第28話 先代が目を覚ます
翌朝、工房の空気は冷え切っていた。
炉の火は落ち、鍛錬用の鉄の匂いと炭の匂いだけが漂っている。
レオンは作業台の前に立ち、棚から取り出した炭素鋼の地金を軽く叩いて状態を確かめていた。
昨日のうちに作ったレプリカの仕上がりは悪くない。
商人が持っていった二十本で、当面の資金繰りもつくだろう。
壁に目をやる。
昨日投げつけた包丁が、分厚い木壁の板目に深く刺さったままだ。
ガルドが残していった本物。
あの狂ったような切れ味を持つ包丁も、壁に突き刺さったままではただの冷たい鉄塊でしかない。
「――また、荒れてるな」
不意に、背後からしわがれた声が聞こえた。
レオンは叩いていた鎚を止め、振り向いた。
工房の奥に通じる通路の脇、薄暗い影の中に一人の男が立っていた。
着古した革のまえかけを羽織り、壁の柱に片手を預けている。
顔色は青白く、頬はげっそりと削げていた。
足元もおぼつかず、膝がわずかに震えている。
それでも、目だけはレオンをしっかり見ていた。
「親父……?」
手に持っていた鎚が、指から滑り落ちた。
ヴァルター。
長く病床に伏し、死を待つだけだと思っていた先代の親方。
「……何やってんだ。動いて大丈夫なのかよ」
レオンが声をかけるのも構わず、ヴァルターは重い足取りで一歩を踏み出した。
すり足で板間を歩き、工房の中央へと進んでくる。
ヴァルターの視線は、作業台に並ぶ鋼の塊には向かなかった。
老いた職人の目は、まっすぐに奥の壁へと向けられていた。
そこに突き刺さっている、一本の包丁。
「……」
そのまま壁際まで歩み寄ると、ヴァルターは痩せ細った腕を伸ばした。
骨ばった指が、木柄を握りしめる。
引き抜く瞬間、わずかに手首が止まった。
固く締まった木壁から、吸い出されるように滑らかに抜ける感触。
ヴァルターは表情一つ変えず、すっと包丁を引き抜いた。
手に持ったまま、刃を見つめる。
指先で背の厚みを触り、刃の反りを見る。
柄の握り心地を確かめるように、ごつごつとした手の中で回した。
「……ガルドも腕を上げたな」
ヴァルターの目が、レオンへと向けられた。
「……」
レオンは口をもごつかせた。
ヴァルターから目を逸らすように床に落とした槌を拾い上げた。
「倉庫に転がってたやつだ。壁の板を張り替える前に、試し投げしただけだよ」
ヴァルターは視線を落とし、それから、工房の入口、奥の棚へと目を向ける。
「ガルドの奴は……商会にでも行っているのか? 今日は納品の日だったか」
レオンは小さく鼻で笑い、作業台の上の鉄を横に退けた。
「親父、まだ頭がはっきりしてねえんだろ。横になってろよ」
「……」
「もう工房にはいないよ。俺が追い出した」
「……いない?」
ヴァルターの動きが止まった。
手元の包丁を握りしめたまま、その鋭い目がレオンの顔を射抜く。
「ああ。あいつは包丁しか作れないからな。武器鍛冶の工房に置いておく必要はないだろ」
ヴァルターは何も言わなかった。
ただ、手元にある包丁に視線を戻す。
刃の表面を見つめるヴァルターの指先が、僅かに刻まれた刃紋をなぞる。
「……そんなもの、ただの包丁だぞ。ガルドが打ち置いたやつだ」
レオンが呆れたように言った。
ヴァルターは壁の傷痕をさすりながら低い声を発した。
「……ガルドは、今どこにいるんだ?」
レオンは歯を食いしばりながら答えた。
「王都の外れで、小さな食堂をやってるよ。客に肉を焼いて配るのが楽しいんだそうだ。職人としてのプライドも捨ててな」
「……食堂、か」
ヴァルターは包丁を持ち上げた。
その目には俯くレオンと、作業台の上に無造作に並べられた鉄塊が映っていた。




