第26話 今日も、まだまだ忙しい
「せっかく声をかけてもらったのに、申し訳ないんですが……」
入口へ向かって踏み出しかけていたレオンの足が止まった。
レオンは振り向き、一瞬、眉間に深いシワを寄せた。
「……何だ?」
レオンは取り繕うように笑って見せた。
「何か問題でもあるのか? 給金のことなら、話し合い次第で――」
「いえ。条件が悪いとか、そういうことじゃないんです」
レオンは笑顔を壊さないまま、俺のほうへ一歩踏み込んできた。
「だったら戻ればいいだろ。お前は職人だぞ。こんなところで料理なんかしてる必要がどこにある?」
「包丁を作るのが嫌になったわけじゃありませんよ」
包丁を作ること自体は、今でも好きだ。
「じゃあ、なおさら戻ればいいだろ!」
レオンの声が、店内によく通る大きさになった。
「王都中の料理人がお前の包丁を欲しがってるんだぞ。工房に戻れば、職人としてまともな生活ができる。こんな小さな食堂で仕入れに追われるより、ずっとお前のためになるんだ」
レオンの眉間に皺が寄っていく。
怒っているのか、笑っているのか、よくわからないしわくちゃな顔になっている。
俺は店内を見回した。
鉄板の上でオーク肉がジュウジュウと旨そうな音を立てている。
香ばしいニンニクと脂の匂い。
「うめえな」「麦酒がキンキンに冷えてやがる!」と笑い合う客たちの声が耳に届く。
「俺はね、ここで料理をするのも好きなんですよ」
レオンの拳がプルプルと震えているのが見えた。
「朝、市場に行って食材を仕入れて。包丁で肉を刻んで、火を通す。それを食べた客が『美味い』って笑ってくれて……また来るよと言ってもらえる。やっぱり嬉しいんですよ。すごく」
「そんなもの……職人だって同じだろ。客が喜ぶのを見るのが仕事だ」
「ええ。包丁を作るのも楽しかったですよ」
俺は昔の工房で鉄を叩いていた頃を少しだけ思い出した。
確かにあの仕事も楽しかった。
「でも……」
レオンの充血して真っ赤になった目を見た。
「こっちのほうが楽しいんですよ」
レオンの目が左右に泳ぐ。
「お、お前……正気か? 工房を、職人の地位を捨てて……」
カウンターの常連が麦酒のグラスを傾けながら言った。
「そうだよな」
俺が振り向くと、その常連の男がニッと笑ってグラスをあおった。
「親父がここで料理作ってるから、俺たちは食いに来てんだよ」
「そうだぜ。俺も親父の飯が好きだし、いなくなったら困るな」
奥のテーブルからも、気楽な合いの手が飛んでくる。
レオンは震える右手で額を抑えた。
何も言わず、店内を見回した。
カウンターで肉を頬張る客、
楽しそうに酒を飲む職人たち、
戸口の向こうで並んでいる行列。
「……」
口を少しだけ開け、何か言いかけたようだったが、結局レオンは口を閉じた。
右手の隙間から赤い瞳が揺れているのだけが見えた。
「すみませんね。お客さん待たせてるんで」
俺はそう告げると、厨房へ戻った。
待っている客たちに「お待たせしました、どうぞ」と声をかけると、カウンターの客が皿をポンと叩いた。
「親父! オーク肉もう一つ頼む!」
「はいよ、すぐ焼くよ!」
まな板の前に立ち、包丁を握り直す。
使い込んだ柄の感触が、手のひらにしっくりと馴染む。
オーク肉をまな板に置き、刃を滑らせた。
筋がすっと切れ、きれいな断面が現れる。
鉄板に乗せると、パチパチと香ばしい音が立ち上り、煙とともに旨そうな匂いが広がる。
今日も、まだまだ忙しい。
俺は額についた汗を拭った。
「さて……次の注文はなんだ?」




