第16話 貴族が包丁を全部買い取りたいと言ってきた
昼時のピークを過ぎ、客足が少し落ち着いた頃。俺は布巾を手に、木製のカウンターを拭いていた。
「親父、ごちそうさん! 今日の煮込みも最高だったぜ!」
「そいつはよかった。気をつけてな」
荒くれの冒険者や近所の商人が満足そうに腹を擦りながら店を出ていく。テーブルに残された皿を片付け、調理台の周りを整える。
(今日もよく食べてもらったな)
この街の片隅で食堂を開いてからしばらく経つが、最近は客が増えてきた気がする。仕込んだ食材が綺麗になくなるのは、職人として純粋に気分がいい。
暖簾がくぐって、二人組が入ってきた。
先頭に立つ男は上質な仕立ての服を纏い、胸元には控えめだが細工の細かい銀のブローチが光っている。後ろには護衛らしい男が、周囲を警戒するように付き従っていた。ずいぶんと身なりのいい客だ。
俺は特に態度を変えることもなく、いつもの声で声をかけた。
「いらっしゃい。空いてる席へどうぞ」
男は珍しそうに店内を見回すと、空いていたカウンターの端へ腰を下ろした。
「……ここが噂に聞く食堂か。随分と素朴な佇まいだな」
「うちみたいな小さな店はこんなもんですよ。ご注文は決まりましたか? 今日はいいオーク肉が入ってますよ」
俺が勧めると、男の視線が調理台へ向いた。
「ほう、オーク肉か。では、それを頼もう」
「はいよ、少々お待ちを」
俺は厨房へ戻り、仕込み済みのオーク肉を取り出した。状態を確認し、筋の入り方を見極めて包丁を滑らせる。余分な筋を断ち切り、素早く鉄板へと滑り込ませた。ジューッという香ばしい音とタレの香りが広がっていく。
皿に盛り付け、男の前へと運んだ。
「お待たせしました」
男は差し出された皿を一瞥し、ナイフとフォークを手にとった。従者の男が少し警戒するような視線を向けてきたが、男は構わず肉を切り分け、口へと運ぶ。
男は口に手を当て神妙な顔をしている。
「……ん? 口に合いませんでしたか?」
男はしばらく肉を噛みしめると、ふっと息を吐き出した。
「……いや……美味い。これは、本当にオーク肉なのか?」
「ええ。状態の良い肉でしたからね。血抜きと筋引きをきっちりやれば、ちゃんと美味しくなるんですよ」
「血抜きと筋引き……それだけで、この特有の臭みと固さが消えるというのか?」
「ええ、まあ。料理人なら誰でもやってることですよ」
俺が答えると、男は黙々と肉を口へ運び、あっという間に皿を空にした。
「……見事な手腕だ。素材が良いだけではこうはならん」
男はナプキンで口元を拭うと、厨房へ視線を送ってきた。さっきから、妙に俺の手元を見ている気がする。男の視線は、調理台の上に置いてある一本の三徳包丁に注がれていた。
「……店主。その包丁を、少し見せてもらえるか?」
「これですか? ええ、どうぞ」
俺は水気を拭き取った包丁の柄を相手に向けて手渡した。うちの店に来る客が包丁を気にするのは、これまでにも何度かあったことだ。珍しいことでもない。
男は包丁を受け取ると、柄を握り直した。
そのまま黙り込む。刃の角度を変えたり、光にかざしたりしながら、宝石でも眺めるような眼差しで包丁を見つめている。
(……なんだ? ずいぶん念入りに調べるな)
やがて男は「ふーむ」と大きく頷くと俺の顔を見た。
「……これは、誰が作った?」
「俺ですが」
「君が?」
「ええ。包丁職人ですから。自分で使うものくらい、自分で作りますよ」
俺が答えると、男は顎をかき始めた。
やがて、男の手が止まったかと思うと、かッと目を見開いた。
「店主。この包丁、私に売ってくれないか?」
「え?」
「金なら、もっと出そう。倍でも構わん。……いや、厨房にある包丁を、全部買い取りたい」
三徳包丁だけでなく、調理台の奥にある出刃や柳刃まで指差して言ってくる。
一本くらいなら後で打ち直せばいいが、全部となると話は別だ。俺は心底困って頭をかいた。
「いや……それは無理ですね」
「なぜだ。提示された額に不満があるなら——」
「閣下、お控えを」
熱を帯びかけた男の言葉を、後ろに控えていた従者が冷ますように制した。俺はそのやり取りを横目に、肩をすくめた。
「そういう問題じゃなくてですね。これがないと、明日からの料理ができないので」
「…………」
男は左手で眉間を抑えながら天井を見つめ、何度も包丁を握りなおした後、ふっとため息をつく。
俺は男の手から包丁を受け取ると、布巾で丁寧に拭き、いつもの場所へ戻した。全部売ってしまったら、仕込みも調理もできなくなってしまう。客に飯を出すための仕事道具なのだから、断るのは当然だ。
男はしばらく包丁を見つめていたが、やがて苦笑を漏らした。
「……そうか。無理を言ったな。無礼を詫びよう」
「いえ、こちらこそすみません」
男はテーブルの上に多めの代金を置くと、店を後にした。
「ありがとうございました。またどうぞ」
いつも通りの挨拶で見送り、暖簾が揺れるのを見届けた後、俺はふぅと息を吐いた。
「変わった客だったな」
気を取り直して砥石に水を注ぎ、包丁の刃を滑らせる。
「さて、明日の仕込みの準備でもするか」
いつもの昼下がりに戻った店内で、俺は手元の作業に集中していた。
その日の夕方。
いつものように店内の片付けをしていると、店の外から慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。




