第2話 包丁職人、王都の外れで食堂を始める
「ここを借りたいんだが」
俺は木造二階建ての建物の前で、家主である小太りなおやじに鍵を見せながらそう切り出した。
おやじは腕を組み、歪んだ扉や苔の生えた外壁に視線を走らせてから、フンと鼻を鳴らした。
「ここは十年近く放置されてた物件だぞ。柱は頑丈だが、掃除も修繕も自分でやるのが条件だ。まあ、王都の外れとはいえ、この広さなら家賃は金貨二枚ってトコだ」
手元の革袋から金貨を二枚取り出し、おやじの手に握らせる。おやじは拍子抜けしたように目を丸くしたが、すぐにニヤリと笑って鍵と賃貸契約の証文を渡してきた。
「まいど。……ところでアンタ、ここで何始める気だ? 工房でも開くのかい?」
「いや、食堂だよ」
「食堂ぉ? こんな路地の奥でか?」
「ああ。自分一人で回すなら、このくらいで十分だろ」
鍵を受け取り、木枠の扉を開ける。ギィと乾いた音が響き、埃っぽい匂いが鼻を突いた。王都一の店にしようとか、大儲けしてやろうなんて気はない。自分の打った包丁で、美味いもんを作って食ってもらう。俺のやりたいことはそれだけだ。
まずは掃除からだった。
腕まくりをして手ぬぐいを頭に巻き、雑巾とバケツを用意する。埃にまみれた床やテーブルを磨き上げ、壊れかけていた木脚には釘を打ち直す。鍛冶屋をやっていたおかげで、簡単な大工仕事ならお手のものだ。
客席を整えた後、奥の厨房に入った。
長年使われていなかった石造りの作業台を念入りに水拭きし、備え付けの炉に溜まった灰を掻き出す。煙道の詰まりを取り除き、薪をくべて火を焚くと、パチパチと心地よい音が狭い厨房に響き渡った。
「……料理を作る場所を持つなんて、ずいぶん久しぶりだな」
火の温かみを感じながら、呟く。三十年前に置き去りにした夢が、今こうして目の前にある。
作業台が乾いたところで、持ってきた革の道具箱を置いた。
パチンと留め具を外し、中に納められた道具を一つずつ取り出していく。
肉を切り分ける大型の出刃包丁。野菜の刻みや細工に使う三徳包丁。魚を滑らかに引くための柳刃包丁。そして、細かい皮むき用の小型包丁。どれも俺がこの手で打ち、研ぎ澄ませてきた相棒たちだ。
布で刀身を丁寧に拭き、作業台の壁際に設けた包丁立てへ挿していく。
刃先が光を反射して冷たく輝く。どれも鍛冶屋としては「いつもの仕事道具」だ。特別な装飾もなければ、魔導具の類でもない。だが、こうして厨房に並ぶ姿を見ると、胸の奥が少し熱くなる。
「よし……手入れは完璧だな」
道具が揃うと、次は食材だ。
俺は腰袋を確かめ、王都の外れにある市場へ足を運んだ。中心街ほど華やかではないが、露店が立ち並び、威勢のいい声が飛び交っている。
「いらっしゃい! 鍛冶屋の親父さんみたいなゴツい手をしてるが、何か探してんのかい?」
野菜を並べていた中年の商人が、俺の手を見て声をかけてきた。
「今日からここで食堂を始めるんだ。手始めに、日常的に使う食材を仕入れに来た」
「食堂かい! へえ、そいつはめでたい。なら、このキャベツとカブを持って行きな。今の時期は甘みが乗ってて美味いよ」
「そうかい。じゃあ、それをもらおう」
商人の言葉に従い、新鮮なキャベツとカブ、それからニンニク、玉ねぎを購入した。隣の肉屋では一般的な鶏肉と豚の細切れ、パン屋で焼き立ての丸パンを仕入れる。塩や香辛料の瓶も買い揃えた。
「料理は昔からやってるのかい?」
肉を包んでくれながら、肉屋の店主が尋ねてきた。
「いや、本格的にやるのは素人同然さ。子供の頃に少しやったくらいでね」
「ハハッ、そいつは勇気があるな! まあ、近所だから開店したら顔を出すよ」
「ああ、待ってるよ」
市場の人間とそんな軽口を交わし、食材を抱えて店へ戻った。
さて……と、エプロンを締め、厨房に立つ。
「まずは、何から始めるかね」
三十年前の記憶を掘り起こす。肉と野菜の炒め物に、簡単なスープ。素人料理の定番だ。味付けの塩加減や火の通し方は、正直手探りだった。
「塩は……これくらいか? まあ、食えりゃいいか」
料理の知識やレシピなんてものは、俺には大してない。
だが、作業台の上に置いたカブに手を伸ばし、包丁を握った瞬間、身体の感覚が一変した。
トトン、トトン、トトン。
一定のテンポで刻む音が厨房に跳ねる。
力など全く込めていない。包丁の重みだけで、刃が吸い込まれるようにカブを通過していく。切り出された薄切りは、どれも寸分違わぬ厚みで並んだ。断面は水分を閉じ込めたまま鏡のように滑らかだ。
続いて鶏肉を手にとる。余分な脂身と筋に刃先を軽く当て、すっと手首を引く。
スッ。
本来なら包丁が引っかかるはずの硬い筋が、まるで温めたバターを削るように抵抗なく断ち切られた。
「……まあ、こんなもんか」
包丁なんて、狙った通りに切れて当然だ。職人が打った刃物ならこの程度の切れ味は当たり前だし、狙った厚さに切るのも刃物を扱う者なら初歩の技術だと思っている。
「おう、ガルドさん……様子を見に来たぞ」
引き戸がガラガラと開き、さっき市場で野菜を売ってくれた商人が顔を出した。近所付き合いの挨拶代わりに立ち寄ってくれたらしい。
「おう、いらっしゃい。今、仕入れた材料で試作してるところだ」
「料理は素人だって言ってたから心配で見に来たんだが……って、おい」
商人が厨房の作業台に視線を落とした瞬間、言葉を詰まらせた。
皿の上にきれいに整列したカブの薄切りと、完璧に筋を外された鶏肉。どちらもまるで定規で測ったかのように美しく、食材の断面が瑞々しく光っている。
「なんだ……その切り方は? どうやって切ったらそんな断面になるんだよ!?」
「なんだって、普通に切り分けただけだぞ。包丁の刃先を素直に通せばこうなる」
「いやいやおかしいだろ! 職人の料理人だってそんな速さでこんな均一に切れねえよ!」
商人が目を丸くして叫ぶが、俺には彼の言っている意味がよく分からなかった。道具が良ければ、道具の性能通りに切れる。ただそれだけの話だ。
「まあ、せっかくだ。食べてみてくれ」
熱したフライパンに豚肉と刻んだ野菜を投入し、強火でサッと炒める。塩コショウで味を調えただけのシンプルな炒め物と、鶏肉を煮込んだコンソメ風のスープ、そして切ったパンを盆に載せて出した。
「ほら、どうぞ」
「……いただくよ。しかし、見た目だけは一丁前だな」
商人は半信半疑のまま、木製のフォークで炒め物を口に運んだ。
シャキッ、と心地よい音が店内に響く。
「……!?」
商人の動きがピタリと止まった。
「どうだ? 塩辛すぎたか?」
「……美味いな。本当に素人なのか? 味付けは普通なのに、妙に食材が美味く感じるぞ」
「そうかい。切り口が潰れてないと、水分も味も外に逃げないからな。まあ、料理としては普通の味だろう」
自分の分を一口食べてみる。うん、塩加減も悪くない。素人料理としては上出来だ。
「ごちそうさん! これなら近所でも評判になるよ」
商人は満足そうにスープを飲み干し、口を拭って帰っていった。
自分が作ったものを、美味いと言って食ってもらえた。
鍛冶場では、仕上がった刃を褒められることはあっても、自分の作ったものを誰かがその場で食べて「美味い」と言ってくれることはなかった。
その一言が、妙に嬉しかった。
やっぱり、この道を選んで正解だった。
俺は看板用の木板を取り出し、ペンキで文字を書き込んだ。
『ガルドの食堂』
実にシンプルな店名だ。それを店の入口の脇に掲げ、扉を少しだけ開けておいた。
厨房に戻り、手ぬぐいで作業台を拭きながら待つ。
「さて……誰か来るかね」
厨房の火が小さく爆ぜる。
表通りから聞こえていた市場の声も、いつの間にか遠のいていた。路地を往き交う足音が、ときおり店の前を通り過ぎていく。
客が来ない時間も、悪くなかった。
日が傾き、路地に長い影が伸び始めた頃。
ガラガラ、と戸が開いた。
立ち上がると、そこにはお腹を空かせた様子の若者が一人、店内を覗き込んでいた。冒険者のような使い古した革鎧を着ている。
「いらっしゃい」
「……あの、ここって飯食えますか? 腹が減って倒れそうなんだ」
「ああ、できるよ。できたての肉野菜炒めとスープで良ければ、すぐに出す」
「頼む!」
若者はカウンター席に滑り込み、腹を押さえた。
俺は厨房で皿に料理を盛り付け、温かいスープと一緒に若者の前に置いた。
「熱いうちにどうぞ」
「いただきます!」
若者は勢いよくフォークを伸ばし、炒め物とパンを口へ突っ込んだ。
モグモグと動いていた若者の顎が、突然止まる。
目を見開き、皿と俺の顔を交互に見た。
「……なんだ、これ」




