第30話 天才だった、と言われた方がマシだった
ヴァルターはすぐには答えなかった。
作業台の端に置かれた包丁へ視線を落とし、老いた手をその刃の上にそっと重ねた。
その口元がわずかに緩む。
少し前まで、倒れ伏すように病床で息を吐いていた老人とは思えないほど、穏やかな顔をしている。
(……なんだ、その顔は)
喉の奥が引きつる。
「あいつがこの工房の門を叩いたのは、もう三十年も前のことだったか」
ヴァルターは包丁から手を離し、視線を天井に向けた。
「ガルドはな、鍛冶師になろうとしてここへ来たわけじゃないんだ」
「……は?」
レオンは眉間にしわを寄せた。
「冗談だろ。じゃあ何のためにうちへ来たってんだよ」
「包丁を買いに来たのさ」
ヴァルターの声には、小さな吐息のような響きが交じっていた。
「自分の母親に贈るための一本を探してな。何時間も包丁を眺めておった」
「……ただの買い出しかよ」
レオンは鼻を鳴らそうとした。
だが、声が妙に掠れてうまく音にならなかった。
「ただの客だったさ」
ヴァルターは作業台の上に転がる地金の破片に指を触れた。
「あいつは俺に訊いてきたんだ。『これはどうやって打つんですか』ってな。最初は客の気まぐれかと思った。だけど次の日も、その次の日も来ては、叩いとる鉄と炉の炎を食い入るように見ておった。そんで遂には『俺にも打たせてくれませんか』とか言い出してな」
レオンは拍子抜けした。
「……包丁を贈りたいからって、自分で作ろうとしたってのか? 馬鹿馬鹿しい。そんな動機で打てるほど、鍛冶仕事は甘くねえ」
「ああ、甘くはなかったさ」
ヴァルターはレオンが打った鉄塊を持ち上げた。
「あいつもな、最初はお前がそこに転がしているものと大差ない鉄の塊しか作れんかった」
鉄の塊という言葉にレオンの肩が揺れる。
「失敗ばかりだった」
ヴァルターは語り続ける。
「切れば引っかかる。研げば刃が崩れる。焼けば曲がる。最初の半年は、そんな失敗の繰り返しだった」
レオンの胸の奥で、わずかに強がりが首をもたげた。
(なんだ……ガルドだって、最初はそんなもんだったんじゃないか)
誰だって最初は失敗する。
自分だってそうだ。
地金の質が悪かったり、依頼人の注文が無茶だったりすれば、思うような成果が出ないことくらい幾らでもある。
「だけどな」
ヴァルターは鉄塊を指でコツコツと叩いた。
「ガルドは失敗するたびに、割れた刃や曲がった鉄を捨てずに手元に置いておった。それで、なんで曲がったのか、どこで火力が過剰だったのか俺に何度も何度も聞いてきおった」
「……そんなの、聞いたところで変わらねえだろ」
レオンは歯を鳴らした。
「失敗は失敗だ! 地金に含まれる不純物のせいかもしれねえし、使った魔鉱石の特性が偏ってたのかもしれねえ! 駄目な素材を使ったら駄目なものができるのは当たり前だろ!」
「あいつは一回も素材が悪いとは言わなかったぞ」
ヴァルターの短い言葉が、レオンの発言を遮った。
「曲がれば、次は曲がらないように叩く。割れれば、割れた理由を探す。何度失敗しても、また炉に向かうんだ」
「……」
「こっちが止めたくなるくらいにな」
レオンは握りしめた手に力を込めた。指先が白く変色する。
「初めて形になった包丁を仕上げたとき、あいつは研ぎあがった刃を見て言ったんだ。『この刃は、肉を切るときに一瞬引っかかる。引くときに少し刃が滑る』とな」
「……は?」
「俺が手に取って確かめても、最初は分からんかった。だが、肉を切らせてみると、確かに刃先が微かに引っかかる感触があった。……刃の角度や研ぎの目がほんの僅かに不揃いだったのさ。あいつは指で触れただけで、その微細な違いを感じ取ってたんだ」
「そんなバカな……! 職人歴数ヶ月の素人が、研ぎの微細な不揃いを見抜けるわけねえだろ!」
「見抜いたんだよ」
「……」
「理屈じゃない。あいつは『刃がどう動くか』を、自分の身体の延長みたいに感じる感覚を持っていた。……いや、持っていたというより、失敗した刃を何千と観察し、自分で触り続けたからこそ、その感覚が研ぎ澄まされていったんだろうな」
レオンの背中に、冷や汗が伝う。
天才だった、と言われた方がマシだった。
最初から自分とは違う特別な才能を持っていたと言われれば、「俺にはそんな才能はない」と諦めがつく。
自分は刀鍛冶として効率よく実績を積む道を選んだのだと納得できる。
だが、ヴァルターが語っているのは違った。
ガルドも自分と同じように失敗し、迷い、不器用だった。
ただ、失敗から目を背けず、泥臭く刃と向き合い続けた時間が、あの異常なまでの感覚を作り上げたのだと。
「……で、どうなったんだよ」
レオンの声は、もう以前のような強がりを保てなくなっていた。
「その……母親に贈る包丁は、できたのかよ」
「できたさ」
ヴァルターの口元が、今度ははっきりと緩んだ。
「一年かかって打った、お世辞にも美しいとは言えん包丁だったな。装飾もなく、鋼の叩き痕が残る無骨なものだ。……だが、あいつはそれを母親に贈った」
ヴァルターは遠くを見るような目で言った。
「母親は喜んで使ってくれたそうだ。『今まで使ったどの包丁よりも手に馴染む』とな。毎日、その包丁で料理を作り、客に振舞った。ガルドが嬉しそうに報告してきたよ」
「……だったら」
レオンは眉をひそめた。
「だったら、満足したんだろ。母親に包丁を贈って喜ばれたなら、それで終わりだろ。なんであいつは、その後も三十年も工房に居座って、包丁ばかり叩き続けてたんだよ」
「喜ばれたからさ」
ヴァルターは作業台の上に置かれたガルドの包丁にレオンの鉄塊を重ねた。
「使う人間がどう道具を扱い、どう切れるかを考え、形にする。その包丁で料理人が料理を作る。客がそれを食べる。それが嬉しかったんだろう。使う人間の手と一体になる刃、それを作り込む面白さに、あいつはどこまでも深くハマり込んでいったんだ」
ヴァルターの言葉が途切れた。
レオンは作業台の端に置かれたガルドの包丁に視線を移した。
先ほどまでなら、ただの包丁にしか見えなかった。
今は、その刃から目を逸らせなかった。
「……っ」
レオンは指先を微かに震わせながら、掠れた声を絞り出した。
「……話は分かったよ。だがな、親父」
レオンはヴァルターの顔を見まいとしながら言った。
「結局、あいつが作っていたのは包丁だ。どれだけ工夫しようが、どれだけ時間をかけようが、厨房で野菜を切るための道具に過ぎねえ。俺たちが目指すべき刀鍛冶の技術とは、最初から世界が違うんだよ」
「お前はまだ、何も分かっておらん」
ヴァルターは背を向けると、工房の奥へと歩き出した。
「お前が捨ててきたものの中に、あいつが三十年かけて拾い集めてきたものがある」




