第一章 蒼い花の森
これは夢だ、と少年は思おうとした。思おうとして、すぐに失敗した。夢なら、もっと形が曖昧なはずだった。夢なら、足の裏に触れる湿った土の冷たさも、掌に残る小さな切り傷の疼きも、喉の奥に張りついた恐怖の味も、こんなにはっきりしていないはずだった。けれど目の前に広がっている森は、現実と呼ぶにはあまりに美しかった。夜である。空は深い藍色で、黒い木々が幾重にも重なっている。枝は細く、折れた指のように月へ伸びていた。その下に、蒼白い花が咲いている。小さなランプのような花だった。一輪一輪が淡く光り、森の底を星空の裏側のように照らしている。風は青い匂いがした。草の匂いでも、花の匂いでもなく、雨上がりの夜にだけある冷たい匂い。遠くから水音が聞こえる。川なのか、湖なのか、誰かが水面を指で叩いているのか、少年には分からない。音は遠いのに、心臓のすぐ近くで鳴っているようだった。
少年は膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。今、立ち上がれば、また何かに追われるのではないかと思った。闇の向こうから白い仮面が現れ、自分を見つけるのではないかと思った。あの仮面たちは人間ではなかった。けれど、怪物と呼ぶには静かすぎた。獲物を追う獣の熱も、殺意も、憎しみもなかった。ただ、そこにあってはならないものを見つけ、片づけようとしているだけの、冷たい秩序のような気配があった。少年は自分の腕を抱いた。服の袖は白っぽい。知らない服だった。襟元には月明かりを受ける薄い布がついていて、膝までの短い上着の裾に土がついている。自分の服ではない。そう思ってから、では自分の服とは何だったのかと考え、何も思い出せないことに気づいた。
家。学校。家族。昨日。明日。朝ごはん。誰かの声。自分の机。靴の置き場所。好きな食べ物。嫌いなもの。何ひとつ、形にならなかった。記憶の棚が空なのではない。棚そのものが最初からない。手を伸ばしても、空気しか掴めない。ただ、胸の奥に、呼ばれていた感覚だけが残っていた。誰かが自分を呼ぶ。優しく、何度も。ときには少し怒って、ときには泣きそうな声で。呼ばれるたびに、自分はその人の方へ行った。膝に乗ったのか、隣に座ったのか、手を握ったのか、それさえ曖昧だ。けれど、呼ばれることだけは嬉しかった。名前を呼ばれると、自分がここにいていいのだと分かった。その名前が、思い出せない。
少年は怖くなって、勢いよく立ち上がった。足元の蒼い花が揺れた。小さな光が一斉に震え、森の奥へ波紋のように広がっていく。少年はびくりと肩を跳ねさせた。「ご、ごめん」誰に謝ったのか分からなかった。花は怒らなかった。ただ、光を揺らしながら、また静かになった。少年はしゃがみこみ、一輪に手を伸ばした。花びらは薄く、硝子のように冷たそうに見えたが、触れると柔らかかった。恐る恐る摘む。茎は簡単に折れた。けれど、光は消えない。手の中の花は、まるで小さな月を包んでいるように淡く光り続けている。その光を見ていると、少しだけ息が楽になった。
「……君は、怖くないんだね」
花に話しかけた自分に気づき、少年は恥ずかしくなった。けれど、他に話せる相手はいない。さっきまでの闇よりは、この花の方がずっとましだった。花は返事をしない。ただ、掌の上で静かに光る。その光の色を見ていると、どこかで同じ色を見たような気がした。夜の窓辺。白い布。誰かの手。小さな鈴。そこまで浮かんで、記憶は水に落ちた絵の具のように滲んで消えた。少年は眉を寄せた。思い出そうとすると、胸の奥が痛い。痛いのに、何か大事なものがそこにある気がする。
遠くで、また水音が鳴った。ぽん、ぽん、と規則正しく。誰かが踊っているような音だった。少年は花を握りしめたまま、森の奥を見た。蒼い花は道のように続いている。ここに座っていても、何も分からない。けれど歩けば、また怖いものに会うかもしれない。仮面の群れ。闇の壁。あの少女の声。そっちじゃない、と叫んでいた声。彼女は誰だったのだろう。助けようとしてくれたのか。それとも、別の何かに追い立てようとしていたのか。少年には判断できない。判断できるほど、自分の中に材料がなかった。
枝が鳴った。
少年は息を止めた。花を胸に抱え、木の影へ後ずさる。枝の上に鳥はいない。風もない。なのに、森のどこかで何かが動いた気配がした。白い仮面かもしれない。長い指かもしれない。自分を数える声かもしれない。逃げようとして、どちらへ走ればいいのか分からず、ただ立ち尽くした。足が震える。声が出ない。胸の奥で、自分の名前のない場所が冷えていく。
そのとき、薔薇の香りがした。
少年は最初、それが薔薇だとは分からなかった。けれど、その匂いはこの森にないものだった。蒼い花の冷たい匂いでも、湿った土の匂いでも、夜の水の匂いでもない。甘く、深く、どこか血に似た赤さを含んだ香り。少年は辺りを見回した。薔薇など、どこにも咲いていない。花はすべて蒼白く、森は黒く、月は銀色だ。なのに、紅い花びらが一枚、空から落ちてきた。花びらは少年の前でゆっくり回り、蒼い花の上に触れる寸前で止まった。水面に浮かぶように、空中に漂っている。続いて二枚、三枚。紅い花びらが夜の中に増え、蒼い光の森にひとすじだけ赤い道を作った。
花びらの向こうに、黒い影が立っていた。
少年は悲鳴を飲み込んだ。白い仮面。顔を覆う、感情のない白。闇で見た仮面たちと同じだと思った。身体が勝手に後ずさる。踵が根に引っかかり、尻もちをついた。手の中の蒼い花が揺れる。影は一歩も近づかなかった。黒いインバネスの裾が、風もないのに静かに揺れている。長い黒髪。白い仮面。襟元に、ほとんど見えないほど小さな薔薇の意匠。そこに立っているだけで、周囲の夜が少し濃くなったように感じられた。けれど、不思議なことに、闇の仮面たちのような冷たい秩序はない。怖い。怖いのに、同じではない。
「怖がることはない」
声は静かだった。男の声にも、女の声にも聞こえた。大人のようで、少女のようでもある。冷たくはない。だが、甘やかしもしない声だった。
「私は、君を追っていた者たちとは違う」
少年はすぐには答えられなかった。喉が張りつき、息が浅くなる。目の前の仮面を信じていい理由など一つもない。けれど、逃げられる気もしなかった。だから、震える声で尋ねるしかなかった。
「……誰、なの」
黒衣の者は、紅い花びらの中でわずかに首を傾けた。仮面の奥の目は見えない。だが、見られている感覚はあった。数えられているのではない。測られているのでもない。名前のない自分の輪郭を、崩れないようにそっとなぞられているような、不思議な感覚だった。
「ファントム・ローズ」
その名が森の中に落ちると、蒼い花々がほんの少し光を強めた。
「夢幻に囚われた者を、あるべき場所へ戻す者だ」
「ファントム……ローズ」
少年はその名を繰り返した。言葉にした途端、薔薇の香りが強くなる。名前とは不思議だ、と少年は思った。知らないものでも、名を呼ぶと少しだけ近くなる。けれど同時に、怖さも増す。名前を知るということは、もう知らないふりができないということだから。
「君は?」
「え」
「君の名前だ」
少年は口を開いた。何かを言おうとした。けれど言葉は出なかった。名前。名前がない。ないはずがない。誰かに呼ばれていた感覚はある。自分を指す音は、どこかに確かにあった。なのに、指先からこぼれる水のように掴めない。少年は唇を噛んだ。悔しいのか、怖いのか分からない。ただ、自分の名前を答えられないことが、裸で夜の森に立たされるより心細かった。
「分からない……」
「本当に?」
ローズの声は責めていなかった。けれど、その問いは優しくもなかった。誤魔化しを許さない声だった。
「分からないよ。何も。僕、どこから来たのかも、どうして追われてたのかも、自分のことも、何も分からない。さっきまで暗いところにいて、白い仮面の人たちがいて、誰かが叫んで、それで……ここに落ちてきて」
「落ちてきた」
「うん。たぶん」
「なら、君はこの世界の中で生まれたものではない」
少年は顔を上げた。「どういうこと?」
ローズはすぐに答えなかった。紅い花びらの一枚が、少年の足元へ落ちる。蒼い花の光と触れ合った瞬間、その赤は黒い水に沈むように暗くなり、また元の紅へ戻った。ローズは森の奥を見た。水音がする方向だった。
「ここは、君の夢ではない」
少年は眉をひそめた。さっき自分でも思ったことだった。けれど他人に言われると、急に不安が形を持った。
「夢じゃ、ないの?」
「夢の形をしている。けれど、ただの夢ではない。現実と夢幻の境に沈んだ、誰かの個人世界だ」
「個人、世界……?」
「人はそれぞれ、自分の記憶と感情と認識で世界を持っている。普通は、それらが他者の世界とゆるやかにつながって、現実という大きな織物に見える。だが、ときに一人の世界だけが深く沈み、外側との接続を閉じることがある」
少年は言葉を理解しようとした。けれど、半分も分からない。世界は一つではないのか。自分が見ているこの森は、誰かのものなのか。誰かの心の中なのか。では自分は、他人の心の中に勝手に入ったのか。
「ここは、誰かの中なの?」
「そう言ってもいい。だが、心の中、というほど軽くはない。ここで傷つけば痛む。ここで失えば、戻らないものもある。夢だからといって、目覚めればすべて終わるわけではない」
「でも、夢なら……」
少年は必死に言った。夢なら、と思いたかった。夢なら、怖いものも、知らない身体も、名前のない自分も、目が覚めれば消える。元の場所へ戻れる。元の場所がどこか分からなくても、きっと戻れる。そう信じたかった。
「夢なら、目を覚ませば終わるんじゃないの?」
ローズは静かに否定した。
「これは君の夢ではない。君が目覚めても、この世界の主は目覚めない」
その言葉は、夜の森より冷たかった。少年は胸を押さえた。世界の主。誰かがこの夜を見ている。誰かがこの森を作り、この月を浮かべ、この蒼い花を咲かせている。その誰かが目覚めない限り、この世界は終わらない。では、なぜ自分はここにいるのか。
「僕は……迷い込んだの?」
「そうかもしれない」
「違うかもしれないの?」
「呼ばれたのかもしれない」
少年は息を止めた。呼ばれた。その言葉が、胸の奥にある小さな鈴に触れた。誰かが呼んでいる。優しい声で。泣きそうな声で。自分を必要とする声で。けれど、顔は思い出せない。名前も思い出せない。なぜか、思い出そうとするとひどく悲しくなる。
「誰が、僕を」
「それは、君が見つけた方がいい」
「どうして教えてくれないの?」
少年の声には、少しだけ怒りが混ざった。自分でも驚いた。怖くて、分からなくて、誰かに答えを差し出してほしいのに、ローズはすべてを知っていそうな顔で何も渡してくれない。仮面の下の表情は見えない。それが余計に腹立たしかった。
「君は知ってるんでしょ。ここが誰の世界なのか。僕がどうしてここにいるのか。あの仮面の人たちが何なのか。だったら、教えてよ」
「教えれば、君はその答えを自分のものにできるのかい」
少年は言葉につまった。
「真実は、聞いただけでは君を支えない。むしろ、受け止める準備のない真実は、君の輪郭を壊す」
「輪郭……?」
「自分が自分であるための形だ。今の君は、それがひどく薄い。名前も、記憶も、帰る場所も曖昧なまま、他人の夜に立っている」
ローズは少しだけ近づいた。少年は反射的に身を固くしたが、逃げなかった。逃げても無駄だと思ったからではない。ローズの声の奥に、わずかな痛みを聞いたからだった。
「私は君を壊したくない。だが、守るために何も知らせず閉じ込めるつもりもない」
「じゃあ、どうすればいいの」
「歩くんだ」
ローズは森の奥を示した。蒼い花の道の先、水音のする方。月が枝の間から覗いている。見下ろすような月。冷たく笑うような月。少年はその月を見て、ぞくりとした。どこかで見たことがある気がする。窓の向こう。夜の部屋。誰かの膝。閉じた瞼。けれど、やはり分からない。
「この世界には、君の大切なひとの欠片が沈んでいる」
「大切な、ひと」
「君が思い出せない相手。君を呼んだかもしれない相手。あるいは、君が呼ばなければ戻れない相手」
「僕が?」
少年は自分の細い手を見た。知らない手。頼りない指。震えている。こんな手で、誰かを戻せるとは思えなかった。自分のことさえ分からないのに。
「無理だよ。僕、怖いし、弱いし、何にも分からない。さっきだって逃げるだけで、誰かに助けてもらって、それに……」
言いかけて、少年は闇で聞いた少女の声を思い出した。そっちじゃない、と叫んでいた。あの声は怒っていた。けれど、必死だった。自分を助けようとしていたのだろうか。だとしたら、自分はその声を置いて逃げたことになる。少年は唇を噛んだ。
「それに?」
「……分からない。誰かを置いてきたのかもしれない」
「なら、なおさら歩くしかない」
ローズの言葉は、容赦がなかった。けれど、冷酷ではなかった。逃げてもここから出られないと言われているのではない。逃げたくなる自分ごと、前へ行けと言われている気がした。
少年は手の中の花を見た。蒼白い光は、まだ消えていない。その光に照らされた自分の指が、ほんの少しだけ落ち着いて見えた。名前。呼ばれていた音。誰かの声。少年は胸に手を当てた。そこに何かがある。小さな、温かいもの。記憶ではない。記憶になる前の感覚。呼ばれたときの嬉しさ。そばにいるときの安心。夜の窓辺の匂い。髪に触れる指。違う。髪ではない。では何に触れていたのか。思い出そうとした瞬間、胸の奥で鈴が鳴った気がした。
「……メ」
唇から、音がこぼれた。
ローズが動きを止めた。
「メ……イ」
少年はその音をもう一度口にした。たった二音。けれど、その二音は空っぽだった胸の中に、ゆっくり場所を作っていった。名前だ。自分の名前。そう感じた瞬間、蒼い花の光がふわりと強くなる。森全体が、名前を聞き取ったように静かに揺れた。
「メイ……僕、メイだ」
まだ確信は頼りなかった。けれど、その名だけは違わない気がした。誰かが何度も呼んでくれた。メイ、と。少し伸ばすように。笑いながら。泣きそうになりながら。眠る前に。朝が来たときに。帰ってきたときに。怒ったふりをしながら。大切なものを隠すように。
「明るいって書いて、メイ」
その言葉は、自分の口から出たのに、自分のものではないように聞こえた。誰かが昔、そう言ったのだ。黒い夜に向かって。小さな何かを抱きしめながら。夜でも明るいから、と。
ローズは沈黙した。ほんの短い沈黙だった。だが、メイにはその沈黙が深く感じられた。仮面の奥で、ローズが何かに気づいた。そう分かった。けれど、ローズはそれを言わない。
「知ってるの?」
「名前は、君が思い出した」
「そうじゃなくて。僕が何なのか、知ってるんじゃないの?」
ローズは答えなかった。メイは不安になった。名前を思い出したはずなのに、不安は消えない。むしろ、自分の名が分かったことで、その名前の周りに広がる暗闇の深さが見えてしまった気がする。
「いつも、誰かがそう呼んでくれた。優しい声で。でも、誰だったか思い出せないんだ。顔も、名前も、何も。思い出そうとすると、胸が痛くなる」
「それでも、思い出したいかい」
メイはすぐには頷けなかった。思い出したい。そう言いたかった。けれど、胸の痛みは嘘ではない。思い出した瞬間、今の自分が壊れてしまうのではないかという恐怖があった。名前を取り戻したばかりの自分は、まだ薄い氷の上に立っている。その下にある水がどれほど冷たいのか、分からない。
「分からない」
メイは正直に言った。
「でも、思い出さないままなのも、怖い」
「それでいい」
「いいの?」
「怖くない者が真実に近づくのは、危うい。怖いと思えるなら、君はまだ、自分を手放していない」
ローズの声は静かだった。メイにはその意味が全部は分からなかった。けれど、少なくとも、怖がる自分を責められているのではないことだけは分かった。
森の奥で、水音がまた鳴った。今度は少しはっきり聞こえた。ぽん、ぽん、と水面を踏む音。足音ではない。水の上で誰かが踊っているような音だった。メイは顔を向けた。蒼い花の道は、その音の方へ続いている。月の光が枝の間から落ち、花々の上に銀色の線を引いている。
「この先に、誰かいるの?」
「いる」
「僕を呼んだ人?」
「それを決めるのは、君だ」
「またそれ?」
メイは少しむっとした。怖さの中に、不満を言うだけの余裕が戻ってきていた。ローズは仮面の下で笑ったのかもしれない。表情は見えなかったが、声がわずかに柔らかくなった。
「私は答えを渡す者ではない。道を示すだけだ」
「不親切だよ」
「よく言われる」
「誰に?」
「迷子たちに」
メイは思わずローズを見た。冗談なのか、本気なのか分からない。ローズは真面目な顔、というより真面目な仮面のままだ。けれど、その一言で、メイの張りつめていた胸が少しだけ緩んだ。怖い場所で、怖い相手と話しているはずなのに、ほんの少しだけ笑いそうになった。
「僕も迷子?」
「今は」
「今は、って?」
「名前を見つけた迷子は、ただの迷子ではなくなる。どこへ向かうべきか、まだ知らないだけだ」
メイは手の中の蒼い花を握り直した。光は小さく揺れたが、消えない。花を摘んだのに、花は死んでいない。そのことが少しだけ心強かった。
「ローズは、一緒に来てくれないの?」
尋ねた瞬間、メイは自分が期待していることに気づいた。こんな仮面の人を本当に信じていいのか分からない。けれど、一人になるのは嫌だった。森は美しい。美しすぎて怖い。花は光る。月は近い。水音は誰かを呼ぶように続いている。そこへ一人で行くには、メイはまだ自分の足を信じられなかった。
ローズは首を横に振った。
「私は、常に君の隣を歩けるわけではない。この世界には、この世界の主が作った道がある。君が踏まなければ開かない場所もある」
「どうして僕なの」
「君が、呼ばれたから」
「呼ばれたかもしれない、って言った」
「なら、確かめに行くんだ」
メイは黙った。言い返せなかった。ローズの言葉はいつも少しだけずるい。答えをくれないのに、逃げ道も閉じる。けれど、その閉じ方は、檻ではなく、背中を押す手に近かった。
ローズはメイの前に紅い花びらを一枚浮かべた。花びらは空中で薄く光り、やがて小さな赤い印になってメイの掌に落ちた。熱くはない。痛くもない。ただ、薔薇の香りが指先に残った。
「困ったときは、その香りを辿れ」
「ローズを呼べるの?」
「呼べるとは限らない」
「また不親切」
「だが、完全に一人ではないと分かるだけで、歩けることもある」
メイは掌を見た。花びらはもうない。だが、指先に微かな赤い匂いが残っている。蒼い花の冷たい光と、薔薇の深い香り。その二つが、今のメイにとっての持ち物だった。名前と、花と、香り。たったそれだけ。けれど、何もなかったさっきよりはましだ。
ローズは森の奥を見た。
「真実は、君を救うとは限らない」
その言葉は、先ほどよりも低く響いた。警告だった。脅しではない。ローズ自身が、何度も見てきたものを告げる声だった。真実を知って救われる者もいる。真実を知ったから壊れる者もいる。目覚めれば朝が来る。けれど、朝が来たからといって、失ったものが戻るわけではない。メイにはまだ分からないはずのことが、その声の底に沈んでいた。
「それでも、知らなきゃいけないの?」
メイは尋ねた。自分の声が思ったより小さくて、頼りなくて、少し恥ずかしかった。けれどローズは笑わなかった。
「知らないままでは、君も、あの子も、夜から出られない」
「あの子……」
メイはその言葉を繰り返した。あの子。誰かがいる。自分を呼んだかもしれない人。この世界の主。夜を閉じた人。水音の向こうにいる人。胸の奥がまた痛む。けれど今度は、その痛みから目をそらしたくなかった。
「その子は、泣いてるの?」
なぜそう聞いたのか、メイ自身にも分からなかった。けれど、口にした瞬間、それがとても大切な問いに思えた。ローズは沈黙した。蒼い花の森に、遠い水音だけが響く。
「泣けないでいる」
ローズはそう答えた。
「泣けないと、どうなるの」
「悲しみは水になれず、夜になる。流れないものは沈み、沈んだものは世界の底で形を持つ。ここは、そうして閉じた夜だ」
メイは森を見回した。蒼い花。黒い木々。近すぎる月。美しいと思った。怖いとも思った。けれど、その美しさが、誰かの泣けなかった悲しみでできているのだとしたら、ただ綺麗だとはもう思えなかった。
「僕に、何ができるのかな」
「まずは、会うことだ」
「会うだけ?」
「会わなければ、名前は届かない」
名前。メイは自分の名前を胸の中で繰り返した。メイ。明るいって書いて、メイ。そう言った誰かの声は、まだ思い出せない。けれど、その声に会いたいと思った。会えば、自分が何者なのか分かるかもしれない。分かったら、怖い真実が待っているかもしれない。それでも、何も知らないままこの森で膝を抱えているよりは、歩いた方がいい気がした。
ローズの輪郭が薄くなり始めた。黒いインバネスの裾が、夜の影へ溶けていく。紅い花びらが再び舞い上がり、仮面の白を少しずつ隠した。
「待って」
メイは思わず声を上げた。
「また会える?」
「君が道を失えば」
「道を失わないと会えないの?」
「できれば、失わない方がいい」
「やっぱり不親切だ」
「君は思ったより文句が多い」
「怖いからだよ」
言ってから、メイは自分で驚いた。怖いと言えた。さっきまでは、怖さに飲み込まれるだけだった。けれど今は、それを言葉にできた。ローズもそれに気づいたのか、仮面をわずかに傾けた。
「なら、その怖さを持っていくといい。君を軽率にしない」
「勇気じゃなくて?」
「勇気は、怖さのない者が持つものではない。怖いまま歩く者の足に宿るものだ」
その言葉を最後に、ローズの姿は花びらの中へ消えた。黒い影が夜に溶け、白い仮面が月光にほどけ、薔薇の香りだけが少し残る。紅い花びらは一枚ずつ蒼い花の上へ落ち、触れる前に消えた。森はまた、蒼白い光と水音だけの場所に戻った。
メイはしばらく、その場に立っていた。急に静かになった気がした。ローズがいるあいだ、森の夜はどこか張りつめていた。今は、それが解けたぶんだけ、孤独が濃くなった。けれど、さっきとは違う。手には蒼い花がある。指先には薔薇の香りがある。胸には名前がある。
「メイ」
自分で自分の名前を呼んでみた。小さな声だった。けれど、森はそれを受け取った。花々が微かに揺れる。名前を呼ぶと、自分の輪郭がほんの少しだけ濃くなる気がした。メイはもう一度言った。
「僕は、メイ」
それでも、足は震えていた。怖さは消えない。ローズが言った通り、消えるものではないのだろう。メイは震える足で一歩踏み出した。蒼い花の道は、森の奥へ続いている。花を踏まないように歩こうとすると、根に引っかかりそうになる。何度も立ち止まり、何度も振り返った。ローズはいない。闇の仮面たちもいない。ただ、月が見ている。冷たく、遠く、でもどこか笑っているように。
歩くうちに、森の匂いが変わっていった。湿った土の匂いに、水の匂いが混ざる。蒼い花の数が増え、光が強くなる。木々の間隔が広がり、枝の隙間から月光が落ちる。水音は、もう遠い音ではなかった。ぽん、ぽん、と水面を踏む音。一定のリズム。踊りのようで、鼓動のようで、誰かが眠りの底から合図を送っているようでもあった。
メイは木の幹に手をつきながら進んだ。途中で、森の奥に白いものが見えた。白い仮面かと思って身をすくめたが、それは月光を受けた石だった。別の場所では、黒い影が動いた気がして息を止めた。けれど、それは木の枝が水面に映って揺れただけだった。怖いものは、いつも実際より少し早く心の中に現れる。メイは何度もそれに怯え、何度も何もないことを確かめた。そうして少しずつ、歩く速度が早くなった。
やがて、森が開けた。
目の前に、湖があった。
メイは息を忘れた。湖は大きく、静かで、黒い鏡のように月を映していた。空の月と、水の月。二つの月が向かい合い、そのあいだで世界が薄く引き伸ばされているようだった。岸辺には蒼い花が咲き続けている。湖面に近い花ほど光が強く、水に映った花は星座のように揺れていた。風はない。それなのに、湖の中央だけに小さな波紋が広がっている。
そこに、女がいた。
黒いドレスをまとった女だった。喪服のような、夜そのものを縫い合わせたような衣。長い裾が水面に触れているのに、濡れてはいない。彼女は湖の上に立っていた。足元に広がる波紋が、花びらの形になって消えていく。白い腕が月光を受け、細い指がゆっくりと空をなぞる。踊っているのだと、メイは遅れて気づいた。音楽は聞こえない。けれど、彼女の動きに合わせて、湖が音を鳴らしている。ぽん、ぽん、と。水面が打たれるたび、月の光が砕け、また集まる。
美しい、と思った。
同時に、ひどく悲しいと思った。
女の顔は遠くてよく見えない。けれど、メイはその姿に見覚えがある気がした。初めて見るはずなのに、胸の奥が締めつけられる。あの人を知っている。いや、あの人ではない。もっと小さな誰か。もっと近くにいた誰か。膝の上。窓辺。夜の部屋。小さな鈴。メイ、と呼ぶ声。
メイは一歩、岸辺へ近づいた。蒼い花が足元で揺れた。湖の上の女が、ふと踊りを止めた。
月光が、彼女の横顔を照らした。
その瞬間、メイは理由も分からず泣きそうになった。
「あ……」
声がこぼれた。女はゆっくりとこちらを向く。黒いドレスの裾が、水面に大きな円を描いた。湖に映る月が揺れる。メイの手の中で、蒼い花の光が細く震えた。
彼女は、メイを見ていた。
知らないはずの顔。けれど、胸の奥の鈴が、ひとつだけ鳴った。




