第二章 湖の姫
湖の上で、黒いドレスの女が踊っていた。メイは息をするのを忘れたまま、その姿を見つめていた。森の底を満たしていた蒼白い花の光は、湖畔に近づくほど弱まり、代わりに水面が月を映して明るくなっていた。湖は鏡のように静かだった。だが、鏡と呼ぶには深すぎる。空に浮かぶ月がそこに映っているだけではなかった。水面の月は、空の月よりも少し大きく、少し近く、少し悲しそうだった。まるで湖の底にもう一つの月が沈んでいて、空の月と互いに見つめ合っているようだった。二つの月のあいだで、女は踊っていた。喪服のような黒いドレス。夜の花を縫い合わせたような裾。白い腕。細い指。水面に足を置くたびに、波紋が広がる。その波紋は丸ではなく、花びらの形をしていた。ひとつ踏む。花が開く。もうひとつ踏む。花が沈む。音はほとんどない。ただ、水が微かに鳴る。ぽん、ぽん、と、眠っている誰かの胸を遠くから叩くように。
メイは手の中の蒼い花を握りしめていた。花の光は弱く震えている。湖の方へ一歩近づくと、足元の土が柔らかく沈んだ。岸辺に生えた草が濡れている。水面に近づくほど、胸の奥の鈴の音が強くなる気がした。知っている。あの人を知っている。そう思った。けれど、何を知っているのか分からない。女は大人だった。自分よりずっと背が高く、遠く、悲しみを衣に変えてまとっているような人だった。それなのに、その横顔を見ると、もっと小さな誰かの面影が胸に刺さる。窓辺。白い布。黒い影。小さな手。名前を呼ぶ声。記憶ではなく、記憶の手前にある温度だけが、メイの中で疼いた。
女が踊りを止めた。水面に広がっていた波紋が一斉に静まり、湖は再び鏡に戻る。メイの姿が水に映った。少年の姿。知らない服。知らない手。けれど、その隣に、ほんの一瞬だけ別の影が映った気がした。小さく、黒く、尾のある影。メイが驚いて身を乗り出すと、水面はわずかに揺れ、影は消えた。
女がこちらを向いた。
メイは胸を押さえた。美しい顔だった。けれど、美しさより先に、空洞のような寂しさが目に入った。目鼻立ちが整っているとか、月光に肌が白く浮かぶとか、そういうことではない。彼女は、長いあいだ誰にも見つけてもらえない場所で、自分だけを見つめ続けてきた人の顔をしていた。泣いていない。泣いていないからこそ、目の奥が深く乾いている。唇は薄く閉じられ、微笑んでいるようにも、何かを堪えているようにも見えた。黒いドレスの襟元には、銀色の小さな飾りが揺れている。それは月にも、鈴にも見えた。
女は水面を歩いてきた。足元に水は跳ねない。湖は彼女を拒まない。彼女の歩みに合わせて、水面だけが花の形に凹み、また元に戻る。メイは逃げることも、声をかけることもできなかった。ローズは会えと言った。名前を届けなければ、夜から出られないと言った。けれど、メイには何を言えばいいのか分からなかった。自分の名前を思い出したばかりの少年が、湖の上を歩く喪服の姫に何を言えるというのか。
女は岸から少し離れたところで止まった。手を伸ばせば届きそうで、届かない距離。水面と岸辺の境界が、そのまま二人のあいだの線になっていた。
「お行きなさい」
その声は、思っていたより若かった。大人びているのに、奥に少女の細さが残っている。メイは思わず聞き返した。
「え……?」
「ここは、あなたの来る場所ではありません」
言葉は丁寧だった。けれど、冷たい拒絶ではなかった。むしろ、早く逃げてほしいと願う人の声だった。メイは戸惑った。怖がられているのか。嫌われているのか。そうではない気もする。女の瞳は、メイを見ていた。けれど、メイだけを見ているのではない。メイの背後にある何か、メイ自身も知らない何かを見て、怯えているようだった。
「どうして」
メイはようやく言った。
「僕、あなたを知ってる気がするんです。だから、えっと……話を」
「知ってはいけません」
女は遮った。声が少し震えた。
「わたくしを知ろうとしてはいけません。わたくしに出会ったことを忘れて、ここから去りなさい」
「でも、どこへ行けばいいのか分からない。僕、ここがどこなのかも、自分が何なのかも、まだ全然分からなくて」
「分からないままの方が幸せなこともあります」
その言葉は、ローズの警告に似ていた。真実は、君を救うとは限らない。メイは手の中の花を見た。蒼い光は、湖の月光の中で頼りなく見える。
「ローズも似たようなことを言ってた」
女の表情が、わずかに変わった。
「ローズ……?」
「ファントム・ローズ。黒い服で、白い仮面の……」
そこまで言ったところで、女の顔から血の気が引いたように見えた。黒いドレスの裾が、水面の上で小さく震える。湖面の月が揺れた。
「なら、なおさらお行きなさい。あの方があなたをここへ導いたのなら、あなたは夜の奥へ近づいてしまう」
「あなたは、夜の奥にいるの?」
女は答えなかった。沈黙が水面に落ち、波紋にならずに沈んでいく。メイはその沈黙が怖かった。けれど、同時に放っておけなかった。彼女は美しく、遠く、近づきがたい。だけど、その声はずっと何かを我慢している。誰かに助けてと言う代わりに、去れと言っているようだった。
「僕は、メイっていいます」
メイは思い切って名乗った。名乗れば、何かが変わる気がした。ローズが言っていた。会わなければ、名前は届かない。だから、まず自分の名前を置こうと思った。
「明るいって書いて、メイ。……それしか、まだ思い出せないんだけど」
女の瞳が、大きく揺れた。
その反応は一瞬だった。けれど、メイは見逃さなかった。彼女はその名前を知っている。たぶん、ただ聞いたことがあるだけではない。名前が彼女の内側の深い場所に触れた。触れたから、彼女は痛がった。
「あなた……」
女は水面の上で一歩退いた。水が揺れる。月が割れる。黒いドレスが水面に影を落とし、その影が大きな花のように広がった。
「その名を、ここで呼ばないで」
「どうして」
「戻ってしまうから」
「何が?」
「朝が」
メイは言葉を失った。朝。ローズも夜から出られないと言った。ここは、夜なのだ。誰かの悲しみが流れず、沈んでできた夜。その夜に朝が戻ることを、この女は恐れている。メイには分からなかった。朝はいいもののはずだ。夜が怖いなら、朝が来れば安心できるはずだ。なのに彼女は、朝を恐れている。
「朝が来たら、困るの?」
メイが尋ねると、女はひどく静かな顔になった。
「朝が来れば、いないものが、いないと分かってしまいます」
その言葉は、湖より深く沈んだ。メイは意味を理解できなかった。けれど、胸の奥が痛んだ。いないもの。いないと分かる。誰が。何が。自分の中で、鈴の音が急に遠ざかった。
そのとき、森の奥で羊が鳴いた。
めえ、と、柔らかな声だった。メイは反射的に振り返った。木陰から、白い羊が一匹、二匹と現れる。丸く、柔らかそうで、蒼い花の光を受けた毛は雪のように白かった。黒い森の中にいるには不自然なほど無害に見える。つぶらな目でメイを見て、小さく首を傾げる。メイは少しだけほっとしかけた。けれど、姫の顔が強張っていることに気づき、その安堵はすぐに消えた。
「逃げて」
姫が囁いた。
「え?」
「今すぐ」
羊たちの後ろから、黒い影が現れた。黒いローブ。白い仮面。長い袖。森の中に立つその姿は、ローズにも、闇で追ってきた仮面たちにも似ていた。けれど、どちらとも違う。ローズの黒には薔薇の香りと痛みがあった。闇の仮面たちには秩序の冷たさがあった。今現れたものには、眠りの底に沈む湿った重さがある。白い仮面の表面には何の装飾もない。目の穴は黒く、口は描かれていない。だが、その顔のない仮面が、はっきりとメイを見た。
「どうやってこの世界へ入った」
声は低く、乾いていた。男の声のようにも、古い戸棚がきしむ音のようにも聞こえた。メイは足がすくみ、答えられなかった。
「おまえは、この夜の外から来たものだ。姫の夢に紛れ込んだ異物だ」
「異物……」
メイは自分の胸を押さえた。名前を思い出したばかりの自分に、異物という言葉は深く刺さった。ここは自分の夢ではない。自分は呼ばれたかもしれない。けれど、それを証明するものはない。もしかしたら、本当に迷い込んだだけなのかもしれない。ここにいてはいけないものなのかもしれない。
姫が水面を歩き、黒いローブの前へ出ようとした。
「やめなさい、ナイト・メア。その子に手を出さないで」
ナイト・メア。メイはその名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。悪夢。ローズが語った夜。泣けない悲しみ。名前をなくした自分。そのすべてが、あの仮面の周りに集まっているようだった。
「姫」
ナイト・メアは、姫の方を向いた。声だけは恭しかった。だが、その恭しさは、相手を尊重するものではない。壊れ物をガラスケースに閉じ込めるような、冷たい丁寧さだった。
「あなたは、お優しすぎる。この者はあなたを悲しませる」
「わたくしが、そう言いましたか」
「あなたの涙が言っています」
「わたくしの涙を、あなたが決めないで」
姫の声が強くなった。湖面が揺れる。メイは驚いて彼女を見た。さっきまで去れと言っていた姫が、今は自分を庇っている。なぜなのか分からない。分からないことばかりだった。けれど、姫が本当に自分を嫌っているわけではないことだけは、分かった。
ナイト・メアは、姫の言葉を聞かなかった。聞いたうえで、選ばなかった。
「姫を目覚めへ近づける者は、この世界に必要ない」
その言葉と同時に、ナイト・メアの袖口から白い手が伸びた。最初は人間の手に見えた。細く、長く、白い手。だが、伸びる。水面を越え、岸辺を越え、夜そのものを引き裂くように、メイへ向かって伸びる。メイの恐怖がその手を大きくしているのか、手そのものが現実の尺度を無視しているのか分からなかった。指は枝のように長く、爪は月光を受けて透明に光っている。メイは後ずさった。足元の草が滑る。手の中の蒼い花が揺れる。逃げなきゃ。そう思うのに、身体がうまく動かない。
「走って!」
姫が叫んだ。
メイはようやく足を動かした。だが、一歩目で濡れた草に足を取られ、岸辺に倒れ込んだ。蒼い花が手から離れ、湖畔の土に落ちる。花はまだ光っていた。その光が、白い手の影に飲み込まれそうになる。
ナイト・メアの手が迫る。
そのとき、銃声が湖を裂いた。
乾いた破裂音。月光が一瞬だけ赤く跳ねた。ナイト・メアの白い手に、薔薇のような傷が咲く。白い皮膚が裂け、そこから血ではなく黒い霧が噴き出した。メイは耳を押さえ、目を見開いた。姫も驚いたように森の方を見る。白い羊たちが同時に首を向けた。
「こっちへ走って!」
森の影から、赤いものが飛び出してきた。少女だった。メイと同じくらい、あるいは少し年上に見える。赤頭巾を被り、赤い服を着ている。片目は黒い眼帯で覆われ、残った片目にはむき出しの怒りが燃えていた。小柄な身体に不釣り合いな大きさの銃を両手で構えている。銃身には、ほんの一瞬、紅い薔薇の刻印が浮かんだように見えた。
「聞こえないの!? 走れって言ってんの!」
メイは反射的に立ち上がった。足がもつれる。心臓が痛い。けれど、赤頭巾の少女の声には、従わなければ死ぬと思わせる強さがあった。メイは落とした花を拾おうとした。少女が怒鳴る。
「花なんか拾ってる場合じゃない!」
「でも……!」
「死にたいの!?」
メイは花に手を伸ばしたまま固まった。蒼い花は足元で光っている。さっきまで自分を少しだけ落ち着かせてくれた花。置いていきたくない。けれど、ナイト・メアの白い手がまた伸びてくる。メイは花を諦め、森へ向かって走った。
ナイト・メアは静かに命じた。
「殺せ」
白い羊が鳴いた。
めえ、と、柔らかく。
次の瞬間、羊の背中が裂けた。
メイは振り返ってしまった。白い毛皮が内側から破れ、そこから黒いものが溢れ出す。骨が鳴る。羊の丸い身体が裏返るように歪み、白い皮をまとったまま、中から黒い狼が這い出してくる。目は赤い。口は耳まで裂け、白い羊の皮が肩や背に引っかかったまま垂れている。可愛らしい毛皮の下に、最初からこれがいたのだ。黒狼は低く唸り、地面を蹴った。速い。メイは悲鳴を上げる余裕もなく走った。
「右!」
赤頭巾の少女が叫んだ。メイは反射的に右へ飛ぶ。直後、黒狼の爪がさっきまでメイのいた場所を抉った。土が跳ね、蒼い花が散る。少女が銃を撃つ。一発目は外れた。銃弾は黒狼の耳をかすめ、背後の木に当たり、木肌に赤い薔薇のような焦げ跡を残した。
「くそっ」
少女は舌打ちし、すぐに二発目を撃った。今度は命中した。黒狼の肩に弾丸が食い込み、黒い身体が大きく跳ねる。傷口から黒い霧と赤い火花が散り、狼は地面を転がった。だが、もう一匹がメイへ回り込んでいた。白い皮を引きずり、赤い目でメイの喉を狙って跳ぶ。
メイは動けなかった。
自分へ向かってくる口の中が見えた。牙。舌。黒い唾液。羊の皮の内側に残った白い毛。死ぬ、と思った。死ぬという言葉を、自分が知っていることに驚いた。自分の記憶はないのに、死だけは分かる。戻らないもの。呼んでも返事をしないもの。朝が来ても起きないもの。
銃声。
黒狼の身体が空中で弾けるように歪んだ。弾丸は胸を貫いていた。だが、勢いは止まらなかった。黒狼はそのままメイにぶつかり、彼を地面へ押し倒した。重い。熱い。メイは背中を打ち、息が詰まった。黒狼の身体が上に乗っている。毛ではない。影の塊のような身体なのに、重さがある。傷口から流れたものが、メイの服に染み込む。血なのか、霧なのか分からない。ぬるく、湿っていて、生き物の内側に触れてしまったような感触があった。
「あ……ああ……」
メイは震えた。黒狼はもう動いていない。赤い目の光も消えている。自分を殺そうとした獣だ。怖かった。死にたくなかった。なのに、動かない身体が自分の上に乗っていると、別の恐怖がこみ上げてきた。倒した、という感覚ではない。死んだものが近くにある。死が自分の服に染みている。手を見ると、黒く赤い液がついていた。メイは息を吸おうとして失敗した。
「ちょっと、ぼうっとしないで!」
赤頭巾の少女が駆け寄り、黒狼の死体を蹴り退けた。小柄な身体なのに、動きは荒く、慣れている。狼の身体は土の上を転がり、白い羊の皮がぬめるように剥がれた。少女は銃口を森の奥へ向けたまま、メイを睨む。
「死にたくないなら立って。あいつ、まだ見てる」
メイは立とうとした。だが、膝に力が入らない。手についた血のようなものが目に入り、また震えが強くなった。少女は苛立ったように舌打ちしたが、メイの顔を見て一瞬だけ表情を変えた。怒りが消えたわけではない。ただ、そこに困惑が混ざった。メイが泣きそうになっていることに気づいたのだ。
「……何。まさか、マガミが死んだのが怖いの」
「だって」
「だって、じゃない。あいつはあんたを食い殺そうとしたの」
「分かってる。でも……重かった」
「は?」
「死んだら、重いんだ」
少女は言葉を失った。湖の方から、ナイト・メアの気配がまだこちらを見ている。姫は水面の上で動かない。黒いドレスが月光の中で揺れている。メイには、彼女が何か言おうとして、言えずにいるように見えた。ナイト・メアは追ってこなかった。白い手の傷から黒い霧を漂わせたまま、ただメイと少女を見ている。その仮面の奥に表情はない。だが、次はない、という冷たい宣告だけが伝わってきた。
「撤退する」
少女は短く言い、メイの腕を掴んだ。
「え、でも、あの人が」
「あの人じゃない。あれは魔女」
「魔女?」
「いいから来て!」
少女は強引にメイを引っ張った。メイは足をもつれさせながら森へ入った。背後で湖の水音が遠ざかる。ぽん、ぽん、と踊りの音がもう一度だけ聞こえた。メイは振り返りたかった。姫がこちらを見ている気がした。行かないで、と言っているのか。行きなさい、と言っているのか。分からない。分からないまま、赤頭巾の少女に引きずられるように、蒼い花の森へ戻った。
しばらく走ったあと、少女は倒れた木の陰でようやく足を止めた。メイはその場に座り込んだ。肺が痛い。喉が焼ける。手はまだ震えている。黒狼の液体が服に染み、冷えていく。少女は周囲を確認し、銃を下ろした。片目の眼帯の下から汗が一筋流れている。彼女も怖かったのかもしれない。けれど、その怖さを怒りで固めているのだと、メイは何となく感じた。
「最悪」
少女は吐き捨てた。
「ほんっと最悪。あと少しだったのに。あんたが湖に出てくるから、全部台無し」
「ご、ごめん」
メイは反射的に謝った。少女は眉を吊り上げる。
「謝れば済むと思ってる?」
「思ってないけど……でも、助けてくれたから。ありがとう」
少女は今度こそ露骨に変な顔をした。
「は?」
「ありがとう。助けてくれて」
「……あんた、頭ぶつけた?」
「ぶつけたかも。さっき狼に倒されたし」
「そういう意味じゃない」
少女は苛立ったように銃を肩に担ぎ、メイから少し距離を取って座った。赤い頭巾の端が破れている。服もところどころ泥と葉で汚れていた。片目を覆う眼帯は古く、布の端が少しほつれている。それでも彼女は、その傷や汚れを隠そうとしなかった。むしろ、それらを鎧のようにまとっている。
「僕は、メイ」
メイは少し迷ってから名乗った。こういうときは名乗るものだと思った。思ったというより、誰かがそうしていた気がした。初めて会った相手には、名前を言う。名前を言えば、相手も少しだけ近くなる。
少女は黙っていた。
「えっと、君は?」
「……ベレッタ」
短い返事だった。
「ベレッタ」
「呼び捨てでいいって言ってない」
「ご、ごめん。ベレッタさん?」
「気持ち悪い。ベレッタでいい」
メイは困った。「どっち?」
「いちいちうるさいな」
ベレッタはそっぽを向いた。けれど、さっきまでの鋭さは少しだけ薄れていた。メイはその変化にほっとし、同時にまた手の汚れが気になった。近くの草で拭こうとすると、黒く赤い液が広がるばかりで落ちない。メイは顔をしかめた。
「何してんの」
「落ちない」
「マガミの血はすぐには落ちない。諦めな」
「血なの?」
「たぶん」
「たぶんって」
「この世界に普通の血なんてない。マガミは羊の皮を被った黒狼。ナイト・メアの使い魔。あいつらが流すものは、血みたいだけど、たぶん違う。夜の汚れみたいなもの」
ベレッタの説明は乱暴だったが、メイには妙に納得できた。黒狼の身体から流れたものは、生き物の血であると同時に、夜そのものが溶けたようにも見えた。
「ナイト・メアって、さっきの白い仮面の人?」
「人じゃない」
「じゃあ、何?」
「悪夢」
ベレッタはきっぱり言った。月光を受けた片目が、暗く光る。
「この世界を夜のままにしてる番人。姫の犬。いや、羊飼いか。とにかく、あいつがいる限り朝は来ない」
「姫って、湖にいた人?」
「そう。あんたがぼーっと見惚れてた魔女」
「魔女じゃないと思う」
メイが言うと、ベレッタはすぐに睨んだ。
「あんた、何も知らないくせに」
「うん。知らない。でも、あの人は僕に逃げろって言った。ナイト・メアを止めようとしてくれた。だから、悪い人じゃないと思う」
「悪い人じゃないなら、いい人なの?」
「それは……分からないけど」
「分からないなら黙ってなよ」
ベレッタの声は尖っていた。けれど、その尖りはメイを傷つけるためというより、自分の中に近づかれないための棘に見えた。彼女は姫を憎んでいる。そう言いたがっている。だが、湖で姫がメイを庇ったとき、ベレッタは何も言わなかった。銃を向けもしなかった。もし本当に殺したいだけなら、あの瞬間に撃てたはずだ。
「ベレッタは、姫を倒したいの?」
「倒すんじゃない。殺すの」
メイは息を呑んだ。言葉の重さが、黒狼の死体の重さと重なった。殺す。言うのは簡単でも、さっきの死体は重かった。温かかった。手に残った。メイは自分の掌を見た。
「殺したら、朝が来るの?」
「来る」
「どうして分かるの」
「この世界が夜なのは、あいつが夜を望んでるから。湖で踊って、塔に閉じこもって、ナイト・メアに守らせて、ずっと満月のまま。だから、あいつとナイト・メアを消せば夜は終わる」
ベレッタの言葉には、何度も自分に言い聞かせてきた人の硬さがあった。真実だから言っているのではなく、信じないと自分が立っていられないから言っている。メイはそれを感じたが、うまく言葉にできなかった。
「でも、さっきは撃たなかった」
言った瞬間、ベレッタの片目が鋭くなった。
「何」
「湖にいたとき。姫が近くにいた。ベレッタは銃を持ってた。でも、撃たなかった」
「邪魔が入ったから」
「僕?」
「そう。あんた」
「僕が来る前から、撃ってなかった」
ベレッタは立ち上がりかけた。怒ると思った。殴られるかもしれない、とメイは身を縮めた。けれど、ベレッタは拳を握ったまま動かなかった。怒りが顔に出ている。けれど、その奥に痛みもある。メイはしまったと思った。初めて会った相手に、踏み込んでいいことではなかったのかもしれない。
「ごめん」
「また謝る」
「だって、怒らせたから」
「謝れば許されると思ってる?」
「それ、さっきも言った」
「うるさい」
ベレッタは再び座った。今度はメイに背を向けるように。赤い頭巾の後ろ姿は、思ったより小さかった。湖で銃を撃ったときは強く見えた。黒狼を倒したときは、怖いものなんてないように見えた。けれど、こうして背中を見ると、彼女もこの夜の中で一人なのだと分かる。怒っていなければ、立っていられないだけなのかもしれない。
しばらく、二人は黙っていた。遠くで湖が鳴っている。姫の踊りはもう見えない。けれど、水音だけが森を通って届く。ぽん、ぽん、と。ベレッタはその音を嫌うように肩を固くした。メイはそれに気づいたが、何も言わなかった。
「で」
ベレッタが先に口を開いた。
「あんた、何者」
「メイ」
「名前じゃなくて」
「それしか分からない」
「はあ?」
ベレッタが振り返った。
「ふざけてんの?」
「ふざけてないよ。ほんとに、それしか思い出せないんだ。気づいたら暗いところで追われてて、割れたところから落ちて、この森で目が覚めて、ローズに会って」
「ローズ?」
「ファントム・ローズ」
ベレッタの顔が、姫のときとは別の意味で険しくなった。
「あいつに会ったの」
「うん」
「何を言われた」
「ここは僕の夢じゃないって。誰かの個人世界で、強い悲しみと拒絶が作った閉じた夜だって。それから、僕は呼ばれたのかもしれないって」
「……余計なことばっか言う」
ベレッタは吐き捨てたが、その声には怒りだけでなく動揺があった。
「ローズを知ってるの?」
「知らない」
「でも、今、知ってるみたいな顔した」
「気のせい」
「嘘だ」
メイは思わず言った。ベレッタが片目で睨む。
「あんた、命の恩人に向かって嘘つき呼ばわり?」
「ご、ごめん。でも、嘘だと思ったから」
「ほんっと変なやつ」
ベレッタは呆れたように言った。さっきより少しだけ、本当に少しだけ、声が柔らかかった。
「メイって名前も変」
「え」
「女の子みたい」
メイはむっとした。自分の名前を取り戻したばかりだった。大切なもののように胸に置いた名前を、いきなりからかわれるのは嫌だった。
「明るいって書いて、メイなんだ」
「だから?」
「だから、変じゃない」
「黒い夜で明るいって、変じゃん」
「僕がつけたんじゃないし」
「誰がつけたの」
「……分からない」
言ってから、メイはしゅんとした。ベレッタもそれ以上は茶化さなかった。代わりに、少し気まずそうに鼻を鳴らした。
「まあ、いいんじゃない。名前があるだけ」
「ベレッタも変わってる」
「は?」
「だって、それ名前? 銃の名前みたい」
言った瞬間、ベレッタは銃口をメイの方へ向けた。メイは両手を上げた。
「ごめんなさい」
「次言ったら撃つ」
「でも、やっぱり銃の名前なんだ」
「撃つよ」
「言わない」
ベレッタは銃を下ろした。けれど、完全に怒っているわけではなさそうだった。むしろ、ほんの少しだけ、口元が緩んでいる。メイはそれを見て、胸が少し軽くなった。怖い場所にいる。何も分からない。さっき死にかけた。手はまだ汚れている。それでも、こうして誰かと言い合えるだけで、自分が少しだけここに存在している気がした。
やがてベレッタは立ち上がった。
「行く」
「どこへ?」
「決まってるでしょ。湖の向こう」
「湖の向こう?」
ベレッタは森の隙間から見える湖を顎で示した。メイも立ち上がり、木々の間から湖を覗いた。白い霧が湖面に漂い始めている。さっきは気づかなかったが、その霧の奥に巨大な影があった。塔だ。湖の中央、あるいは向こう岸に、細く高い塔が立っている。月光を浴びた白い塔。けれど、窓は黒く、上へ行くほど霧に沈んで輪郭が曖昧になっている。塔の先端は月に刺さっているようにも見えた。
「あそこに姫がいる」
ベレッタの声は低かった。
「湖の上で踊るのは、満月の夜だけ。普段はあの塔に閉じこもってる。ナイト・メアも、マガミも、あの塔を守ってる」
「どうやって行くの?」
「それを考える」
「船とか橋は?」
「ない」
「泳ぐのは?」
「沈む。湖はただの水じゃない。見たくないものを沈める場所だから」
メイは湖を見た。黒い水面。大きすぎる月。そこに沈んでいる、もう一つの月。見たくないものを沈める場所。そう聞いた瞬間、湖の底に何かが眠っている気がした。白いもの。丸いもの。繭のようなもの。けれど、その映像はすぐに消えた。
「ベレッタは、何度も行こうとしたの?」
「何度も失敗した」
「怖くないの?」
「怖いわけないでしょ」
即答だった。即答すぎて、嘘に聞こえた。メイはそれを指摘しなかった。さっき嘘だと言って怒らせたばかりだからだ。
ベレッタは銃を握り直した。赤い頭巾が夜風に揺れる。彼女の片目は塔を睨んでいた。怒りの目だった。けれど、メイにはその奥に別のものも見えた。置いていかれた子どもの目。閉ざされた扉の前で、何度も叩いて、何度も開けてもらえなかった目。
「あんたは来なくていい」
ベレッタは言った。
「足手まといだし。マガミ見ただけで震えるし。ナイト・メアに狙われてるし。ここでじっとしてれば、そのうちローズが拾いに来るんじゃない」
「置いていくの?」
「そう」
ベレッタは歩き出した。メイは慌てて追いかけた。
「待って」
「来るなって言った」
「でも、助けてくれたのに、置いていかないで」
ベレッタは足を止め、振り返った。片目が呆れと苛立ちで細くなる。
「助けたら、一生面倒見なきゃいけないの?」
「一生じゃなくていい。少しでいい」
「少しってどれくらい」
「僕が、この世界のことをもう少し分かるまで」
「一生じゃん」
「ひどい」
「事実」
メイはむっとしたが、言い返せなかった。確かに、自分は何も分かっていない。湖の姫も、ナイト・メアも、マガミも、ベレッタも、ローズも、この世界の夜も。そして何より、自分自身のことも。
「僕、姫に会わなきゃいけない気がするんだ」
メイは小さく言った。
ベレッタの表情が変わった。
「なんで」
「分からない。でも、あの人を見たら、胸が痛くなった。僕の名前を聞いたとき、あの人も痛そうだった。だから、たぶん……関係あるんだと思う」
「関係があったら何? あんたもあいつに閉じ込められたいの?」
「違うよ」
「じゃあ何」
「分からない。でも、会わないと分からない」
ベレッタはしばらくメイを睨んでいた。メイは逃げずに見返した。怖かった。ベレッタの片目は強い。怒っている人の目は、白い仮面より怖いことがある。けれど、逃げたくなかった。ここで逃げたら、また自分の名前が薄くなる気がした。
「……勝手にすれば」
ベレッタは背を向けた。
「ついてきて死んでも知らない」
「うん」
「マガミが出ても泣かない」
「それは約束できない」
「情けな」
「怖いものは怖いよ」
「言い切るな」
ベレッタは呆れたように言った。けれど、今度はメイが隣を歩いても追い払わなかった。二人は蒼い花の森を、湖に沿って進み始めた。遠く、霧の奥に白い塔が立っている。空の月と湖の月が、その塔を挟むように照らしていた。塔は近いようで遠い。歩いても歩いても、霧の奥で同じ距離を保っているように見える。
メイは一度だけ振り返った。湖の上に、もう姫の姿はない。ただ、水面に黒い花のような波紋が残っていた。あの人は自分を拒んだ。けれど、守ろうともした。朝を恐れていた。自分の名前を聞いて、痛そうな顔をした。すべてが分からないまま、胸の奥の鈴だけが、まだ小さく鳴っている。
ベレッタが前を向いたまま言った。
「あそこに姫がいる。アタシは、あの塔へ行く」
「うん」
「勘違いしないで。あんたのためじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「まだ、分からないことが多いから」
ベレッタは小さく息を吐いた。怒っているようで、少し笑ったようにも聞こえた。
「変なやつ」
メイはそれに何も返さなかった。変でもいいと思った。少なくとも、名前のないまま震えていたときよりは、ずっといい。
蒼い花の光が、二人の足元を照らしていた。月光世界の夜は、まだ終わらない。湖は静かに月を抱き、霧の奥の塔は、眠り続ける誰かの心臓のように、白く冷たく立っていた。




