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ファントム・パラレル  作者: 秋月キアラ
月光姫譚―眠り姫と黒猫の名前―
7/10

第六章 月光姫

 塔の屋上は、世界の中心に置かれた祭壇のようだった。足元には白い石が円形に敷かれ、その継ぎ目には細い月光が水のように流れている。欄干の外には、黒い湖が広がっていた。下から見上げたときよりも湖は遥かに大きく、森も、蒼い花も、霧も、塔も、すべてを映す一枚の鏡に見える。空には満月があった。近すぎる月だった。星は遠いものではなく、塔の周囲に浮かぶ白い針のように瞬いている。手を伸ばせば触れられそうなのに、触れた瞬間に指先から凍ってしまいそうな空。そこでは風さえ、誰かの息のように冷たかった。


 姫は屋上の端に立っていた。湖の上で見たときのようには踊っていない。黒いドレスの裾が風に揺れ、喪服の花が開いたり閉じたりするように波打っている。月光に照らされた肌は白く、瞳は深い。美しい。だが、もうその美しさは夢の中の幻として遠くにあるものではなかった。近くで見る姫は、疲れていた。長いあいだ泣かず、長いあいだ眠り、長いあいだ朝を拒んできた者の疲れが、口元や指先に滲んでいる。彼女の横に、ナイト・メアが立っていた。黒いローブは風に揺れない。月光を吸い込む影の塊のように、彼は姫の前へ半歩出ている。守っているようにも、隠しているようにも見えた。白い仮面の奥に顔はない。けれど、その何もない仮面は、メイたちをひどく冷静に見ていた。


「来てしまったのですね」


 姫が言った。


 その声は、塔の上の風よりも細かった。けれど、確かにメイの名前を含んでいた。さっき月光の扉を抜けた瞬間、彼女は言った。メイ、と。その一言で、胸の奥の鈴が鳴った。鏡に映った黒猫の首輪。少女の膝。雨の日の窓辺。苦しい呼吸。泣けない顔。すべてがひとつの場所へ向かっている。メイは姫を見た。姫もメイを見ている。彼女の瞳は揺れていた。泣きそうだった。だが、涙はこぼれない。湖で踊っていたときと同じように、涙はどこか深い場所で凍っている。


「あなたは、来てはいけなかった」


「どうして」


 メイの声は震えた。怖い。けれど、逃げたい怖さではなかった。知らなければいけないものの前に立っている怖さだった。


「あなたに会えば、わたくしは朝を思い出してしまう」


 姫はそう言った。


 ベレッタが銃を握り直した。ローズは何も言わず、少し後ろに立っている。彼女は介入しようとしない。ここで何を言うべきか、誰が言うべきか、分かっているからだろう。メイは一歩前へ出た。ナイト・メアがわずかに反応する。黒いローブの裾から、影が爪の形に伸びた。


「朝が来るのは、そんなに怖いことなの?」


 メイは尋ねた。


 姫の顔が歪んだ。それは怒りではない。痛みに触れられた顔だった。


「朝が来れば、いないものが、いないと分かってしまいます」


 湖で聞いた言葉だった。だが、屋上で聞くと、重さが違った。夜の湖の上でなら、それは美しい拒絶に聞こえた。けれど今は、泣けない少女の喉から出た、ひどく素直な恐怖だった。朝が来れば、窓が明るくなる。白い天井が見える。病室の匂いが戻る。誰かが「目が覚めたのね」と言う。両親が泣く。医師が来る。現実の音が戻る。けれど、そこにメイはいない。鈴の音も、黒い毛並みも、夜の話を聞いてくれる温かい影も、もういない。それを認めなければならない。朝とは、ただ明るい時間のことではない。失ったものを失ったまま見る時間のことだ。


「でも、ずっと夜のままだと」


 メイは言った。自分でも何を言えばいいのか分からない。けれど、言葉を止めるわけにはいかなかった。


「ずっと、あなたも苦しいんじゃないの」


「苦しくても、見なくて済むなら」


「姫」


 ベレッタが低く言った。


「見なくて済むなら? ふざけないで。あんたが見ないでいる間、こっちはずっと見せられてる。湖も、塔も、ナイト・メアも、マガミも、終わらない夜も。あんたが朝を怖がってるせいで、全部止まってる」


 姫はベレッタを見た。その目には憎しみがなかった。むしろ、痛ましさがあった。自分の古い傷を見るような目。ベレッタはその視線に耐えられず、銃口を上げた。


「だったら、あんたを倒してでも朝にする」


「あなたは、まだ泣けるのね」


 姫の言葉は静かだった。


 ベレッタの顔が一瞬で赤くなった。


「泣いてなんかない!」


「怒っている。叫んでいる。撃とうとしている。けれど、それは泣くことを忘れていないからできることです」


「黙れ」


「わたくしは、もう泣けない」


「黙れって言ってる!」


 銃声が鳴るかと思った。だが、ベレッタは撃たなかった。銃口は姫へ向いている。指は引き金にかかっている。けれど、撃てない。姫の言葉が彼女の怒りの奥へ刺さっている。姫は涙を凍らせた自分。ベレッタは涙を怒りに変えた自分。メイには、はっきりとそう見えた。二人は別人のように向き合っている。黒いドレスと赤い頭巾。静かな夜と燃える怒り。けれど、どちらも同じ悲しみから生まれている。そう思った瞬間、メイの胸がまた痛んだ。ひかり。名前が心の奥で震える。ひかりは、こんなふうに自分を二つに裂かなければ、夜を越えられなかったのだろうか。


 ナイト・メアが前へ出た。


「姫を悲しませる者は、この世界に必要ない」


 その声は、塔の石に染み込むように低く響いた。彼はメイではなく、ベレッタへ向かって歩き出した。白い仮面に月光が当たり、表情のない面が不気味に明るくなる。ベレッタは銃口をナイト・メアへ向けた。


「来るな」


「撃てばいい」


 ナイト・メアは止まらない。


「撃つわよ」


「撃てない」


 彼の声には、確信があった。


「おまえの紅は、その程度だ」


 ベレッタの手が震えた。銃口がわずかに下がる。彼女はマガミを撃てた。鏡の女たちにも銃を向けられた。けれど、ナイト・メアは人の形をしている。白い仮面の下に顔はない。それでも、人の背丈で、人のように歩き、人のように言葉を話す。そして何より、姫の前に立つその姿は、敵であると同時に、姫の心から生まれたものだった。ベレッタは本能でそれを感じているのだろう。撃てば、姫の一部を撃つことになる。ひかりの中にある、朝を拒みたい心を撃つことになる。怒りだけでは、そこへ弾丸を届かせられない。


「違う……アタシは……」


「おまえは殺せない」


 ナイト・メアがさらに近づいた。


「おまえは怒っているだけだ。怒りは刃に見えるが、芯がない。泣くこともできず、許すこともできず、ただ赤く燃えているだけの残り火だ」


「違う!」


「なら撃て」


 ベレッタの指が引き金にかかった。だが、動かない。片目が大きく見開かれている。恐怖。怒り。悔しさ。自分が撃てないと見抜かれた屈辱。そのすべてが彼女を縛っていた。ナイト・メアの右手がゆっくり上がる。白い指が伸び、爪の形へ変わっていく。人間の手だったものが、月光を受ける刃になる。姫が息を呑んだ。


「やめて」


 姫の声は弱かった。


「その子を傷つけないで」


「姫。あなたの悲しみを増やすものは、すべて排除します」


「それは、わたくしの願いではありません」


「あなたの涙が願っています」


「わたくしの涙を、あなたの言葉にしないで」


 ナイト・メアは聞かなかった。白い爪がベレッタへ振り下ろされる。ベレッタは動けない。銃を持ったまま、凍ったように立っている。


 メイの身体が勝手に動いた。


「ベレッタ!」


 考えたわけではなかった。怖いとか、無理だとか、自分が何者かとか、そういうものが全部消えた。ベレッタが傷つくと思った瞬間、身体が前へ出ていた。メイはベレッタを横から突き飛ばした。ベレッタの身体が屋上の床を転がる。直後、ナイト・メアの爪がメイの腕を裂いた。


 熱い。


 痛みは、白い光のように走った。メイは声にならない声を漏らし、その場に崩れかけた。左腕の袖が裂け、赤い血が流れる。赤い血。黒狼の血とも、マガミの夜の汚れとも違う、生きている身体の赤だった。月光に照らされ、床に落ちた血は薔薇のように広がった。メイはそれを見て、ぼんやりと思った。鏡には黒猫が映っていた。けれど、この身体は痛む。血を流す。少年の身体で、確かにここにいる。


「メイ!」


 ベレッタの叫びが聞こえた。


 その声は怒りではなかった。恐怖だった。失いたくないものを目の前で傷つけられた者の声だった。メイは顔を上げた。ベレッタが立ち上がる。片目に涙が浮かんでいた。彼女はそれを拭わない。気づいていないのかもしれない。ただ、銃を構えた。手は震えている。けれど、さっきの震えとは違った。撃てない震えではない。撃たなければならないものを、今度こそ見つけた震えだった。


「よくも」


 ベレッタの声は低く、濡れていた。


「よくも、メイを」


 ナイト・メアが仮面を向ける。


「怒りで撃つか」


「違う」


 ベレッタは息を吸った。涙が頬を伝った。彼女は泣いていた。怒りの奥で、確かに泣いていた。


「守るために撃つ」


 銃声が屋上を貫いた。


 弾丸は赤い光を引いて飛び、ナイト・メアの胸に突き刺さった。そこに赤い薔薇の傷が咲いた。今までマガミや鏡の残響に咲いた傷とは違う。深く、鮮やかで、月光の下でも消えない赤。ナイト・メアが初めて後退した。白い仮面に、細い亀裂が入る。ぴしり、という音がした。塔の屋上に、夜そのものがひび割れるような音が響いた。


 ベレッタは銃を下ろさなかった。けれど、二発目は撃たなかった。撃てなかったのではない。撃つ必要がないと、身体が理解していたのだろう。その一撃は殺意ではなかった。メイを守りたいという、ただそれだけの意志だった。だから届いた。ナイト・メアの胸へ、夜の結び目へ。


 ローズが前へ出た。


「その一撃で十分だ」


 黒いインバネスが風に広がる。彼女の手に薔薇の鞭が現れる。


「あとは私が断つ」


 ナイト・メアの仮面がローズへ向いた。胸の薔薇傷から黒い霧ではなく、夜の欠片のようなものがこぼれている。小さな黒い硝子片。泣けなかった夜の破片。忘れたい朝の破片。眠りへ逃げ込むために集められた暗い結晶。


「ファントム・ローズ」


 ナイト・メアが言った。


「また奪うのか。眠りさえも」


「眠りは奪わない」


 ローズは静かに答える。


「だが、眠りを檻に変えた結び目は断つ」


 薔薇の鞭が走った。紅い軌跡が月光の下でしなり、ナイト・メアの黒いローブを切り裂く。彼は身を引き、白い爪で鞭を弾く。火花ではなく、黒い花びらが散った。二度、三度、鞭と爪が交わる。ローズの動きは速い。けれど、ただ強く攻めているのではない。ナイト・メアの身体の奥にある見えない結び目を探っている。ベレッタの弾丸が開いた薔薇の傷。その奥にある、姫の悲しみと夜を縛っている一点を。


 ナイト・メアは姫の前へ戻ろうとした。ローズがそれを遮る。白薔薇の花弁が舞い、刃になって黒いローブへ突き刺さる。ナイト・メアの仮面の亀裂が広がった。彼はそれでも姫へ手を伸ばす。


「姫」


 その声だけは、初めて少し人間に近かった。


「私は、あなたを守ろうとしただけだ」


 姫はその手を見た。白い爪。黒い霧。欠けた仮面。自分を朝から遠ざけるために作られた番人。悲しませるものを排除し、痛みを見なくて済むよう夜を閉じた存在。姫の瞳に、涙の代わりに月光が揺れた。


「知っています」


 姫は言った。


「あなたは、わたくしを守ろうとしました。悲しまなくていいように。朝を見なくていいように。失ったものを、失ったと認めなくていいように」


 ナイト・メアの手が止まる。


「ならば」


「でも、あなたの守り方では、わたくしは朝へ行けない」


 その言葉が、薔薇の鞭より深くナイト・メアへ届いた。白い仮面の亀裂が一気に広がる。ローズが鞭を振るった。紅い刃がナイト・メアの胸の薔薇傷を貫き、その奥にある夜の結び目を断つ。音はなかった。ただ、塔の屋上から風が消えた。月光が一瞬だけ暗くなり、すぐに戻る。


 ナイト・メアの身体が崩れ始めた。黒い霧ではない。夜の欠片だった。小さな硝子片のような暗い粒が、ローブの端から、指先から、仮面の亀裂からこぼれていく。彼は最後まで姫へ手を伸ばしていた。だが、もう届かない。


「姫……」


 声が薄れていく。


「夜は、あなたを傷つけない」


 姫は目を伏せた。


「夜だけでは、生きられません」


 その瞬間、ナイト・メアの仮面が砕けた。欠片は月光を受けて黒く光り、風に巻かれて塔の影へ散った。一部は屋上の石に吸い込まれ、一部は欄干を越えて湖へ落ち、一部は姫のドレスの裾へ触れてすぐに消えた。完全に消えたわけではないのだと、メイには分かった。夜を望む心は、切ればなくなるものではない。喪失を拒む気持ちは、どこかに残る。塔の影に。湖の底に。姫の瞳の奥に。メイ自身の胸の中にも。


 塔の屋上は静かになった。


 メイは腕を押さえて座り込んでいた。痛みはまだある。血はゆっくりと流れている。ローズが近づき、白い花弁を一枚、傷口へ置いた。花弁は淡く光り、血を完全に止めるわけではないが、痛みを少し和らげた。


「ありがとう」


 メイが言うと、ローズは首を横に振った。


「応急だ。君自身の痛みまで消してはいけない」


「痛いのは、必要なの?」


「ときには」


 ローズの返事は短かった。メイはそれ以上聞かなかった。痛みがあるから、自分がここにいると分かる。傷ついたから、ベレッタが守るために撃った。痛みは嫌だ。けれど、全部消してしまえば、きっと大事なものまで分からなくなる。


 ベレッタが近づいてきた。銃を下ろし、何か言おうとしている。だが、言葉が出ない。彼女はメイの腕の傷を見て、顔を歪めた。


「馬鹿」


「うん」


「何で飛び出すの」


「ベレッタが危なかったから」


「だからって」


「勝手に身体が動いた」


「それ、アタシの台詞」


 ベレッタはそう言って、唇を噛んだ。頬にはまだ涙の跡がある。彼女はそれに気づくと乱暴に袖で拭った。


「見た?」


「何を?」


「見てないならいい」


 メイは少しだけ笑いそうになったが、腕が痛んで顔をしかめた。ベレッタは慌てたように手を伸ばしかけ、すぐに引っ込める。


「……死なないよね」


 その声は、とても小さかった。


「たぶん」


「たぶん禁止」


「じゃあ、死なない」


「嘘だったら撃つ」


「死んだあとに?」


「うるさい」


 短いやり取りのあと、二人は同時に黙った。ナイト・メアは消えた。ベレッタは守るために撃った。ローズは夜の結び目を断った。これで朝が来るのだと、どこかで思っていたのかもしれない。少なくともベレッタはそう思っていた。だが、空の月は変わらない。星は近く、湖は黒く、森の蒼い花はまだ夜の底で光っている。東の空に白みは差さない。鳥の声もしない。塔の影は、変わらず湖へ長く落ちている。


「……倒したのに」


 ベレッタが呟いた。


「どうして」


 その声には、怒りよりも呆然とした響きがあった。彼女はずっと、ナイト・メアを倒せば朝が来ると思っていた。姫を守る番人を断てば、夜は崩れると信じていた。信じなければ戦えなかったのだろう。


 ローズは湖を見下ろした。


「夜を守る番人を断っても、夜を望む心が残っていれば、朝は来ない」


 ベレッタは姫を見た。


 姫は屋上の端に立っている。ナイト・メアが消えても、彼女は解放されたようには見えなかった。むしろ、守っていた壁がなくなったことで、剥き出しの恐怖だけが残ったように見える。メイはようやく気づいた。本当に向き合うべき相手は、ナイト・メアではなかった。黒狼でも、鏡の女たちでも、塔の門でもなかった。姫だ。朝を拒むひかり自身の心。メイを見れば朝を思い出してしまうと言った、泣けない少女のかたち。


「姫」


 メイは立ち上がろうとした。腕の痛みにふらつく。ベレッタが無言で支えた。メイは彼女に小さく頷き、姫へ向かって歩こうとした。


 しかし、姫は先に動いた。


 彼女は塔の端へ歩き出した。黒いドレスの裾が月光を引きずる。欄干のない場所。そこから下には、黒い湖が広がっている。見たいものも、見たくないものも沈める湖。黒猫の影も、幼い記憶も、泣けなかった悲しみも、すべてを抱えている湖。


「ならば」


 姫は湖を見下ろした。


「わたくしが沈めばいい」


 ベレッタが息を呑む。


 メイの胸の奥で、鈴が激しく鳴った。


 姫の黒いドレスが、夜風に大きく広がった。まるで、湖へ落ちるために開いた黒い花のようだった。

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