第五章 鏡の塔
鏡の中に、黒猫がいた。
メイは最初、それが自分の背後にいる別のものだと思った。塔の広間は暗く、壁の亀裂を流れる月光が水脈のように床へ落ちている。どこかに黒猫がいて、その影だけが鏡へ映っているのだと、そう思おうとした。だが、鏡の中の黒猫は、メイが息を止めると同じように動きを止め、メイが一歩退こうとすると、黒い前足をわずかに引いた。首には小さな鈴のついた首輪。月光を受けた瞳は、金色とも青ともつかない不思議な色をしている。黒い毛並みは柔らかそうで、耳の先だけがほんの少し欠けていた。メイは自分の手を見た。人間の手だった。白く、細く、震えている。指が五本あり、爪があり、掌にはまだ黒狼の血のような汚れが残っている。けれど鏡の中では、同じ場所に黒猫の前足が映っていた。細い足。小さな肉球。首輪の鈴が、ちりん、と鳴った。
メイは膝をついた。膝が床に触れる音が塔の中へ広がり、鏡面が水のように揺れる。鏡の中の黒猫も座り込んだ。尾を身体の横へ回し、不安そうにこちらを見上げる。その仕草があまりに自然で、メイの胸は冷たくなった。これは怪物の幻ではない。誰かが自分をからかっているのでもない。鏡は、見たくないものを映している。湖がそうだったように。塔の中に入ってから、世界は優しい嘘をやめてしまったのだ。
「なに、それ」
ベレッタの声が掠れた。彼女は銃を構えていたが、銃口は定まっていない。鏡へ向けるべきか、メイへ向けるべきか、それとも何も撃たずにいるべきか分からないというように、腕が小さく揺れている。怒りで身を支えてきた彼女が、初めてどう怒ればいいのか分からなくなっていた。
「僕にも……分からない」
メイは自分の声が遠くから聞こえるように感じた。分からない。その言葉を何度も使ってきた。便利だとベレッタに言われた。けれど今は、その便利な言葉さえ足りなかった。分からないのではない。分かりかけているのに、受け入れる形が自分の中にない。少年である自分。人間の手。人間の声。人間として怖がり、泣きそうになり、ベレッタと言い合い、ローズに問いかけてきた自分。その奥に、黒い毛並みと鈴の音がある。どちらが本当なのか。どちらも本当ではないのか。
鏡の表面に、白い波紋が広がった。黒猫の姿の背後へ、別の景色が浮かび上がる。少女の膝の上だった。白いワンピースの裾。細い手。膝の上に丸くなっている黒い身体。温かい。ひどく温かい。少女の指が耳の後ろを撫でる。そこを撫でられると、身体の奥から力が抜ける。喉が勝手に鳴る。ごろごろという震え。メイは自分の喉に手を当てた。人間の喉からはそんな音は出ていない。けれど、記憶の中の身体は確かに鳴っていた。
――メイ。
声がした。優しい声。少し眠そうで、けれど名前を呼ぶときだけ明るくなる声。
――メイ、こっちおいで。
鏡の中で、黒猫が少女の膝へ飛び乗る。少女が笑う。顔はまだぼやけている。だが、笑い方だけははっきりしていた。口元を少し押さえるように笑う。声を出しすぎると誰かに叱られると思っているみたいに、静かに、それでも嬉しそうに。
映像が変わる。窓辺の昼寝。雨音。カーテン越しの白い光。黒猫は丸くなり、少女はその隣で本を読んでいる。ときどき本から目を離し、黒猫の背中を撫でる。鈴が小さく鳴る。ちりん、ちりん。次の記憶では、夜だった。少女はベッドの中にいて、黒猫は枕元に座っている。少女が布団から手を出し、黒猫の前足をそっと握る。
――今日ね、学校で少しだけ嫌なことがあったの。
声は続く。けれど、内容は水に沈むように曖昧になる。誰かと話せなかったこと。笑い方が分からなかったこと。大丈夫と言ったのに大丈夫ではなかったこと。黒猫は言葉を返さない。ただ、そこにいる。少女が話し終わるまで、逃げずにいる。それだけで、少女は少し息ができるようだった。
メイの頭が痛んだ。痛みは、思い出すたびに強くなる。鏡の中の映像は止まらない。雨の日。黒猫を抱き上げる少女の腕。首輪についた小さな鈴。古い宝石箱。中にしまわれた写真。オルゴールの蓋。病院ではない部屋。白ではない壁。窓辺に置かれた椅子。少女の膝。少女の声。
そして、苦しい呼吸。
メイは息を詰まらせた。鏡の中で黒猫が横たわっている。身体が重い。呼吸が浅い。喉の奥が熱い。少女の顔が近い。泣きそうなのに泣いていない顔。何度も名前を呼んでいる。
――メイ。
――メイ、お願い。
――いかないで。
視界が狭くなる。少女の顔が遠ざかる。鈴の音が聞こえない。身体の輪郭が薄くなっていく。最後に見えたのは、少女の目だった。涙を溜めているのに、こぼせない目。泣いたら本当に終わってしまうと分かっているから、泣けない目。
メイは倒れそうになった。ベレッタが腕を掴む。乱暴な手だったが、支えは確かだった。
「しっかりして」
「僕……」
言葉が続かない。僕は人間じゃなかったのかもしれない。そう言おうとした。だが、言葉にしたらもう戻れない気がした。自分で認めた瞬間、少年の身体が剥がれ落ち、鏡の中の黒猫だけが残ってしまうようで怖かった。
鏡の表面が、また波打った。
今度の波は記憶ではなかった。黒い鏡面の奥から、白い指が浮かび上がる。一本、二本。水面を破るように、誰かの手が鏡のこちら側へ出てきた。ローズが一歩前へ出る。ベレッタが銃を構える。メイは立ち上がろうとして、まだ膝に力が入らなかった。
鏡の中から女たちが現れた。
ひとりではない。三人、五人、七人。数えるたびに増えているように見える。彼女たちは長い衣をまとい、目元を白い布で覆っていた。顔は見えない。だが、口元には穏やかな微笑みがある。手には輪の形をした杖を持っている。輪の内側には鏡面のような薄い膜が張り、そこに広間の月光が歪んで映っていた。彼女たちは床へ足をつけているのに、足音を立てない。まるで鏡の裏側から静かに染み出してきた白い影だった。
「思い出さなくていい」
声がした。ひとりの声ではない。複数の少女の声が重なり、優しく、甘く、どこか水の底から聞こえるように響いた。
「痛い記憶は、持っていなくていい」
「一人で抱えなくていい」
「痛みは分ければ薄くなる」
「悲しみは、みんなで溶かせばいい」
メイは耳を塞ぎたくなった。けれど、その声は耳からではなく、胸の中へ直接流れ込んでくる。優しい。確かに優しい。怖い言葉ではない。むしろ、今のメイが一番欲しい言葉に似ていた。思い出さなくていい。痛くならなくていい。自分が猫でも、人でも、その違いで苦しまなくていい。曖昧なままでいい。名前を捨てれば、何者かを問われなくて済む。
「あなたが猫でも、人でも」
「名前を捨てれば苦しまない」
「私たちになれば、ひとりではない」
「ひとりは怖いでしょう」
「ひとりは、さみしいでしょう」
女たちの布で覆われた顔が、メイへ向けられる。目は見えないのに、見られていると分かる。彼女たちはメイの姿を見ていない。メイの奥にある空白を見ている。名前を思い出したばかりの不安。自分の正体が崩れそうな恐怖。誰かを目覚めさせなければならないのに、自分が何者か分からない孤独。そこへ、彼女たちは手を差し伸べてくる。
「ミラーズ……?」
ベレッタが低く呟いた。言葉の意味は分からないが、その声には嫌悪があった。ローズは静かに答える。
「残響だ。鏡面に残った救済の匂いが、この子の不安に反応している」
「救済?」
ベレッタが吐き捨てる。
「これが?」
女たちは微笑んだまま、輪の杖を掲げる。鏡面の膜が白く光り、広間の空気が水のように重くなった。メイの身体が動かない。自分の輪郭が外側から溶かされていくような感覚。少年の手も、黒猫の前足も、名前も、記憶も、全部が柔らかな水の中へ混ざっていくような、恐ろしく甘い感覚だった。
「メイ!」
ベレッタが叫んだ。彼女の声が、霧の中で遠く聞こえる。
「ぼうっとするな!」
メイは返事をしようとした。だが、口が重い。女たちの声がさらに近づく。
「思い出す必要はない」
「あなたが誰だったかなんて、どうでもいい」
「大切なのは、もう苦しまないこと」
「あなたを呼んだ子も、私たちと一緒なら苦しまない」
「みんなでひとつになれば、なくしたものも、なくならない」
その言葉の中に、ひかりという名前が沈みかけた。メイははっとした。名前を捨てれば苦しまない。けれど、名前を捨てたら、誰がひかりを呼ぶのか。誰がメイを覚えているのか。誰が泣けなかった少女のそばへ戻るのか。
杖が振り下ろされる。
その直前、薔薇の香りが広間を切り裂いた。
ローズがメイの前へ立っていた。黒いインバネスの裾が大きく翻り、白い仮面が鏡の光を受ける。彼女の手に、紅い薔薇の鞭が現れた。花の蔓のようにしなやかで、刃のように鋭い。鞭が空を裂く。輪の杖と衝突した瞬間、澄んだ音が鳴った。硝子が歌うような音だった。
女たちは後退しない。布で目を覆ったまま、美しい所作で杖を回す。輪の内側の鏡面が月光を反射し、無数の白い刃のような光を放った。ローズは一歩も引かず、鞭でそれを打ち払う。白薔薇の花弁が広間へ舞った。花びらはただの花ではない。一枚一枚が薄い刃になり、鏡の光を断ち、女たちの衣を裂く。裂かれた衣の奥には肉がない。代わりに、別の誰かの顔、誰かの手、誰かの声の断片が重なっている。少女の笑い声。泣き声。助けて、という声。大丈夫、と言われたかった声。名前を呼んでほしかった声。
メイは立ち上がれずに、その戦いを見ていた。ローズは強い。美しく、速く、迷いがない。だが、そこに憎しみはなかった。敵を切る怒りではない。絡まった糸を切り、沈んだものをこれ以上深く沈めないための刃。けれど、切られるものもまた、元は誰かの痛みだった。だから一振りごとに、広間には薔薇の香りと、哀しい匂いが混ざっていく。
「あなたも、一人だった」
ミラーズの一体が、ローズへ語りかけた。声が変わる。先ほどまでの重なった声ではなく、一人の少女の声だった。
「ひとりで抱えたから、そんな仮面をつけた」
ローズの鞭が一瞬だけ止まった。
「一人は、さみしいよ」
その声は、あまりにも小さかった。戦う敵の声ではなかった。夜の保健室か、誰もいない教室か、家に帰れない廊下の隅で呟かれたような声だった。メイは胸が痛くなった。ベレッタも銃を構えたまま動けずにいる。
ローズは沈黙した。白い仮面の奥で、何かが揺れた気がした。けれど次の瞬間、彼女は鞭を振るった。紅い軌跡が空を裂き、ミラーズの身体を鏡面ごと断つ。女の姿が白い破片になって崩れた。消える寸前、その口元だけが微笑んだままだった。救われたのか、救われなかったのか、誰にも分からない微笑み。
戦いは長くは続かなかった。ミラーズ残響は数を増やしているように見えたが、ローズの鞭が鏡の接続を切るたびに、広間の水のような重さは薄れていった。ベレッタも遅れて銃を撃つ。彼女の弾丸は影ではなく、女たちの足元に映る鏡像を狙った。赤い火花が咲き、輪の杖が砕ける。メイは立とうとして、床に手をついた。まだ頭が痛む。けれど、もう女たちの声は胸の中へ入ってこない。
最後の一体が鏡へ戻ろうとした。ローズはそれを追い、鞭を振るう。白い花弁が舞う。鏡面に亀裂が走り、女の姿が薄くなる。そのとき、女はメイの方を向いた。布で目は見えない。だが、メイは見られていると感じた。
「名前を持つと、さみしいよ」
それだけ言って、彼女は砕けた。
広間に静寂が戻った。鏡は黒く沈黙している。メイの姿も、黒猫の姿も、もう映っていない。ただ、割れた水面のような波紋だけが残っていた。
ローズは鞭を下ろした。紅い薔薇の鞭は花びらへほどけ、空気に溶ける。彼女は少しだけ顔を伏せた。
「哀しい匂いがする」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ベレッタは銃を下ろし、苛立ったように言った。
「敵でしょ」
「敵であることと、哀しくないことは同じではない」
ローズの返事は静かだった。
「彼女たちは、苦しみを消そうとする。個の境界を薄め、名前をほどき、痛みを分け合うことで救われると囁く。だが、それは目覚めではない」
「ナイト・メアと何が違うの」
ベレッタの声には棘があった。けれど、それは単なる反発ではない。知りたいという気持ちも混じっていた。
「ナイト・メアは悲しみを夜に閉じ込める。ミラーズは悲しむ者の輪郭を溶かす。どちらも、苦しまないための形だ」
「どっちも駄目ってこと?」
「どちらも、あの子自身が朝へ戻る道ではない」
あの子。ひかり。名前は出なかったが、メイには分かった。ひかりはメイを失った悲しみを誰にも分かってもらえなかった。たかが猫、と言われたのかもしれない。ただの猫でしょ、と誰かが言ったのかもしれない。そんな孤独が、鏡の残響を呼び寄せた。ひとりで抱えなくていい。名前を捨てれば苦しまない。そう囁くものたちを。
メイは自分の掌を見た。人間の手。けれど、鏡には黒猫が映っていた。
「僕は……」
声が震えた。
「僕が猫だったなら、ひかりは……僕のために、こんなところにいるの?」
ローズは答えなかった。ベレッタも言葉を探しているようだった。いつものように「知らない」と切り捨てることも、「猫のために馬鹿みたい」と怒ることもできない。彼女はメイの顔を見て、すぐに目をそらした。
そのとき、広間の奥で石が動く音がした。巨大な鏡の背後に、白い月光が縦に走る。壁だと思っていた場所が割れ、螺旋階段が現れた。上へ続く階段だった。石段は細く、手すりはなく、壁の亀裂を流れる月光だけが道を照らしている。階段の上から、微かな風が降りてきた。湖の風ではない。もっと高く、冷たく、塔の頂に近い風だった。
「道が開いた」
ローズが言った。
ベレッタは銃をしまい、すぐに階段へ向かった。だが、二段ほど上ったところで振り返る。
「来るんでしょ」
メイは頷いた。膝はまだ少し震えている。だが、広間に留まる方が怖かった。鏡はもう黒いだけなのに、いつまた黒猫を映すか分からない。思い出すことから逃げても、塔は上へ進めと言っている。
三人は螺旋階段を上った。階段の壁には、いつの間にか扉が並び始めていた。小さな扉、大きな扉、白い扉、古い木の扉、病室の扉、子ども部屋の扉。塔の外から見たとき、こんな数の部屋があるとは思えなかった。扉の隙間からは、それぞれ違う音が漏れている。
子どもの笑い声。猫の鈴の音。食器の触れる音。両親らしき男女の低い言い争い。病院の心電図。雨音。誰かが泣くのをこらえる息遣い。
そして、声。
――ただの猫でしょ。
メイは足を止めた。胸が痛む。扉の一つ、薄い灰色の扉の向こうから聞こえた声だった。誰の声か分からない。悪意のある声ではなかったのかもしれない。慰めようとして失敗した声かもしれない。けれど、その言葉は刃のように鋭かった。
――メイは、ただの猫じゃない。
幼い声が言い返す。震えている。怒っている。泣きそうなのに、泣いていない。
――メイは、わたしの……
その先は聞こえなかった。扉の向こうで、何かが崩れるような音がした。メイは扉へ手を伸ばした。開けなければいけない気がした。この先に、ひかりの悲しみがある。自分の記憶がある。自分が黒猫だったのか、人間なのか、それを知る手がかりがある。
だが、指が取っ手に触れる寸前で止まった。
違う、と思った。
根拠はない。ただ、胸の奥で鈴が鳴った。ちりん、と小さく。ここではない、と告げるように。メイは手を引いた。
「開けないの?」
ベレッタが訊いた。驚いている。彼女なら開けていただろう。敵を倒すための情報があるかもしれない。姫の弱点があるかもしれない。ナイト・メアの正体があるかもしれない。そう考えるのが、ベレッタのやり方だ。
「開けない」
「なんで。記憶でしょ。あの魔女を倒す方法が分かるかもしれない」
「僕が行かなきゃいけないのは、ここじゃない」
言ってから、メイ自身が驚いた。自分で決めたというより、言葉が胸の奥から出てきた。ベレッタは眉をひそめる。
「何それ。急に分かった風なこと言うじゃん」
「分かったわけじゃない。でも、ここで扉を開けて覗き見ることじゃない気がする。ひかりの記憶を、勝手に開けて、使うことじゃない」
「使う?」
「倒すために見るのは、違う気がする」
ベレッタの顔が険しくなった。
「じゃあ何しに来たの。倒すためじゃないなら、塔まで何しに来たの。ナイト・メアも、姫も、そのままにして、また夜を続けさせる気?」
「違う」
「何が違うの」
階段の途中で、二人は向き合った。ローズは数段下で立ち止まり、口を挟まなかった。扉の向こうから、子どもの笑い声と心電図の音が重なって聞こえている。塔そのものが、二人の答えを待っているようだった。
メイは言葉を探した。倒すためではない。救うため、と言えば簡単だ。けれど、その言葉も違う気がした。自分が誰かを救えるほど強いとは思えない。ひかりが何を望んでいるのかも、まだ分からない。姫が何を恐れているのか、ベレッタが何に怒っているのか、ナイト・メアが何を守ろうとしているのか、その全部が絡まっている。
「会いに来たんだと思う」
やっと出た言葉は、それだった。
ベレッタの目が揺れた。
「会いに?」
「うん。倒すためでも、責めるためでもなくて。たぶん、会いに来た。名前を呼ぶために。ひかりが、僕を呼んでくれたなら、今度は僕が呼ばなきゃいけない気がする」
ベレッタは黙った。強い沈黙だった。メイの言葉は、彼女の怒りの鎧ではなく、その奥にあるものへ直接触れてしまったらしい。彼女も本当は、姫に会いたかったのではないか。殺したいのではなく、振り向いてほしかった。塔の中へ入れてほしかった。湖の上で一人だけ踊る姫に、こちらを見てほしかった。その痛みが、ベレッタの片目の奥に浮かんでいた。
「……綺麗事」
やがて、彼女はそう言った。けれど、声は弱かった。
「そうかも」
「会っただけで、何が変わるの」
「分からない」
「またそれ」
「でも、会わなきゃ何も変わらないと思う」
ベレッタは歯を食いしばった。言い返したいのに、言い返せない顔だった。彼女はメイを押しのけるようにして階段を上った。
「勝手にすれば」
いつもの言葉。けれど、置いていく足取りではない。メイは小さく息を吐き、その後を追った。
階段を上るほど、月光は強くなった。壁の亀裂を流れる光が太くなり、扉の数は減っていく。代わりに、塔の中を風が吹き始めた。どこから入ってくるのか分からない風。冷たく、少しだけ花の匂いがする。その風の奥に、微かな旋律が混じっていた。
オルゴールの音だった。
メイは足を止めそうになった。ちりんという鈴の音とは違う。もっと細く、金属の歯車が小さな櫛を弾くような音。ゆっくりとした旋律。優しくて、少し悲しい。聴いたことがある。何度も。眠る前に。雨の夜に。誰かが蓋を開けるたびに、その曲が流れていた。宝石箱。古い木の箱。中にしまわれた首輪。写真。幼い字で書かれた名前。
メイは胸を押さえた。
「知ってる」
ベレッタが振り返る。
「何を」
「この曲。僕、知ってる気がする」
「また記憶?」
「たぶん」
ベレッタは何か言いかけて、やめた。彼女はもう、メイの記憶をただ邪魔なものとして扱えなくなっているのかもしれない。自分が撃ち砕いた湖面の映像と、塔の扉から聞こえる声と、メイの中に戻りつつある黒猫の記憶。それらは全部、姫へ続いている。そして、ベレッタ自身にも続いている。
階段の終わりに、月光の扉があった。扉というより、光そのものが縦に立っている。向こう側から風が吹き込み、オルゴールの旋律がはっきり聞こえる。メイはベレッタを見た。ベレッタは銃を握り直し、顎を上げた。怖くないと言う代わりの姿勢だった。ローズは二人の背後で静かに立っている。
「行くよ」
ベレッタが言った。
「うん」
メイは頷いた。
三人は月光の扉を抜けた。
視界が白く染まる。風が強くなる。塔の内側の湿った暗さが一気に消え、冷たい夜空が開けた。そこは塔の屋上だった。周囲には低い欄干があり、その外には黒い湖と蒼い花の森が広がっている。空の月はすぐ近くにあった。手を伸ばせば触れられそうなほど大きく、白く、冷たい。水底の月も、遥か下で同じように輝いている。
屋上の中央に、姫が立っていた。黒いドレスが夜風に揺れている。湖の上で見たときよりも、近い。美しく、寂しく、そしてひどく疲れた顔をしていた。
その隣に、白い仮面のナイト・メアがいた。黒いローブは月光を吸い、影のように長く広がっている。彼はまるで最初からそこにいたかのように、静かにメイたちを待っていた。
「来てしまったのですね」
姫が言った。
その声は、風に消えそうなほど細かった。
「メイ」
名前を呼ばれた瞬間、メイの胸の奥で、鈴が強く鳴った。




