第9話 包丁を売ってくれないか?
数日後、昼の混雑が引いた店内には、冒険者や商人が数人残っていた。
ワイバーン肉の評判を聞きつけた冒険者たちが「親父さん、今日もあのステーキあるか?」と暖簾をくぐってくるが、俺にとってはいつもの営業だ。
「あいよ」
まな板の上でカブを切り、肉を切り落とし、皿へ盛り付ける。
包丁を握る手に余分な力は入っていない。三十年間鍛冶場で包丁を打ち、手になじんだいつもの道具。トントンと軽快な音が厨房に響く。
だが、カウンターの端に座った一人の客が、料理を口へ運びながら妙な視線を向けてきていることに気づいた。
着ている服の生地は悪くない。王都方面へ商品を運ぶ行商人といった風情の男だ。注文したオーク肉の鉄板焼きを美味そうに食っているのだが、その目が肉ではなく、俺の手元へ何度も向いていた。
俺がカブを薄切りにし、肉の筋を落として包丁をまな板の脇へ置くと、男の視線が何度も俺の手元に戻ってくる。
「どうした? 料理が口に合わなかったか?」
声をかけると、男は慌てて皿へ視線を落とし、首を振った。
「いや! 料理は最高だ。肉も柔らかいし、味付けも文句なしだ。……ただ、その、申し訳ないんだが……親父さんの使っている、その包丁を見せてもらえないだろうか?」
「包丁を?」
少し首を傾げたが、断る理由もない。俺は布巾で刃を丁寧に拭き上げると、柄を男の方へ向けてカウンターの上に置いた。
「別にかまわんが……ただの仕事道具だぞ」
「かたじけない」
男はおそるおそる手を伸ばし、包丁の柄を握った。
男はこれまで、王都と地方を何度も往復してきた。武具の値段も、職人の腕も、商売人なりに見てきた。
柄を握った男の表情がかすかに固まる。
「……なんだ、これは」
指先に伝わる妙な吸い付き。手首を少し動かしただけで、包丁が思った通りについてくる。金属の表面には過度な装飾もなく、飾り気のない、どこにでもありそうな包丁だった。それなのに、刃を握っていると手を離したくなくなる。
男は喉を鳴らし、カウンターの端にあったカブの切れ端へ視線をやった。
「……親父さん、これを一つ切ってみても?」
「ああ、好きにしな」
男が包丁を持ち上げ、カブの上面に刃をそっと当てる。
力を込めるまでもなかった。
すっ。
刃が滑り落ちたかと思うと、カブは音もなく二つに割れていた。手に残ったのは、ただのカブを切ったとは思えない拍子抜けするほどの軽い手応えだけだ。
「……すごいな」
男は切り口から目を離せなかった。
「親父さん……この包丁、売ってくれないか?」
「……は?」
思わず聞き返した。
「売ってくれって……お前さん、商人だろ? 包丁なんて武具屋や道具屋に行けばいくらでも売ってるぞ。それにそれは俺が使い古した中古だ」
「いいや、これがいい。こんなに扱いやすい包丁は見たことがないんだ」
男の目は本気だった。
使い込んだ中古の仕事道具を買い取りたいと言われるのは妙な気分だったが、店には予備の包丁がまだ何本かある。仕込みに困るわけではない。
「……まあ、そこまで言うなら別にいいが。中古だしな、銀貨数枚もくれれば新しいのを一丁作る足しにするよ」
俺が提示した金額を聞いた瞬間、男の動きが固まった。
「……銀貨数枚、だと?」
「高すぎたか? なら銀貨二枚でいい」
「違う! 安すぎるんだよ!」
男は興奮気味に身を乗り出した。
「頼む、金貨一枚で買わせてくれ! それ以下じゃ俺の気が済まない!」
「き、金貨一枚!?」
声が裏返ってしまった。
「おいおい、包丁一丁だぞ? 金貨一枚もありゃ、店で出す食材がどれだけ仕入れられると思ってるんだ。そんなに払わなくても……」
「いや、むしろ金貨一枚でも安いくらいだ! この包丁にはそれだけの価値がある!」
男はそう言い切ると、懐から金貨を一枚取り出し、弾むようにカウンターへ置いた。
包丁一本にそこまでの値をつけられる理由がさっぱり分からなかった。
「……そこまで言うなら、悪いな」
「感謝するよ、親父さん!」
男は満足そうに頷くと、金貨を残し、包丁を大事そうに懐の布で包んだ。
「実は明日、商談で王都へ行くんだ。いい買い物ができたよ」
「そうかい。気をつけてな」
男は丁寧にお辞儀をすると、弾むような足取りで店を出ていった。
俺はカウンターに残された金貨を拾い上げ、つくづく首をひねった。
(……包丁一本に金貨一枚ねぇ。王都の商人ってのは、金の使いどころが分からんな)
まあ、臨時収入が入ったのは確かだ。これで明日は、少し質のいい食材でも仕入れてみるか。俺は気持ちを切り替え、予備の包丁を取り出して次の仕込みへと向かった。
◇
王都へ向かう街道の馬車の中。
商人の男は、膝の上に載せた布包みを何度も確かめるように撫でていた。
布を開き、中の包丁をそっと持ち上げてみる。
「……本当に、不思議な包丁だ」
長年の商売で培った勘だけが、これは違うと告げていた。ただの食堂の親父が使うような、ありふれた道具ではないと。
「……これ、王都の知り合いの鍛冶師に見せたら、どんな顔をするかな」
商人はフッと口元を緩め、再び包丁を丁寧に布で包み直した。
馬車は王都へ向かっていた。その荷台には、一丁の包丁が積まれている。




