第三章 赤頭巾と黒狼
蒼い花の森は、湖から離れるほど夜の匂いを濃くした。水面を渡っていた月光は木々の枝に裂かれ、細い銀の筋になって足元へ落ちている。メイはベレッタの少し後ろを歩いていた。赤頭巾の背中は小さかったが、歩き方には迷いがない。草を踏む足音は軽く、倒れた枝を避ける動きにも無駄がない。片目を眼帯で覆っているのに、彼女は暗い森の中でほとんど足を止めなかった。銃を持つ手はずっと緩められず、赤い袖の先で黒い銃身だけが月光を吸って鈍く光っている。メイはその銃を見るたびに、さっき倒れた黒狼の重さを思い出した。胸の上にのしかかった死体。ぬるく、重く、動かないもの。手についた黒い血のようなものは、草でこすっても完全には落ちなかった。指先にまだ冷たい染みが残っている。歩くたびに、それが自分の皮膚ではなく、どこか心の内側についてしまった汚れのように感じられた。
「遅い」
前を行くベレッタが振り返らずに言った。
「ごめん」
「すぐ謝る」
「だって、遅いのは本当だから」
「そういうところが変だって言ってるの」
メイは返事に困った。怒られているのか、呆れられているのか、判断できない。ベレッタは立ち止まらず、蒼白い花の光が薄い方へ進んでいく。メイは慌てて追った。森はどこも同じようで、少しずつ違っていた。湖の近くでは花々が水の底に咲く星のように明るかったが、奥へ進むほど光は小さくなり、木の根が地面を蛇のように這い、枝の影が人の手のように伸びている。ときどき遠くで羊の鳴き声に似た音がした。メイがびくりとすると、ベレッタが舌打ちする。
「全部に怯えてたら、夜が明ける前に心臓が止まるよ」
「夜が明けるの?」
メイが聞くと、ベレッタの肩が少しだけ強張った。
「今は明けない」
「今は?」
「この世界には朝が来ない。ずっと夜。ずっと満月。ずっと湖。ずっとあの塔。うんざりするくらい、ずっと」
その言い方には、長い時間を歩き続けた者の疲れがあった。メイは空を見上げた。月は枝の間にあり、どこから見ても同じ角度でこちらを見ている。歩いても、逃げても、森の奥へ入っても、月だけは変わらない。普通の月なら、雲に隠れたり、木々の隙間で形を変えたりするはずなのに、この月は世界の中心から動かない目のようだった。
「どうして朝が来ないの」
「姫が望んでるから」
ベレッタは即答した。
「湖の魔女が、夜を閉じ込めてる。満月の夜だけ塔から出てきて、湖の上で踊る。そうすると、世界はまた同じ夜を繰り返す。あいつが踊る限り、朝は来ない」
「満月の夜だけって、ここはずっと満月なんじゃないの?」
「だから、ずっと出てこられるはずなんだけど、あいつは気まぐれだから。踊りたいときだけ踊る。泣きたいときだけ湖を揺らす。こっちはずっと待ってるのに」
待っている。メイはその言葉に引っかかった。ベレッタは殺すと言った。倒せば朝が来ると言った。けれど、その声に混じっていたのは、獲物を待つ狩人の熱だけではない。閉じた扉の向こうから誰かが出てくるのを待ち続けている子どもの苛立ちにも聞こえた。
「ナイト・メアは?」
「あいつは姫の番犬。番人。悪夢。どれでもいい。姫を守ってるって顔して、実際は誰も近づけないようにしてる。羊はあいつの使い魔。かわいいふりしてるけど、中身はマガミ。羊の皮を被った黒狼」
ベレッタは言いながら、銃の弾倉を確かめた。慣れた手つきだった。けれど、引き金に触れる指先が一瞬だけ震えたのを、メイは見た。彼女はすぐに手を握り直したが、震えは見間違いではなかった。湖でナイト・メアに向き合ったときも、彼女は撃てなかった。マガミは撃てる。銃も扱える。怒鳴れるし、走れるし、メイを助けることもできる。けれど、白い仮面の前では、一瞬だけ止まる。その一瞬を、ベレッタ自身は認めたくないのだろう。
「あの人は、僕を助けようとしてくれた」
メイは小さく言った。言ってから、また怒られると思った。だが、言わずにはいられなかった。湖の上の姫は、確かにメイを拒んだ。去れと言った。忘れて逃げろと言った。けれど、ナイト・メアが手を伸ばしたとき、彼女は止めようとした。その子に手を出さないで、と言った。その声だけは、嘘ではなかったと思う。
ベレッタは足を止めた。森の影の中で、赤い頭巾だけが冷えた血のように浮かんで見える。
「あんた、何も知らないくせに」
声が低かった。
「知ってることだけで言ってる」
「それが何も知らないって言ってんの。あいつがあんな顔するのは得意なの。助けてるふり。悲しんでるふり。自分は何もできないって顔。全部、夜を終わらせないための言い訳」
「ふりには見えなかった」
「見えるわけないでしょ。あいつは綺麗だから。泣かなければ、悲しそうに見える。踊れば、可哀想に見える。黒い服を着て湖の上に立ってれば、みんな勝手に騙される」
「ベレッタも、そう思ったことがあるの?」
ベレッタの片目が鋭くなった。メイはしまったと思ったが、言葉はもう戻らない。
「何それ」
「だって、そんなふうに言うから。騙されたことがあるみたいに」
「ない」
「本当に?」
「ない!」
ベレッタの怒鳴り声に、足元の蒼い花が震えた。遠く、湖の方で水面がざわめいた気がした。メイは思わずそちらを見た。木々の隙間から見える黒い湖に、小さな波が走っている。風は吹いていない。ベレッタも一瞬だけ湖を見た。すぐに顔を背けたが、その横顔は怒りよりも怯えに近かった。
「あんた、本当に嫌なやつ」
「ごめん」
「謝るな」
「じゃあ、どうしたらいいの」
「黙ってればいい」
「でも、分からないことばっかりで」
「知らない。アタシはあんたの先生じゃない」
「でも、教えてくれてる」
「勝手についてくるからでしょ」
ベレッタは苛立ったように歩き出した。メイは少し距離を取りながら追う。怒らせたのは分かった。けれど、ベレッタの怒りには必ず別の感情が混ざっている。姫を魔女と呼ぶときの声。ナイト・メアを悪夢と言うときの声。マガミを撃つときの顔。どれも強い。けれど、強いものは、弱いものを隠すために硬くなることがある。メイは自分にそんなことを教えてくれた人を思い出せなかったが、なぜかそう知っていた。
「ベレッタは、姫に会いたいんじゃないの?」
気づくと、言っていた。
森が一瞬、息を止めたように静まり返った。
ベレッタが振り返った。片目に、今まででいちばん強い怒りが宿っている。銃口が上がる。メイは身を固くした。撃たれるとは思わなかった。思わなかったが、怖かった。
「違う」
ベレッタは一語ずつ噛むように言った。
「アタシはあいつを殺したいの」
メイは喉を鳴らした。言葉が出ない。ベレッタの声は本気だった。少なくとも、本人は本気でそう信じようとしている。けれど、そのあとに続くはずの怒鳴り声は来なかった。ベレッタは銃を下ろし、唇を噛んだ。赤い頭巾の影で、片目が揺れている。月光がその目に入ると、彼女は反射的に顔を背けた。姫も同じように月を恐れていた気がした。湖の上で、月光に照らされながら、朝を恐れるように。メイはその一致に気づき、胸の奥が少し冷えた。
ベレッタは歩き出そうとして、ふと小さく鼻歌を漏らした。ほんの一瞬だった。本人も無意識だったのだろう。けれど、メイは聞いた。湖で姫が踊っていたとき、水面が鳴らしていた音と同じ旋律だった。声にもならないほど小さいのに、その旋律は夜の中で不自然なほど鮮やかだった。
「今の」
「何」
「歌」
「歌ってない」
「でも」
「歌ってない!」
ベレッタは乱暴に言い切った。湖の方で、また水面が揺れる。ぽん、と遠くで水が鳴った。ベレッタはそれを聞かないふりをして、足を速めた。メイは追いながら、もう何も言えなかった。言えば、何か大事なものに触れてしまう気がした。触れてはいけないのではない。触れたら、ベレッタが壊れてしまうのではないかと思った。
森の奥で、羊が鳴いた。
めえ、と、柔らかく。先ほどと同じ声。だが、今度は一匹ではない。右から、左から、前から、後ろから、複数の声が重なる。メイの背筋が冷たくなった。ベレッタは即座に銃を構えた。怒りも動揺も一瞬で消え、戦う顔になる。その切り替わりの速さが、逆に痛々しかった。
「伏せて」
ベレッタの声は低い。メイは言われた通り、倒れた木の陰に身をかがめた。蒼い花の光が、木の根の隙間から滲んでいる。森の影から、白い羊が一匹、また一匹と現れた。丸く、柔らかく、無害に見える羊たち。数は六匹。いや、七匹。木々の間からゆっくり歩いてくる。どれも同じように白く、同じように可愛らしい目でこちらを見ている。メイの喉が鳴った。あの中のどれかが裂け、中から黒狼が出てくる。だが、どれがそうなのか分からない。全部かもしれない。一匹だけかもしれない。
「どれ」
ベレッタが呟いた。銃口が羊から羊へ揺れる。彼女は撃つべき相手を決められないでいた。前のときは、羊が裂けてから撃った。だが、裂けてからでは近すぎる。今は数が多い。もし外せば、メイもベレッタも逃げ切れない。ベレッタの指が引き金にかかる。撃つか、待つか。彼女の片目に焦りが浮かぶ。
メイは震えながら羊を見た。怖い。逃げたい。けれど、ただ隠れているだけではまた重い死体に押し潰される。自分は何もできない。そう思いかけて、手の汚れが目に入った。黒狼の血。死の重さ。怖いからこそ、見なければいけない。メイは息を止め、羊そのものではなく、足元を見た。
影。
蒼い花の光に照らされ、羊たちの影が地面に落ちている。小さな丸い影。ふわふわした毛並みの影。だが、一匹だけ違った。白い羊の形をしているのに、地面に落ちた影だけが狼だった。耳が尖り、口が裂け、長い尾が揺れている。もう一匹、左の木の陰にいる羊も同じだ。影だけが黒狼の形をしている。
「ベレッタ」
「黙って」
「影」
「何?」
「影が違う。本物のマガミだけ、影が狼になってる」
ベレッタは一瞬だけメイを見た。疑いと苛立ちと、ほんの少しの驚き。だが、すぐに視線を地面へ落とす。メイの言葉を信じるかどうか、迷っている時間はほとんどなかった。羊たちが一歩ずつ近づく。鳴き声は優しい。足音はしない。影だけが、黒い牙を開いている。
「右から二番目」
メイが言った。
ベレッタが撃った。銃声が森を裂き、右から二番目の羊の影を貫いた。弾丸は羊の身体ではなく、その足元の影に咲いた。赤い薔薇のような火花が地面で弾ける。次の瞬間、白い羊の背中が内側から破れ、黒狼が悲鳴を上げて姿を現した。だが、すでに影を撃ち抜かれていたため、完全には飛び出せない。黒い身体が半分だけ裂け目から出たところで、ベレッタの二発目が額を撃ち抜いた。マガミは地面へ崩れ落ちる。
「左、木の陰!」
メイが叫ぶ。
ベレッタは迷わず身体をひねった。銃声。木の根元で赤い火花。そこにいた羊が裂け、黒狼が飛び出す。今度は完全に姿を現した。だが、メイの声に反応したベレッタの三発目が早かった。銃弾は狼の胸を撃ち抜き、黒い身体を後ろの幹へ叩きつけた。残りの羊たちは、めえ、と一斉に鳴いた。すると、その白い身体が紙のように薄くなり、月光に透けて消えていく。偽物だったのだ。柔らかい毛も、つぶらな目も、声も、ただの皮。いや、皮ですらない。夜が作った囮。
森に静けさが戻った。
メイはその場にへたり込んだ。膝が笑っている。怖かった。声を出すだけで喉が痛い。けれど、生きている。ベレッタも生きている。ベレッタは銃を下ろし、倒れたマガミを確認してから、メイの方を見た。
「……まあ」
彼女は言いにくそうに口を開いた。
「ちょっとだけ見直した」
メイは顔を上げた。
「ちょっとだけ?」
「かなり見直したって言われたいの?」
「言われたい」
「調子に乗るな」
ベレッタはぷいと顔を背けた。けれど、メイは少しだけ笑った。こんな状況で笑える自分に驚いた。死にかけた直後なのに、胸の底に小さな温かさがある。役に立てた。ベレッタが自分の言葉を信じてくれた。それだけで、名前を呼ばれたときと似た感覚があった。自分がここにいていいと、ほんの少しだけ思えた。
だが、その温かさはすぐに冷えた。
倒れたマガミの傷口から黒い血のようなものが流れ、近くの蒼い花にかかった。花びらが一瞬だけ赤く染まる。鮮やかな赤。薔薇のような赤。けれど、その赤は美しく咲くのではなく、花の光を食べるように広がった。蒼白い輝きが弱まり、花は小さく震え、やがてふっと消えた。光を失った花は、ただの灰色の草に変わり、茎から折れて地面に倒れた。
メイはそれを見つめた。胸が痛んだ。さっき自分が摘んだ花は、摘んでも光を失わなかった。けれど、この花は死んだ。マガミの血に触れただけで、光を失った。
「この世界でも、死ぬと戻らないの?」
問いは自然に出た。
ベレッタは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。彼女は倒れた花を見ていた。怒りの顔ではなかった。罪悪感とも違う。ただ、自分が気づかないふりをしていたものを、他人の声で言われてしまった顔だった。
「マガミは敵だよ」
少しして、ベレッタは言った。
「ナイト・メアの使い魔。倒さなきゃ、こっちが死ぬ」
「うん」
「だから、殺していい」
「うん」
「いいはずなんだよ」
最後の声だけ、少し小さかった。メイはベレッタを見た。彼女の銃を持つ手が、また震えている。マガミを撃つときは迷わない。けれど、撃ったあとに世界のどこかが少し暗くなることを、彼女は知っているのだ。殺せば終わると思っている。姫とナイト・メアを倒せば朝が来ると信じている。けれど、何かを殺すたび、足元の花が消える。夜が薄くなるのではなく、むしろ別の暗さが増えていく。そのことに、彼女は気づいている。
「ベレッタ」
「何」
「……何でもない」
「言いかけてやめるの、気持ち悪い」
「怒りそうだったから」
「もう怒ってる」
「じゃあ、言わない」
「言え」
メイは困った。言えば怒られる。言わなくても怒られる。ベレッタとの会話は難しい。
「ベレッタは、ほんとは殺したくないんじゃないかなって」
ベレッタの顔が固まった。メイは慌てて続ける。
「マガミのことじゃなくて。いや、マガミもそうかもしれないけど。姫とか、ナイト・メアとか。殺したいって言ってるけど、ほんとは……」
「黙って」
短い声だった。怒鳴られるより怖かった。メイは口を閉じた。ベレッタは銃を見つめていた。銃身の表面に、月光が白く走っている。その白の下に、小さな薔薇の刻印が浮かぶ。さっきも見えた印。紅い花びらの形。メイはそれを見て、指先に残る香りを思い出した。ローズが残した薔薇の香り。
森の道を再び歩き始めてしばらくすると、蒼い花の間に赤いものが落ちていた。ベレッタが先に気づき、足を止める。紅い薔薇の花びらだった。この森には薔薇など咲いていない。なのに、花びらはまるで最初からそこにあったように静かに落ちている。蒼い光を受けても色は変わらず、深い赤のままだった。
ベレッタはそれを拾った。指先で挟むように。大切なものを扱う手つきではない。捨てたいのに捨てられないものに触れる手つきだった。片目に苦い色が浮かぶ。
「ローズを知ってるの?」
メイが尋ねた。
「知らない」
ベレッタは即答した。メイは少しだけ眉をひそめた。ベレッタは自分でため息をつき、観念したように言い直す。
「知ってる。知らないけど、会ったことはある」
「それ、知ってるって言うんじゃないの?」
「うるさい」
ベレッタは花びらを握りつぶそうとして、できなかった。結局、手の中に閉じ込めるだけにする。
「あいつは、アタシにこれをくれた」
彼女は銃を少し持ち上げた。メイは銃身に刻まれた薔薇の印を見る。小さいが、確かにローズの花びらと同じ形だった。
「ローズが?」
「朝を取り戻す力が欲しいって言った。姫を殺せる力が欲しいって。そしたら、あいつは銃をくれた」
「ローズが、殺すための道具を?」
メイは驚いた。ローズは怖かったが、殺すために力を渡す人には見えなかった。歪みを断つ者。夜から出る道を示す者。ベレッタの言葉と、メイが見たローズがうまく重ならない。
「言っとくけど、アタシが頼んだの。あいつが押しつけたんじゃない」
ベレッタは不機嫌そうに言った。
「何もできないのが嫌だった。塔は開かない。湖は渡れない。マガミには追われる。姫は踊ってるだけ。ナイト・メアは守ってるふりして何も変えない。だから、力が欲しかった」
「それで、ローズがくれた」
「代わりに、片目を取られた」
メイは言葉を失った。ベレッタの眼帯を見る。古い布。ほつれた端。彼女はまるでどうでもいいことのように言ったが、どうでもいいはずがない。
「痛かった?」
「忘れた」
「嘘」
「痛かったよ!」
ベレッタは怒鳴った。だが、その怒鳴り声はすぐに萎んだ。彼女は眼帯に触れる。触れ方は乱暴ではなかった。そこにまだ何かがあるのか、それともないものの形を確かめているのか、メイには分からない。
「痛かった。でも、片目くらいで朝が戻るなら安いと思った。……思ったんだよ、そのときは」
「今は?」
「知らない」
「ローズは、どうして片目を?」
「アタシが全部を憎まないように」
ベレッタはぼそりと言った。言ってから、しまったという顔をした。メイは聞き返さなかった。聞き返せば、彼女はきっと怒る。けれど、その言葉はメイの中に残った。全部を憎まないように。片目は奪われたのではなく、預けたものなのかもしれない。怒りに飲まれそうなベレッタから、世界を見る半分をローズが預かった。憎しみだけで撃たないように。殺すためだけの目にならないように。そんなことを、メイはぼんやりと思った。
「じゃあ、その銃は、姫を殺すためだけのものじゃないのかも」
「また分かったようなことを言う」
「分かってないよ。でも、ローズは……そういう人じゃない気がする」
「会ったばっかのくせに」
「ベレッタだって、知ってるんでしょ」
ベレッタは黙った。紅い花びらを手放す。花びらは地面に落ちず、空中で一度だけ揺れ、夜に溶けた。
「嫌いだよ、あいつ」
ベレッタは言った。
「でも、嘘はつかなかった」
それだけ言って、彼女は歩き出した。メイは少し遅れて追った。森の奥は少しずつ開けてきている。水の匂いが濃くなる。蒼い花の光が強まり、木々の間から黒い湖が見え始めた。遠く、白い霧の奥に塔の影が立っている。細く、高く、月へ届くほどに。塔は先ほどより近く見えた。けれど、湖は相変わらず静かで、渡る道などどこにもない。
二人は湖のほとりへ戻った。あの姫が踊っていた水面には、もう誰もいない。黒い湖面が二つの月を抱き、白い霧がゆっくり流れている。岸辺に船はない。橋もない。水面は鏡のように滑らかで、足を踏み入れればそのまま深いところへ引き込まれそうだった。
「満月の夜なら姫が外へ出てきた。でも、もう同じ手は使えない」
ベレッタは苛立ったように言った。
「ナイト・メアに見つかった。マガミも増える。姫もたぶん、しばらく塔から出てこない。最悪。ほんと、最悪」
「ごめん」
「だから謝るなって」
「でも、僕が来なかったら」
「来なかったら、アタシは撃ててたかもね」
ベレッタはそう言った。だが、声には力がなかった。メイは彼女の横顔を見た。撃てていたかもしれない。撃てなかったかもしれない。おそらく、ベレッタ自身にも分からないのだ。だからこそ、メイのせいにしたい。そうすれば、自分の手が震えた理由を見なくて済む。
メイは湖を見つめた。水面に自分の姿が映っている。少年の姿。知らない服。頼りない肩。けれど、その背後に、また黒い影が映った。小さな黒猫の影。岸辺に座り、尾を丸め、こちらを見ている。メイの心臓が跳ねた。
「あ」
彼は思わず水面へ手を伸ばした。指先が湖に触れる寸前、黒猫の影はふいに立ち上がり、森の方へ歩き出す。メイは身を乗り出した。
「待って」
「何してんの!」
ベレッタがメイの襟を掴んだ。次の瞬間、水面がぼこりと膨らみ、黒い手のような波がメイの指先を掠めた。もしベレッタが引き戻していなければ、メイは湖へ落ちていたかもしれない。メイは尻もちをつき、息を呑んだ。水面はもう静かだ。黒猫の影もない。
「今、黒猫が」
「猫?」
「湖に映ってた。僕の後ろに」
ベレッタは湖面を睨んだ。
「この湖は、見たいものも、見たくないものも映す。手を伸ばしたら沈むよ」
「黒猫を知ってるの?」
「知らない」
ベレッタはそう答えたが、なぜか視線を逸らした。メイは追及しなかった。自分でも、なぜ黒猫を追いかけたのか分からなかった。けれど、あの影は怖くなかった。むしろ、懐かしかった。自分の影を見たような、失くしたものに触れかけたような感覚があった。
そのとき、薔薇の香りが濃くなった。
メイは顔を上げた。ベレッタも同時に反応する。森ではない。湖の方から香りが来る。この世界には薔薇など咲いていない。けれど、もうその香りを知らないとは言えなかった。深い赤。甘く、苦く、血と花のあいだにある匂い。
湖面に、紅い花びらが一枚落ちた。
どこから落ちてきたのか分からなかった。空には月しかない。木々は遠い。なのに、花びらは静かに水へ触れた。沈まない。水面に浮かび、ゆっくりと波紋を広げる。その波紋は赤かった。赤い輪が一つ、二つ、三つと広がり、黒い湖面に道筋を描いていく。花びらは一枚だけではなかった。二枚目、三枚目、四枚目。紅い花びらが次々と湖へ落ち、互いに寄り集まり、細い線を作る。
ベレッタが息を呑んだ。
「ローズ……」
花びらは湖の上で沈まず、薄い硝子のように固まっていく。赤い道が、岸辺から霧の奥へ向かって伸び始めた。水面はその下で静かに揺れている。橋ではない。船でもない。薔薇の花びらだけでできた、頼りなく美しい道。だが、その道は確かに塔の方へ伸びていた。
メイは立ち上がった。胸の奥の鈴が、また小さく鳴る。ベレッタは銃を握りしめ、唇を噛んだ。怒りと戸惑いと、捨てきれない希望が、片目の奥で揺れている。
湖の向こうで、白い塔が霧の中に浮かんでいた。
薔薇の道は、そこへ続いている。




