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ファントム・パラレル  作者: 秋月キアラ
月光姫譚―眠り姫と黒猫の名前―
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序章 眠り姫の噂

 月白記念病院には、満月の夜だけ開く噂がある。誰が最初に言い出したのかは分からない。小児病棟の看護師だとも、夜勤の清掃員だとも、屋上庭園へ忍び込んだ六道学園の生徒だとも言われている。ただ、その噂を聞いた者は、みな同じ言い方をした。月が丸い夜、四階東病棟のいちばん奥の個室に、黒猫の影が現れる、と。影は窓の外を歩く。足場などないはずの夜空を、細い尾をゆらしながら、ガラス一枚隔てた向こう側で音もなく歩く。そして、病室の中で眠り続ける少女の枕元に立ち止まる。少女は目覚めない。名前を呼ばれても、肩を揺すられても、医療機器の数値が乱れても、瞼を開かない。ただ満月の夜だけ、閉じた目尻から一筋、涙がこぼれる。泣いているのは少女なのか。それとも、窓に映った黒猫なのか。誰も確かめられない。確かめようとした者は、決まって翌朝にはその噂を軽く笑って否定する。


「見間違いですよ」

「月明かりと街路樹の影でしょう」

「病院には、そういう話がつきものですから」


 そう言いながら、彼らはその夜の窓の方だけを見ない。


 少女の名は、月代ひかり。十五歳。診断書の上では、交通事故後の遷延性意識障害と記載されている。身体に残った傷は、時間と医療によってほとんど塞がっていた。脳波は完全な沈黙ではない。反射も残っている。呼吸も、心拍も、微睡むように続いている。けれど、彼女は目覚めない。医師たちは慎重な言葉を選んだ。外傷後の防衛反応。心理的な閉鎖。強い喪失体験による意識回帰の遅延。どれも間違いではないのだろう。だが、どれも正解ではなかった。人は、肉体が目覚める条件を満たしていても、自分の世界が朝を拒めば戻ってこられないことがある。医師たちの言葉は、扉の前に置かれた札にすぎない。扉そのものを開ける鍵ではなかった。


 鳴海マナがその噂を聞いたのは、六道学園の図書室だった。放課後、閉架閲覧室の古い資料を戻していた一年生が、何気ない声で言った。


「月白の眠り姫って、知ってますか」


 その声は怪談を語るには明るすぎた。けれど、明るい声ほど、奥に隠した怯えがよく響く。マナは本を閉じ、栞の赤が頁の間へ沈むのを見届けてから、その生徒を見た。


「誰から聞いたの」

「友達のお姉さんが、あそこの病院で実習してて。なんか、満月の夜に黒猫が出るって。眠ったままの女の子の部屋に」


 生徒は笑おうとして、失敗した。


「変ですよね。病院なのに、黒猫なんて」


 マナは否定しなかった。黒猫が現れるというだけなら、ただの噂だった。けれど、その噂は、数日おきに別の形でマナの耳へ戻ってきた。ひかりは本来、六道学園に進むはずだったこと。彼女の病室の窓や手鏡に、夜になると湖のような景色が映ること。スマートフォンには、黒猫の写真だけが何十枚も残されていること。病室の花瓶に挿した白い花が、満月の夜だけ青白く光ること。噂は一つなら偶然で済む。だが、複数の噂が互いを知らないまま同じ中心へ向かうとき、それは世界のほころびに変わる。


 マナは、昼休みの廊下で窓ガラスに映る自分を見た。黒髪の奥で、目だけが少し暗く見えた。普通の生徒としてなら、聞かなかったことにすればいい。病院の怪談、眠り姫、黒猫の影。受験を控えた上級生が関わるには、あまりに曖昧で、あまりに危うい。しかし、曖昧なものほど、放置すれば形を持つ。名前のない不安は、誰かの夢に入り込み、やがて夢の主を外へ戻さなくなる。


「……また、閉じているのね」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、窓の向こうの空に、まだ昼なのに薄い月が浮かんでいるのが見えた。白く、冷たく、誰かの瞼の裏側に貼りついたような月だった。


 満月の夜、マナは月白記念病院を訪れた。手には黒い傘。雨は降っていない。けれど、彼女はいつも境界へ向かう夜に傘を持つ。傘は空から降るものを避ける道具であり、同時に、こちら側と向こう側のあいだに薄い影を差す道具でもあった。鞄には古い本が一冊入っている。頁の間には赤い栞。薔薇の模様などない、ただの赤い紙片。それでも、その赤だけが夜の中で微かに生き物のように見えた。病院の正面玄関は、昼間の消毒液の匂いをまだ残していた。白い床は磨かれ、壁には季節の絵が貼られ、受付の横の水槽では小さな魚が人工の光の中を泳いでいた。現実はいつも、正しく整えられているように見せかける。壊れているものほど、白い壁と柔らかな照明で覆われる。


 面会時間の終わり際だった。受付で名を告げると、看護師は一瞬だけ顔を曇らせた。


「月代さんのお知り合いですか」

「学校の関係者です。進学予定の資料について、ご家族に確認したいことがあって」


 嘘ではない。ひかりは六道学園に進むはずだった。彼女の名前は、入学予定者の古い名簿の片隅に、細く、まだ消されずに残っている。看護師は迷ったが、やがて内線で確認を取った。しばらくして、ひかりの母親が降りてきた。疲れた顔の女性だった。年齢より老けて見えるのではない。毎日同じ祈りを繰り返した人の顔だった。希望を捨てていないのに、希望という言葉だけを少しずつ使えなくなっている顔。


「娘の学校の方ですか」


 母親は丁寧に頭を下げた。


「はい。鳴海マナです。急に申し訳ありません」

「いいえ。ひかりのことを覚えていてくださる方がいるなら、それだけで」


 そこで母親は言葉を切った。覚えていてくれる。それは、眠り続ける娘に対して、もう何度も祈った言葉なのだろう。忘れないでください。まだここにいます。まだ娘なんです。まだ、月代ひかりなんです、と。


 廊下を進むにつれ、病院の音は遠ざかっていった。ナースステーションのモニター音、車椅子の軋み、誰かの咳、点滴スタンドの小さな車輪。それらは白い壁に吸い込まれ、四階東病棟の奥へ進むほど、音の輪郭が薄くなった。マナは歩きながら、世界の厚みが変わっていくのを感じていた。普通の場所では、人の記憶や会話や気配が幾重にも重なって空間を支えている。だが、この廊下の奥は違う。そこだけ、誰か一人の眠りに引き寄せられるように、現実の支えが細くなっている。壁は白い。床も白い。天井の照明も白い。それなのに、奥の窓だけが夜の色を濃く映していた。月がそこにあった。空に浮かんでいるというより、廊下の突き当たりに貼りつけられているようだった。


「……今日は、月が明るいですね」


 母親が言った。


「満月の夜は、あの子、泣くんです」

「泣く?」

「涙だけ。目は覚ましません。声も出しません。でも、涙だけ流すんです。先生は、反射かもしれないって。夢を見ているのかもしれないって。でも、私には……」


 母親は病室の扉の前で立ち止まった。扉の名札には、月代ひかり、と書かれている。漢字の線が、白い札の中で細く震えて見えた。


「私には、あの子が誰かを待っているように見えるんです」


 病室は、白かった。白いカーテン。白いシーツ。白い壁。白い花。すべてが、汚れを拒むように整えられていた。だが、その白は清潔というより、何かを隠すための雪に近かった。ベッドの上に、月代ひかりは眠っていた。細い身体。血色の薄い頬。長く閉じられた睫毛。点滴の管が腕から伸び、心拍を示す機械が小さく光っている。生きている。確かに生きている。だが、その生は、誰かの名前を呼ぶ直前で止まっているように見えた。マナはベッドの脇へ近づいた。眠る少女の顔を見た瞬間、彼女は胸の奥に小さな痛みを覚えた。これは死者の顔ではない。戻る場所を失った者の顔でもない。戻る場所を知っていながら、そこへ続く扉に鍵をかけている者の顔だった。


 窓だけが夜を映していた。満月が、病室の窓に丸く貼りついている。外に見えるはずの隣棟も、駐車場の灯りも、街の輪郭も、その窓には薄くしか映っていなかった。月の輪郭ばかりが異様に鮮明で、ガラスの内側にもうひとつの夜が満ちている。窓の下、ベッドの脇に、小さな宝石箱が置かれていた。木製で、角は少し擦り切れている。古びたオルゴール付きの箱らしい。蓋には鍵穴がある。小さな金具は鈍く光り、長いあいだ誰にも開けられていないことを示していた。表面には幼い字で何かの名前を書いたシールが貼られている。けれど、月光に焼け、指で何度もなぞられたせいか、文字は滲んでいて、今はもうはっきり読めなかった。最後の一文字だけが、かすかに揺れるように残っている。


「それは?」


 マナが尋ねると、母親は目を伏せた。


「ひかりの宝物です。昔から大事にしていて。中には、あの子の猫の首輪と写真が入っています。オルゴールもついていて、小さい頃は毎晩鳴らしていました」

「猫」

「黒猫です。ひかりが拾ってきた子でした。名前も、あの子が自分でつけたんです」


 母親はそこで言葉を切った。思い出せないのではない。忘れたわけでもない。けれど、その名前を病室で呼べば、眠っている娘の閉じた瞼からまた涙がこぼれるのではないかと恐れているようだった。


「少し変わった名前でした。でも、ひかりには大事な意味があったみたいで。夜でも、この子がいると明るいからって、よく言っていました」


 マナは宝石箱から視線を外せなかった。名は、ただの記号ではない。誰かが呼び、誰かが応え、何度も繰り返されるうちに、名前は世界の中に居場所を作る。人間であれ、獣であれ、物であれ、強く呼ばれた名は、その者が消えたあとも、呼んだ者の世界に残ることがある。残るだけならいい。だが、残った名が扉になったとき、生者はそこから戻れなくなる。


「その子は、いつ亡くなったんですか」

「事故の少し前です。病気でした。歳も取っていましたから。仕方ないことだったんです」


 母親は「仕方ない」と言ったあとで、自分の声に傷ついたように唇を噛んだ。


「でも、ひかりは納得していませんでした。いえ、納得というより……泣かなかったんです。あの子、最後まで泣かなかった。あの子を抱いたまま、ずっと黙っていて。その日から、あまり喋らなくなりました。学校の話もしなくなって、食事も残すようになって、それから事故に遭って……」


 母親の指が、ベッドの柵を握った。


「でも、猫が死んだから娘が目覚めないなんて、そんなふうに考えるのは、おかしいですよね。先生にも言えません。たかが猫のことで、なんて思われたら」


 たかが、という言葉が病室に落ちた。白い床の上で、それは小さく黒ずんだ。マナは母親を責めなかった。母親もまた、娘を愛している。ただ、娘の世界の中心にいたものを、同じ重さで持つことができなかっただけだ。人は、自分の世界の外側にある痛みを、どうしても小さく見積もってしまう。周囲にとって黒猫は、飼い猫だった。家にいた小さな生き物。いつか先に死ぬもの。けれど、ひかりにとっては違ったのだろう。学校で言えないこと、家族にも言えないこと、言葉になる前の孤独、泣きたいのに泣けない夜。そういうものを、黒猫は黙って聞いていた。聞く、という行為に言葉はいらない。世界でただ一匹、自分の沈黙を否定しない存在。それを失ったとき、ひかりの世界は朝を失った。


「月代さん」


 マナは静かに言った。


「少しだけ、ひかりさんと二人にしていただけますか」

「え……」

「無理にとは言いません。ただ、学校のことで、本人に声をかけたいんです。聞こえているかもしれませんから」


 母親は迷った。だが、聞こえているかもしれない、という言葉に弱かった。眠り続ける家族のそばにいる者は、その可能性にすがらずにはいられない。


「分かりました。廊下にいますね。何かあったら呼んでください」


 母親は何度も娘を振り返りながら病室を出た。扉が閉まる音は、思ったより軽かった。その軽さが、現実とこの部屋の薄さをいっそう際立たせた。


 マナはベッドの脇に立った。病室の空気が、わずかに冷えている。空調の温度ではない。世界が、内側から熱を失っている。


「月代ひかりさん」


 マナは名を呼んだ。返事はない。心拍を示す電子音だけが、規則正しく鳴った。


「あなたの名前は、まだここにある。病室の札にも、名簿にも、お母さんの声にも。けれど、あなた自身がその名前から遠ざかっている」


 眠る少女の瞼は動かなかった。マナは窓を見た。月が映っている。いや、映っているのではない。窓の向こうに、もう一つの月がある。ガラス面が、水面のようにわずかに揺れた。そこに映る病室が歪む。ベッドの白い輪郭が波にほどけ、天井の照明が水中の泡のように滲んだ。


 にゃあ、と声がした。


 マナは振り返らなかった。声は病室の奥から聞こえた。だが、そこに猫はいない。ベッドの下にも、カーテンの陰にも、棚の上にも、命ある影は見当たらない。なのに、確かに鳴き声はした。甘える声ではない。呼ぶ声でもない。どこか遠くで閉じ込められたものが、こちらに気づいてほしくて漏らした、細い音だった。次の瞬間、マナの指先に何かが触れた。紅い薔薇の花びらだった。病室に薔薇はない。花瓶に挿されているのは白い花だけだ。けれど、花びらは確かにそこにあり、マナの指の上でひどく軽く、ひどく重かった。


「……そう」


 マナの声が低くなる。


「もう、こちら側だけでは届かないのね」


 病室の照明が、一つ、また一つと落ちた。停電ではない。機械は動いている。廊下の明かりも扉の隙間から漏れている。けれど、病室の内部だけが、月の光に明け渡されていく。白い壁は銀色に変わり、白いシーツは湖面のような冷たい光を帯びた。マナの黒髪が、風もないのにわずかに揺れた。赤い栞を挟んだ古い本が、鞄の中で微かに鳴る。マナは一度だけ目を閉じた。開いたとき、そこにいたのは、普通の女子生徒ではなかった。


 黒いインバネスの裾が、月光の中で影のように広がっていた。白い仮面が顔を覆っている。感情を消すための仮面ではない。悲しみを外へこぼさないための、白く静かな器だった。長い黒髪は夜に溶け、襟元にわずかな薔薇の意匠が浮かぶ。そこに劇的な変身はなかった。光の柱も、名乗りも、音楽もない。ただ、病室の反射と窓の月光と薔薇の残り香が、鳴海マナという輪郭を少しずつ世界の裏側へずらし、気づいたときにはファントム・ローズがそこに立っていた。


 ローズは宝石箱へ手を伸ばした。箱の表面に触れた瞬間、蓋の内側でオルゴールの歯車が一つだけ軋んだ。しかし、箱は開かない。鍵穴は沈黙したままだ。ローズは力を込めない。壊すことはできたかもしれない。だが、壊して開いた箱に意味はない。鍵のない扉を力で破れば、その奥にいる者の世界まで壊してしまう。


「鍵は、私の手にはない」


 ローズは呟いた。その声はマナの声よりも冷たく、けれど奥に熱を隠していた。


「あなたが開けるのでもない。……まだ、呼ばれた者が辿り着いていない」


 眠るひかりの指が動いた。ほんのわずかに。何かを握ろうとするように。小さな鈴を探すように。母親が見ていれば、反射だと言ったかもしれない。医師が見ていれば、神経反応の一種だと記録したかもしれない。だが、ローズには分かった。その指は、現実の何かを探しているのではない。自分の世界の奥に沈めた名前を、もう一度掴もうとしている。


 窓に映った月が歪んだ。丸い輪郭が崩れ、液体のように広がり、やがて窓全体が水面になった。ガラスの向こうに、病院の夜景はなかった。代わりに、黒い湖がある。湖面には満月が落ちている。月は空にもあり、水底にもあり、二つの月が互いを見つめ合っている。そのあいだで、白い花が青く光った。ローズは一歩、窓へ近づいた。病室の床が、水を含んだように沈む。心拍計の音が遠のく。母親の気配も、廊下の明かりも、現実の壁も、薄い膜の向こうへ押しやられていく。


「月代ひかり」


 ローズは、眠る少女の名前をもう一度呼んだ。


「あなたの夜へ入る。けれど、あなたを連れ戻すのは私ではない」


 月が割れた。音はしなかった。ただ、世界の表面に細い亀裂が走ったような感覚があった。ローズの意識は病室を離れ、窓の水面へ沈んだ。落ちるのではない。沈むのでもない。自分の輪郭を一時的にほどき、誰かの個人世界の入口へ細く通す。そこは夢ではない。夢ならば、目覚めれば終わる。だが、これは目覚めを拒む世界だった。人が自分の記憶と認識で作り、悲しみによって閉じた、小さく完全な夜。そこへ入るには、現実の足ではなく、名前を辿るしかない。


 だが、その名はまだ、ここでは呼ばれない。


 誰かが何度も呼び、何度も返事を待ち、やがて返事がなくなっても手放せなかった名。宝石箱の蓋に滲んで残った幼い字。首輪の鈴の奥に沈んだ響き。黒猫の影が窓辺に置いていった、名前になる前の温度。ローズは、その輪郭だけを辿った。ここで言葉にしてしまえば、それは鍵ではなく答えになってしまう。答えを先に渡された者は、自分の足で夜を歩けなくなる。


 闇の中で、少年が走っていた。


 息が苦しい。足がもつれる。どこを走っているのか分からない。床があるのか、道があるのか、壁があるのかさえ分からない。ただ、後ろから何かが来る。仮面を被った異形たち。人の形をしているのに、人ではない。顔のあるべき場所に白い面があり、目の穴の奥には何もない。けれど、彼らは少年を見ている。見ている、というより、少年という形をしたものを数えている。ひとり。異物。入口を間違えたもの。名前だけで立とうとしているもの。そんな言葉が、声にならない声で闇の中を滑ってくる。


「待って……!」


 少年は叫んだつもりだった。だが、自分の声が自分のものか分からない。幼い声だった。高く、震えていて、頼りない。足音がいくつも近づく。仮面たちは急がない。急がなくても、いずれ少年が転ぶことを知っている。闇の中では、逃げる者だけが疲れていく。追う者は、疲れない。


「そっちじゃない!」


 誰かが叫んだ。少女の声だった。鋭く、怒っていて、けれど必死だった。


「そっちは別の入り口だ! 戻って!」


 少年は振り返ろうとした。だが、仮面の群れが見えた瞬間、身体が勝手に前へ進んだ。怖い。どうして怖いのか分からない。自分が何をしたのかも、なぜ追われているのかも、どこから来たのかも分からない。ただ、捕まれば自分が自分でなくなる気がした。仮面の一人が手を伸ばす。白い指が、闇の中で異様に長く伸びる。少年の背中に触れそうになる。


「こっちを見るな!」


 同じ少女の声がした。今度は銃声のような破裂音が響いた。白い指が弾け、仮面たちが一瞬だけ足を止める。少年はその隙に走った。足元に、光るものが見える。道ではない。亀裂だ。闇の壁に、硝子のような細い割れ目が走っている。向こう側に、青白い光が見える。花のような光。水のような匂い。月の冷たさ。少年はそれが出口だと思った。出口でなくてもよかった。ここではないどこかなら、それでよかった。


「駄目、そこは――!」


 少女の声は、途中で遠ざかった。


 少年は闇の壁にぶつかった。硝子が割れるような音がした。実際に割れたのは空間だった。黒い壁が無数の破片になって散り、少年の身体はその向こうへ投げ出された。落ちる。上も下も分からない。黒い破片が星のように周囲を流れる。仮面たちの手が遠ざかる。少女の声も遠ざかる。自分を呼ぶ誰かの声だけが、どこかから聞こえた気がした。


 けれど、何と呼ばれたのかは、まだ分からなかった。


 やがて、身体が柔らかなものに受け止められた。草の匂い。土の冷たさ。湿った夜気。少年はしばらく動けなかった。胸が上下する。指先が震える。生きている、と思った。けれど、その「生きている」という感覚さえ、自分のものなのか分からなかった。


 瞼を開けると、森だった。


 夜なのに、真っ暗ではなかった。足元に、蒼白く光る花が無数に咲いている。小さな灯火のような花々が、森の奥へ続いていた。木々は黒く、空は深い藍色で、その上に大きな月が浮かんでいる。月は丸く、近すぎるほど近く、まるで少年を見下ろしているようだった。遠くで水音がする。誰かが湖面を指で叩いているような、静かで規則的な音。


 少年は身体を起こした。知らない服を着ている。知らない手がある。膝に土がついている。手のひらに、小さな切り傷がある。痛い。痛いのに、その痛みがどこか懐かしい。彼は周囲を見回した。闇の壁も、仮面の群れも、少女の声も、もうない。


「夢の中……?」


 声に出してみると、その言葉は森の中で白くほどけた。蒼い花が、かすかに揺れる。風が吹いたのではない。少年の声に反応したようだった。


 彼は自分の名前を思い出そうとした。何もない。家も、家族も、学校も、昨日のことも、明日のこともない。ただ、胸の奥に、小さな鈴の音だけが残っている。誰かに呼ばれていた。何度も。優しい声で。泣きそうな声で。怒った声で。眠る前の声で。けれど、その音がどんな名前だったのか、まだ思い出せない。


 森の奥で、水音がまた鳴った。


 少年は立ち上がった。足元の蒼白い花が道のように光っている。夜は深い。だが、どこかに誰かがいる。自分を呼んだ誰かがいる。そう思った瞬間、胸の奥で、名前のかけらが小さく熱を持った。


 これは夢だ、と少年はもう一度思おうとした。


 けれど、この夢は、彼の夢ではなかった。

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