にとっては、そうだったのでしょう。猫が死んだ。それは悲しいことだけれど、いつか慣れる。新しい子を迎えればいい。時間が経てば忘れられる。そう言われました。誰も悪気はなかったのだと思います。けれど、わたくしにとっては、違った」
姫の声がかすかに震えた。
「学校で言えなかったこと。家で言えなかったこと。笑ってごまかしたこと。平気なふりをしたこと。嫌だったこと。寂しかったこと。怖かったこと。全部、メイにだけ話しました。メイは返事をしませんでした。人の言葉で慰めたり、正しい答えをくれたりはしませんでした。でも、そばにいてくれた。逃げなかった。わたくしが黙っていても、膝の上にいてくれた。わたくしが泣きそうになっても、目をそらさなかった」
メイは腕の痛みも忘れていた。記憶が戻る。断片ではなく、温度として戻る。ひかりの膝。ひかりの手。ひかりの声。メイ、と呼ぶ声。眠る前にそっと首輪の鈴を撫でる指。暗い部屋の中で、ひかりが布団から片手を出し、その手に額を寄せた夜。何かを言われても、言葉は分からない。けれど、悲しみは分かった。不安は分かった。だから、そこにいた。自分にできることはそれだけだった。けれど、ひかりにとっては、それだけが世界をつなぐ糸だった。
「メイが死んだ日」
姫の声が、さらに細くなった。
「わたくしは、泣けませんでした」
風が止まった。塔の上の星が、いっせいに遠ざかったように見えた。
「泣いたら、本当に死んだことになる気がした。涙がこぼれたら、もうメイはいないのだと認めてしまう気がした。だから泣きませんでした。母が泣いても、父が静かにしていても、わたくしは泣かなかった。メイの首輪を握って、鈴を鳴らして、何度も名前を呼びました。けれど返事はありませんでした」
メイの視界に、白い布が浮かぶ。小さな身体を包むタオル。ひかりの手。震える指。唇だけが動く。メイ。メイ。メイ。呼ばれているのに、返事ができない。身体が重い。呼吸がもうない。けれど、名前だけが残る。呼ばれたという感覚だけが、暗いところへ沈んでいく。
「そのあと、朝が来ました。窓が明るくなりました。世界は何も変わらない顔で動いていました。学校へ行かなければならない。ご飯を食べなければならない。返事をしなければならない。生きていかなければならない。でも、どうして。メイはいないのに」
姫は自分の胸元を押さえた。
「わたくしは、あの子がいない朝を見たくない」
メイは泣きそうになった。けれど、涙はうまく出なかった。自分が人間の身体で泣けるのかどうかさえ分からない。ただ胸が痛い。自分が黒猫だったと完全に理解したわけではない。だが、もう否定できなかった。自分はメイだ。ひかりに呼ばれていた存在。黒猫だったもの。現実にはもういないもの。その名前と記憶が、少年の形を取ってここにいる。
「僕は」
メイは震えながら言った。
「僕は、君に泣いてほしかったんじゃない」
姫がメイを見る。ベレッタも、ローズも、言葉を挟まなかった。月だけが近くで光っている。
「たぶん、僕は……何も分かってなかった。人の言葉も、学校のことも、家のことも、ひかりが何をどれくらい我慢してたのかも。僕は猫だったから、何も言えなかった。でも、ひかりが寂しいのは分かった。怖いのも分かった。だから、そばにいたんだと思う」
記憶の中で、ひかりが笑う。泣きそうな顔で笑う。黒猫の背中に額を埋める。ありがとう、と言ったのかもしれない。ごめんね、と言ったのかもしれない。言葉はまだぼやけている。けれど、声の温度だけははっきりしていた。
「君に、朝を見てほしかったんだと思う」
メイは言った。
「僕がいない朝でも。僕を忘れていいって意味じゃない。忘れてほしかったわけじゃない。でも、僕がいないから朝を見ないでほしいなんて、思ってなかったと思う。君が窓を開けて、風を吸って、また誰かに話せるようになって、泣けるなら泣いて、笑えるなら笑って……そういう朝を、見てほしかったんだと思う」
姫の瞳が揺れた。初めて、そこに涙の影が見えた。けれど涙はまだこぼれない。泣けば夜が終わる。泣けばメイが本当に死んだと認めてしまう。その恐怖が、彼女の瞼を閉じさせている。
「勝手に終わらせないで」
ベレッタの声が響いた。
メイは振り返った。ベレッタが姫を睨んでいる。銃は構えていない。けれど、怒りは全身から噴き出していた。赤い頭巾が風に揺れ、片目の奥で火が燃えている。その火は、もうただの攻撃ではない。泣けない姫の代わりに燃えている火だった。
「沈めばいい? 何それ。夜を終わらせられないなら自分が沈む? また勝手に決めるの? またアタシを置いていくの?」
姫はベレッタを見た。
「あなたは、まだ怒っているのね」
「怒ってるよ!」
ベレッタは叫んだ。声が割れる。塔の石が震え、下の湖面が大きく波立った。
「メイが死んだことにも、誰も分かってくれなかったことにも、たかが猫でしょって言われたことにも、泣けない自分にも、泣いたら終わるって思った自分にも、あんたが勝手に綺麗な悲しみにして眠ってることにも! 全部に怒ってる!」
姫は黙っていた。
「黒いドレス着て、湖の上で踊って、悲しいですって顔してれば済むと思ってんの? こっちはずっと走ってた。撃ってた。転んで、血を浴びて、片目まで失って、それでも朝にしようとしてた。あんたが目を閉じてる間、アタシはずっと怒ってた。怒ってなきゃ、立ってられなかったから!」
ベレッタの頬に涙が流れていた。彼女は気づいているのか、気づいていないのか、拭おうとしなかった。怒りの声の中に、ようやく涙が混じっていた。
「なのに、沈めばいい? ふざけんな。あんたが沈んだら、アタシは何のために怒ってたの。何のために撃ってたの。何のためにここまで来たの!」
姫は静かに答えた。
「怒っていれば、戻るの?」
ベレッタの言葉が止まった。
たった一言だった。だが、その一言はベレッタの怒りの芯を貫いた。怒っていれば戻るのか。マガミを撃てば戻るのか。塔を開ければ戻るのか。姫を殺せば戻るのか。ナイト・メアを倒せば戻るのか。何をしても、メイが現実で生き返るわけではない。その事実を、姫は夜に閉じ込め、ベレッタは怒りで撃ち砕こうとしていた。けれど、どちらの手にも戻せる力はない。
ベレッタは息を呑み、口を開き、何も言えなくなった。
姫は穏やかな顔をした。諦めに似た、疲れた微笑みだった。
「わたくしがいる限り、夜は終わりません。あなたがいる限り、怒りも終わりません。ならば、二人とも沈めばいい。湖の底へ。見たくないものを沈める場所へ。そうすれば、誰も朝を見なくて済む」
「違う」
メイは叫んだ。
だが、姫はもう塔の端へ身体を向けていた。黒いドレスが月光を受け、湖へ落ちる影になる。彼女は一歩を踏み出す。足元には何もない。塔の端。その先は夜空と湖だけ。
「やめろ!」
ベレッタが飛び出した。
彼女は銃を捨てるように床へ落とし、姫へ向かって走った。赤い頭巾が風を裂く。姫が身を投げる瞬間、ベレッタの手がその腕を掴んだ。細い腕と細い腕。黒い袖と赤い袖。塔の端で二人の身体が大きく揺れた。
「離して」
「離すわけないでしょ!」
「あなたも沈めば楽になれる」
「楽になりたいんじゃない! アタシは、あんたにこっちを見てほしかったんだ!」
その叫びに、姫の目が見開かれた。ベレッタ自身も、自分が何を叫んだのか分からない顔をした。だが、もう遅かった。姫の身体は塔の外へ傾いている。ベレッタの小さな身体では支えきれない。メイは走った。傷ついた腕が痛む。足がもつれる。手を伸ばす。
「ベレッタ!」
指先が赤い頭巾の端に触れた。
届かない。
布が指の間をすり抜けた。ベレッタと姫の身体が、塔の外へ落ちる。黒いドレスと赤い頭巾が、月光の中で絡まりながら落下していく。二人は互いの手を離していなかった。憎んでいるのではない。引きずり込もうとしているのでもない。離せないのだ。どちらも同じ少女だから。諦めと怒り。眠りたい心と、生きたい心。互いを否定しながら、互いがいなければ形を保てないものだから。
湖が、二人を呑んだ。
水しぶきが塔の高さまで届くように跳ね上がった。黒い湖面に激しい波紋が広がる。空の月が割れたように揺れ、水底の月も砕けた。次の瞬間、湖の色が変わり始めた。蒼黒かった水が、深い赤へ染まっていく。薔薇の赤ではない。血の赤でもない。泣けなかった涙が何年も沈み、夜と混ざり、ようやく表面へ浮かんできたような赤だった。森の蒼い花々が一斉に震え、風が泣き叫ぶように塔を回った。
メイは塔の端に膝をついた。手を伸ばしても、もう何もない。赤い湖面が下で渦を巻いているだけだ。
「ベレッタ……姫……!」
返事はない。
メイは立ち上がろうとした。飛び込むつもりだった。考えたわけではない。さっきベレッタを庇ったときと同じだった。身体が勝手に動く。落ちれば戻れないかもしれない。湖は見たいものも見たくないものも沈める場所だ。それでも、二人が沈んだなら、自分も行かなければならない。そう思った。
黒いインバネスが、メイの前に立った。
ローズが彼の腕を掴んでいた。強い手だった。冷たいのに、現実へ縫い止めるような手。
「離して!」
「今、君が落ちれば、戻れない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
メイは叫んだ。声が裏返った。涙が出ているのか、自分でも分からなかった。胸が痛くて、息が苦しくて、腕の傷よりもずっと深いところが裂けていた。
「ベレッタも、姫も沈んだ。ナイト・メアは倒したのに朝は来なかった。僕は何者か分からないままで、ひかりはまだ目覚めなくて、湖は赤くなって……どうすればいいんだよ!」
ローズはメイを見つめた。白い仮面の奥の目は見えない。けれど、その沈黙には冷たさだけではなく、痛みがあった。すべてを知っているのに、すべてを代わりに選んでやれない者の痛み。
「あの子の想いは、まだ消えていない」
ローズは言った。
「深い場所に沈んだだけだ」
「深い場所って、湖の底?」
「湖の底でもあり、塔の奥でもある。この世界では、沈むものと隠すものは同じ場所へつながる。呼び戻す鍵がある」
「鍵……?」
「宝石箱だ」
その言葉に、メイの胸の奥で鈴が鳴った。病室。白いカーテン。ベッドの脇。幼い字で「メイ」と書かれた小さなシール。古びたオルゴール付きの箱。塔の階段で聞こえた旋律。湖に沈んでいた記憶。すべてが一点へ集まる。
「あれは、まだ開いていない」
ローズは塔の内側へ視線を向けた。
「開けられるのは、私ではない。ベレッタでもない。姫でもない。君だ」
「僕が……」
メイは赤い湖を見下ろした。水面は荒れている。姫とベレッタの姿は見えない。けれど、遠い水底から二つの光が沈んでいくような気配があった。黒と赤。諦めと怒り。眠りたい心と、生きたい心。その二つが離れないまま、どこまでも深く沈んでいく。
水底では、音がなかった。
姫とベレッタは、互いの手を握ったまま沈んでいた。黒いドレスは水中で大きな花になり、赤い頭巾はほどけた血のリボンのように揺れている。二人はもう争っていない。水の中では怒鳴れない。拒絶もできない。ただ、互いの手の温度だけがある。ベレッタは姫を睨もうとした。だが、水が涙を隠してしまう。姫は目を閉じようとした。だが、ベレッタの手が離れない。離せない。憎んでいるなら離せただろう。殺したいだけなら沈められただろう。けれど、彼女たちは同じ少女の割れた心だった。互いを否定すれば、自分の半分も消えてしまう。
湖底のさらに深い場所に、白い繭が眠っていた。
それは月の卵のようだった。赤く濁った水の中で、そこだけが清らかな白を保っている。繭の表面には、細い光の糸が巻きつき、その糸には小さな記憶の粒が絡んでいる。黒猫を抱く手。雨の日の窓。首輪の鈴。泣けない少女の横顔。病室の白い天井。母の声。父の沈黙。言えなかった言葉。飲み込んだ涙。その中心に、本来のひかりが眠っている。姫でもなく、ベレッタでもなく、夜に閉じた少女でも、怒りで走る少女でもない、まだ目覚めることを選べずにいる月代ひかりの核。
しかし、繭は閉じたままだった。
塔の上で、メイはその光景を見たわけではない。けれど、胸の奥で分かった。湖の底に、まだ消えていないものがある。沈んだだけだ。呼べば、届くかもしれない。けれど、何で呼ぶのか。名前か。記憶か。鈴の音か。オルゴールの旋律か。
メイはローズの手を振りほどかなかった。代わりに、自分から後ろへ下がった。
「行く」
声は震えていた。けれど、決めていた。
「宝石箱を探す」
ローズは頷いた。
「急げ。湖が赤く染まっているあいだ、あの子の世界は不安定になる。長くは保たない」
メイは塔の内側へ走った。傷ついた腕が痛む。足元がふらつく。背後では、赤い湖が渦を巻き、風が塔の壁を叩いている。ローズは少し後ろをついてくる。助けるためではなく、道を見失わないように見守るために。
塔の中は、先ほどより暗くなっていた。壁の亀裂を流れていた月光は赤みを帯び、床には水の影が揺れている。階段を下りるたびに、さまざまな扉の奥から音が漏れた。子どもの笑い声。猫の鈴。雨音。心電図。誰かの「ただの猫でしょ」という声。幼い「違う」という声。メイはそれらに耳を塞ぎたくなった。けれど、今は立ち止まらなかった。覗き見るために来たのではない。思い出を武器にするためでもない。会うために来た。呼ぶために来た。宝石箱は、そのための鍵だ。
やがて、階段の途中にあるはずのない廊下が現れた。塔の壁が内側へ折り畳まれたように開き、白い細道が奥へ続いている。扉はない。取っ手もない。ただ、白い光だけで作られたような小部屋が、その先にあった。メイは息を整える余裕もなく、その部屋へ入った。
部屋の中は、病室に似ていた。
白い壁。白い床。白い空気。窓はない。けれど、どこからか満月の光が差している。中央に、小さな台があり、その上に宝石箱が置かれていた。古びたオルゴール付きの箱。木目は年月を吸い込み、角は少し丸くなっている。蓋には、幼い字で「メイ」と書かれた小さなシールが貼られていた。病室で見たものと同じだった。いや、現実の箱と、この世界の箱が互いに映し合っているのだろう。現実で閉じたものが、夜の奥でも閉じている。
メイはゆっくり近づいた。
箱は静かだった。けれど、手を伸ばすと、内側から鈴の音がした。ちりん。首輪の鈴。遠い名前。呼ばれた記憶。ひかりの声。
メイの指が蓋に触れた。木の表面は温かかった。まるで誰かがずっと抱いていたように。
ローズが部屋の入口に立っていた。黒いインバネスの裾が白い床へ影を落としている。彼女は近づかない。これはメイの手で触れなければならないものだと分かっている。
「開ければ、君は思い出す」
ローズは静かに告げた。
「君が何者で、なぜここに来たのかを」
メイは箱を見つめた。蓋の向こうに、オルゴールの旋律が眠っている。首輪があるかもしれない。写真があるかもしれない。死の記憶があるかもしれない。ひかりの涙があるかもしれない。そして、自分がもう現実にはいないという事実が、そこにあるのだろう。
手が震えた。
けれど、メイは手を離さなかった。
湖の底で、姫とベレッタが沈んでいる。白い繭が閉じている。ひかりはまだ、朝を見ていない。
箱の中で、鈴がもう一度鳴った。




