第四章 薔薇の道
湖に落ちた紅い花びらは、沈まなかった。黒い水面の上に触れたまま、薄い硝子のように硬くなり、月光を受けて内側から淡く光った。一枚だけなら、ただの異物に見えただろう。けれど二枚目、三枚目、四枚目が落ちるにつれ、花びらは互いに寄り添い、重なり、湖の上へ細い道を作り始めた。紅い色は鮮やかなのに、どこか喪の気配を帯びている。薔薇という花は、この夜ではいつも美しさより先に痛みを連れてくる。花びらの下で湖が揺れた。水面に映った二つの月が、赤い波紋に裂かれていく。空の月も、水底の月も、その道がどこへ向かうのかを知っているように、じっと光を落としていた。
メイは息を呑んだまま、湖上へ伸びていく道を見つめていた。さっきまで、そこには何もなかった。船も橋もない、黒い水だけがあった。手を伸ばせば沈む、見たいものも見たくないものも映す湖。けれど今、その湖の上に、薔薇の花びらでできた道が浮かんでいる。頼りなく、美しく、危うい道だった。一歩踏み出せば割れてしまいそうなのに、どうしてか壊れないと分かる。そういう不思議な確かさがあった。
ベレッタは銃を構えたまま、顔を険しくしていた。彼女の片目は、湖上の道ではなく、その道の始まりを見ている。そこに、紅い花びらが渦を巻いていた。薔薇の香りが濃くなり、蒼い花の冷たい匂いを押しのける。やがて花びらの渦の中から、黒い影が立ち上がった。黒いインバネス。長い髪。白い仮面。月光を浴びても白くなりすぎない黒と、夜の中でも沈まない白。ファントム・ローズは、湖のほとりに音もなく現れた。
「今さら何しに来たの」
ベレッタの声は鋭かった。銃口は下げていない。ローズへ向けているわけではないが、いつでも向けられる角度だった。
ローズは動じなかった。仮面の奥の表情は見えない。ただ、その存在だけで湖面の波紋が少し静かになる。
「君たちが、塔へ行く時が来た」
「時が来た?」
ベレッタは鼻で笑った。笑いというより、喉の奥で割れた音だった。
「勝手なこと言わないで。こっちはずっと行こうとしてた。ずっと、何度も、あの塔に近づこうとしてた。湖に沈みかけて、マガミに追われて、ナイト・メアに邪魔されて、それでもずっと。今さら時が来たなんて、どの口で言うの」
ローズは否定しなかった。言い訳もしなかった。その沈黙が、かえってベレッタを苛立たせた。赤い頭巾の下で、彼女の片目が怒りに濡れていく。
「あんたがくれた銃じゃ、何も終わらなかった」
「そうだ」
ローズは静かに答えた。
「終わらせるための銃ではない」
ベレッタの顔が強張った。
「は?」
「それは、君が自分の怒りに呑まれないための形だ」
「意味分かんない」
ベレッタは銃を持つ手に力を込めた。銃身に刻まれた小さな薔薇の印が、月光の中で一瞬だけ赤く光った。
「怒りがあるから戦えるんでしょ。怒ってなきゃ、こんな夜を歩けない。怒ってなきゃ、姫を殺すなんて言えない。怒ってなきゃ、怖くて何もできない」
「怒りは火だ。暗い場所では道を照らす。だが、抱きしめれば君を焼く」
「焼けたっていい」
「よくない」
ローズの声が、わずかに低くなった。叱責ではない。だが、その一言には強い拒絶があった。
「君が燃え尽きても、この夜は終わらない」
ベレッタは言い返そうとして、言葉を失った。メイは二人を見比べた。ローズとベレッタのあいだには、明らかに過去がある。ベレッタが片目を失い、銃を得た夜。朝を取り戻す力が欲しいと願った夜。ローズが何を言い、何を渡し、何を預かったのか、メイには分からない。けれど、ベレッタの怒りはローズにだけ向いているわけではない。ローズを責めることで、自分を責めないようにしている。そう見えた。
「じゃあ、何のためなの」
ベレッタが絞り出すように言った。
「この銃は何のため? アタシの目は何のため? アタシは何のためにずっと戦ってたの」
ローズはすぐには答えなかった。湖の上で薔薇の道が伸びていく。花びらは霧の奥へ、塔の方へ、静かに連なっていく。道ができる音はしない。だが、湖面の下で何かが目を覚ますような、低い震えがあった。
「塔へ行くには、姫を殺す力では足りない」
ローズは言った。
「姫に届く名前が必要だ」
「名前?」
ベレッタは唇を歪めた。
「アタシにだって名前はある。ベレッタ。あんたが知ってるでしょ。アタシが何度も呼ばせた。アタシはここにいる。湖の上で泣いてるだけの姫より、ずっとここで戦ってる」
「君の名前は、まだ半分しか届いていない」
その言葉が落ちた瞬間、ベレッタの表情が止まった。
怒りより先に、傷ついた顔だった。まるで、長いあいだ自分で見ないようにしていた傷を、白い指でなぞられたような顔。メイは胸が痛くなった。ローズの言葉の意味は分からない。半分しか届いていない名前。けれど、それがベレッタにとってどれほど残酷な言葉なのかは分かった。ベレッタは自分の名前を持っている。銃を持ち、怒りを持ち、目的を持っている。それでも届かないと言われた。自分では足りないと言われたのだ。
「……何、それ」
ベレッタの声は小さかった。
「アタシが半分ってこと?」
ローズは答えない。その沈黙は肯定にも否定にも見えた。ベレッタは銃を握りしめた。撃つかと思った。だが、撃たなかった。怒りがあるのに、引き金へ流れていかない。流れない怒りは、胸の内側で彼女自身を傷つけているようだった。
「行こう」
ローズは湖上の道へ視線を向けた。
「道が保つ時間は長くない」
メイは花びらの道を見た。紅い道は岸から湖へ伸び、霧の奥で見えなくなっている。そこを歩くのだと思うと、足がすくんだ。水面は黒く深い。さっき黒猫の影を追いかけて落ちかけた湖だ。見たいものも見たくないものも映す場所。花びらの道があるといっても、それは薄い硝子のようで、一歩踏むだけで割れて沈みそうに見える。
「……本当に、乗って大丈夫なの?」
メイが尋ねると、ベレッタが横から言った。
「怖いならここで待ってれば」
「待ってたら、塔に行けない」
「じゃあ行けば」
「一緒に行こう」
メイは思ったままを言った。ベレッタは一瞬だけこちらを見た。その目が、少し揺れる。けれどすぐに顔をそむけた。
「言われなくても行くわよ」
声はいつも通り乱暴だった。だが、表情は暗かった。ローズの言葉がまだ刺さっている。君の名前は、まだ半分しか届いていない。その半分という言葉が、ベレッタの背中を少し小さくしていた。
メイは先に一歩、薔薇の道へ足を乗せた。花びらは沈まなかった。むしろ、足裏に触れた瞬間、内側からふわりと光った。紅い花びらの縁に金色の線が走り、足元から波紋のように光が広がっていく。湖面の下で、沈んでいた月がこちらを見上げたような気がした。メイは驚いて足を引きそうになったが、道は揺れなかった。
「光った」
ベレッタが低く言った。
「僕が何かした?」
「知らない」
ベレッタは不機嫌そうに道へ足を乗せた。花びらは沈まない。けれど光らなかった。彼女が二歩、三歩と進んでも、道はただ赤いままだ。メイが踏んだ場所だけが淡く輝き、彼の足元に小さな光の輪を作る。その差は、誰の目にも明らかだった。
ベレッタは何も言わなかった。言わなかったが、顎が強張っている。メイは悪いことをしたような気になった。自分が望んだわけではない。なぜ光るのかも分からない。それでも、ずっと塔へ行こうとしてきたベレッタの前で、自分だけが道に認められているように見えることが、ひどく申し訳なかった。
「ベレッタ」
「何」
「たぶん、僕がすごいんじゃないよ」
「慰め?」
「違う。ほんとに分からないだけ」
「分からないって便利ね」
言い捨てるような声だった。メイは何も返せなかった。ローズは二人の後ろを歩いている。足音はしない。薔薇の道を踏んでも、ローズの足元には光も波紋も生まれなかった。彼女はこの道を歩いているというより、道と湖と夜のあいだを滑るように進んでいる。
湖の中央へ近づくほど、空気が冷たくなった。岸辺の蒼い花は遠ざかり、黒い水と紅い道と白い霧だけが世界になっていく。メイは下を見ないようにして歩いたが、湖は見ないでいることを許さなかった。足元の花びらの隙間から、黒い水面が覗く。そこに、映像が浮かび始めた。
小さな手が、黒い子猫を抱いている。
メイは足を止めた。
「どうしたの」
ベレッタが振り返る。その声はまだ少し冷たい。だが、警戒も混ざっていた。メイは湖面を指さした。水面には、幼い少女の手が映っている。白く小さな手。腕の中に、濡れた黒い子猫がいる。子猫はひどく痩せていて、目も開ききっていない。雨の音が聞こえた気がした。現実の雨ではない。記憶の中の雨。どこかの軒下。冷たい段ボール。震える小さな身体。少女の声が、遠くから聞こえる。
だいじょうぶ。もう、ひとりじゃないよ。
メイの頭に痛みが走った。鋭い痛みではない。奥から押し開かれるような痛み。忘れていた扉の内側で、誰かが爪を立てている。
「見ないで」
ベレッタが言った。
「見ると持っていかれる」
「でも、これ」
「見ないでって言ってるでしょ」
ベレッタは湖面から顔を背けている。彼女には見えていないのか、それとも見ないようにしているのか。メイには分からなかった。
映像は変わった。雨の日の窓辺。白いカーテン。窓ガラスに額を寄せる少女。膝の上に黒猫が丸くなっている。首輪についた小さな鈴が、少女の指で揺らされる。ちりん、と音がした。メイの胸の奥でも、同じ音が鳴った。彼は思わず自分の喉元に手をやった。そこには何もない。首輪も、鈴もない。けれど、音だけがある。
「これは……」
「この湖は、見たくないものを沈めている」
ローズの声が背後からした。
「沈められたものは、消えたわけではない。水の底で、形を変えずに残っている」
映像がまた揺れた。病室の白い天井。点滴の透明な滴。泣けない少女の横顔。車のブレーキ音のような鋭い音。何かが倒れる鈍い音。誰かが名前を叫ぶ声。メイの頭痛が強くなる。花びらの道がぐにゃりと歪んだように見え、彼はふらついた。
ベレッタが腕を掴んだ。
「落ちる!」
「ごめん」
「謝るな、歩け」
口調は乱暴だが、手は離さなかった。その手は思ったより温かかった。メイはその温度に支えられながら、再び前へ進んだ。だが湖面の映像は終わらない。今度は、幼い少女が映った。長い髪。大きな瞳。腕の中に黒猫を抱いている。少女は笑っている。嬉しそうに、安心したように。黒猫は少女の胸元で目を細めている。その首には、小さな鈴のついた首輪があった。
メイは息を止めた。
「この子……」
ベレッタが湖面を見てしまった。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬で彼女の顔が変わった。怒りでも恐怖でもない。もっと生々しい、剥き出しの痛みだった。彼女は銃を抜いた。
「ベレッタ?」
メイが止める前に、銃声が響いた。
湖面の映像が砕けた。赤い弾痕が水面に咲き、少女と黒猫の姿は硝子の破片のように散った。波紋が荒れ、薔薇の道が揺れる。メイは足元を踏みしめた。映像は消えたが、鈴の音だけがしばらく耳の奥に残っている。
「どうして撃つの?」
メイの声は震えていた。怒っているのか、悲しいのか、自分でも分からなかった。見てはいけないと言われた。見れば痛いのも分かった。けれど、あの映像は大事なものだった気がする。自分と、この世界の主と、塔の姫と、ベレッタをつなぐ何かだった。それを撃ち砕かれたことが、胸に刺さった。
ベレッタは銃を握ったまま叫んだ。
「見たって意味ない!」
声が湖に反響する。霧が震え、塔の影が少し揺れた。
「思い出したって戻らない。どれだけ見たって、どれだけ綺麗に残ってたって、なくなったものは戻らない。だったら見るだけ無駄。苦しくなるだけ。だったら撃った方がまし!」
その叫びは、姫の言葉と同じ場所から出ていた。朝が来れば、いないものがいないと分かってしまいます。姫は思い出を美しい夜に閉じ込める。ベレッタは思い出を怒りで撃ち砕く。向いている方向は反対なのに、どちらも同じものから逃げている。メイはそれを感じた。けれど、言えなかった。言えばベレッタが本当に壊れてしまう気がした。
ローズは何も言わない。止めもしない。責めもしない。ただ、湖面に残った赤い波紋を見ている。その沈黙が、ベレッタにはいっそう辛かったのかもしれない。
「何か言えば」
ベレッタが吐き捨てた。
「また、怒りに呑まれるなとか、半分しか届いてないとか、そういう偉そうなこと」
「君は、自分が撃ったものを見ている」
「見てない」
「見ている。だから苦しい」
「うるさい」
「苦しいまま歩けるなら、それでいい」
ベレッタは舌打ちした。だが、もう撃たなかった。銃を下ろし、顔を背ける。メイはそっと息を吐いた。薔薇の道はまだ続いている。湖面の記憶は砕けたあと、しばらく何も映さなかった。ただ黒い水と月だけがある。その沈黙が、かえって怖かった。
やがて霧が薄くなり、塔が近づいた。
湖の中央に立つ塔は、遠くから見るよりずっと大きかった。白い石でできているようにも、月光そのものを固めたようにも見える。壁は滑らかで、窓は高い位置にいくつかあるだけ。その窓は黒く、内側に明かりはない。塔の根元は湖に沈んでいるのではなく、巨大な円形の台座の上に立っていた。薔薇の道は台座の手前まで伸び、そこで途切れている。三人が台座へ足を踏み入れると、花びらの道は背後でゆっくり崩れ始めた。一枚ずつ水に戻り、赤い波紋を残して消えていく。退路が消えていくようだった。
塔の門は巨大だった。人間が通るためというより、月そのものを閉じ込めるために作られた扉に見える。鍵穴はない。取っ手もない。表面には、月と猫と花の意匠が刻まれていた。満月を抱く黒猫。花びらの上で眠る少女。塔へ向かって伸びる細い道。メイはその彫刻を見た瞬間、胸がまた痛んだ。首のない鈴が鳴る。どこかで見た。見たことがある。けれど、いつ、どこで。
ローズは門に触れなかった。少し離れた位置に立ち、メイとベレッタを見るだけだった。
「開けてよ」
ベレッタがローズに言った。
「君ではない」
「じゃあ、アタシが開ける」
ベレッタは門へ歩み寄り、力任せに蹴った。硬い音が響く。門は揺れない。彼女は歯を食いしばり、銃を構えた。
「ベレッタ、撃っても」
「黙ってて」
銃声が塔の台座に反響した。弾丸は門に当たり、赤い火花を散らした。だが、傷ひとつつかない。薔薇の刻印を持つ銃で撃たれても、門は沈黙したままだった。ベレッタは二発目を撃とうとして、ローズの声に止められた。
「それは、壊すための門ではない」
「じゃあ、何のための門なの」
「呼ばれるための門だ」
「また名前?」
「そうだ」
ベレッタは振り返り、メイを見た。その視線に、メイは身を固くした。怒り。疑い。傷ついた期待。すべてが混ざっている。
「行けば」
「え?」
「どうせ、あんたなんでしょ」
「僕は、何も」
「分かってない、でしょ。知ってる。便利だね、それ」
メイは何も言い返せなかった。分からないことは本当だ。けれど、分からないまま何かが自分を選んでいるように見えることが、ベレッタを傷つけているのも分かる。
メイは門へ近づいた。白い石の扉は、近くで見ると冷たい光を放っている。刻まれた黒猫の意匠に指を伸ばすと、門の内側から、ちりん、と小さな鈴の音がした。
メイの身体が凍った。
その音を知っている。胸の奥でずっと鳴っていた音。雨の日の窓辺。少女の手。首輪。小さな鈴。黒い身体。温かい膝。眠る前の声。
ちりん。
門の内側で、もう一度鳴る。
メイは無意識に呟いた。
「ひかり……?」
その名前が口からこぼれた瞬間、世界が止まった。
ベレッタが息を呑む。ローズがわずかに顔を上げる。湖の月が揺れる。塔の門に刻まれた月と猫と花の意匠が、内側から淡く光り始めた。鍵穴のない門の中央に、細い線が走る。まるで長いあいだ閉じていた瞼が開くように、白い門が左右へゆっくりと開いていく。重い音はしない。石が動いているはずなのに、音は鈴の余韻だけだった。
メイは自分の口を押さえた。
「今の、名前……」
なぜ言ったのか分からない。ひかり。音だけが先に出た。けれど、その名前を口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。同時に、懐かしかった。泣きたいほど懐かしかった。
ベレッタは呆然としていた。開いた門を見ている。自分が何度蹴っても、撃っても、近づけなかった場所。その門が、メイのひとことで開いた。片目を失ってまで銃を得た彼女の前で、メイは何も知らないまま、名前を呼んだだけで塔を開いた。
「あんた」
ベレッタの声が震えた。
「あんた、何者なの」
メイは答えられなかった。答えたいのに、答えがない。ただ、ひかりという名前が胸の中で何度も反響している。ひかり。ひかり。誰。誰なの。僕は君を知っているの。君が僕を呼んだの。
「分からない」
メイはかすれた声で言った。
ベレッタの顔が歪んだ。怒りだけではない。裏切られたような顔だった。メイが彼女を裏切ったわけではない。けれど、世界が彼女を裏切った。ずっと戦ってきた自分ではなく、何も知らないメイを門が選んだ。その事実が、ベレッタの中の柔らかい部分を深く切った。
「結局、アタシじゃ駄目なんだ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「ベレッタ」
「呼ばないで」
メイは一歩近づこうとして、止まった。ベレッタの背中が拒んでいる。近づけば、また銃を向けられるかもしれない。撃たれなくても、言葉で撃たれるかもしれない。けれど、それより怖いのは、何を言っても彼女に届かないことだった。
「アタシはずっとここにいた。ずっと戦ってた。湖も、マガミも、ナイト・メアも、塔も、全部。何度も何度も。なのに、あんたは落ちてきたばっかりで、何も知らない顔して、名前を呼んだだけで」
ベレッタは唇を噛んだ。血が滲みそうなほど強く。
「何なの。アタシは何なの」
その問いは、メイに向けられているようで、誰にも向けられていなかった。塔に。湖に。姫に。ローズに。この夜そのものに。そして、たぶん自分自身に。
ローズは静かに言った。
「この門は、力では開かない」
「聞きたくない」
「ベレッタ」
「聞きたくないって言ってる!」
ベレッタの怒鳴り声が塔の壁に反響し、すぐに吸い込まれた。ローズはそれ以上言わなかった。その沈黙もまた、ベレッタを傷つける。だが、今は何を言っても傷になるのだろう。メイはそう思った。
開いた門の内側には、暗い通路が続いていた。外から見た白さとは違い、塔の中は深い灰色だった。壁は石ではなく、磨かれた骨のような質感をしている。奥から冷たい空気が流れ出し、鈴の音に似た微かな音が聞こえる。
ローズはメイへ向き直った。
「この先で、君は自分の正体に近づく」
メイの喉が乾いた。自分の正体。その言葉は、ずっと避けていた扉に手をかけるようだった。自分は誰なのか。なぜ、この世界へ来たのか。なぜ、ひかりという名前を知っていたのか。湖に映った黒猫の影は何なのか。
「僕は……」
メイは恐る恐る尋ねた。
「僕は、人間じゃないの?」
ローズは答えなかった。
その沈黙だけで、メイの胸は冷たくなった。否定してほしかった。君は人間だ、と。迷い込んだだけの少年だ、と。そう言ってほしかった。けれど、ローズは嘘をつかない。ベレッタが言っていた。嫌いだけど、嘘はつかなかった、と。
「それを知っても、あの子を目覚めさせたいと思えるか」
ローズは言った。
「君は、それを問われる」
メイは門の奥を見た。暗い通路。鈴の音。名前の痛み。ひかり。自分を呼んだかもしれない声。自分が呼ばなければ戻れないかもしれない誰か。怖い。怖くてたまらない。だが、ここまで来て引き返すことはできなかった。背後の薔薇の道はもうほとんど湖へ戻っている。戻る場所は、最初からなかったのかもしれない。
ベレッタはメイを見ずに、先に門をくぐった。乱暴な足取りだった。けれど、置いていくわけではなかった。怒っている。傷ついている。それでも、一緒に塔へ入るつもりなのだ。メイはそれに少しだけ救われ、同時に胸が痛んだ。
「ベレッタ」
「何」
「僕、分からないことばっかりだけど」
「知ってる」
「でも、置いていかないから」
ベレッタは振り返らなかった。しばらく沈黙してから、短く言った。
「足手まといが偉そうに」
いつもの言い方だった。けれど、完全に拒絶する声ではなかった。メイは小さく頷き、塔の中へ入った。ローズは最後に続いた。門は三人が入ると、背後で音もなく閉じ始めた。外の月光が細くなり、湖の匂いが遠ざかる。
塔の内部は、外から見たより広かった。円形の広間があり、天井は高く、闇に沈んで見えない。壁には無数の細い亀裂が走り、その亀裂の中を月光のような白い光が流れている。床は黒い石で、水面のように磨かれていた。足音が妙に響く。広間の中央には、巨大な鏡が立っていた。
鏡は、人の背丈の何倍もある。縁には月と花と猫の意匠が絡み合い、古い祭壇のようにも、棺の蓋のようにも見えた。鏡面は黒く、まだ何も映していないように見える。だが、メイが一歩近づくと、表面に波紋が走った。
「これ……」
メイは立ち止まった。ベレッタも銃を構える。ローズは何も言わない。鏡の黒い面に、少しずつ像が浮かび上がる。
そこに映っていたのは、メイの姿ではなかった。
黒い毛並み。細い身体。月光を受けて光る瞳。首には、小さな鈴のついた首輪。
一匹の黒猫が、鏡の中からメイを見つめていた。




