第87話 押し付けただけだ
町を出る朝、水場に白い法衣が立っていた。
南で会った男だ。同じ顔だった。
「歩くのが速いな」
「仕事だ」
俺は、水を汲んだ。
「今度は、何をした」
「何もしていない」
「そうだろうな」
男は、水場の縁に腰を下ろした。
「あの紙は、読んだ」
「どれだ」
「名前の入っている方だ」
男は、そう言った。
「あれは、こちらでは扱えん」
「なぜ」
「規則にならん」
「神殿は、規則で動く」
「困るのか」
「困らん」
即答だった。
「一人は、広がらん」
「広がらなければ、放っておくのか」
「放っておく」
「死ぬ者は、減らんぞ」
「減らん」
男は、そう言った。
「我々の数え方では、増えてもいない」
前にも、聞いた。同じ言葉だ。
同じ言葉で、今度は名前がついている。
「触るな、は消えないぞ」
俺は、言った。
「消えん」
「南は、そのままだ」
「そのままだ」
男は、頷いた。
「あの街の紙は、剥がさん」
「剥がす理由がないからな」
「ない」
水が、袋に落ちる音がしていた。
「一つ、聞かせてくれ」
男が、言った。
「聞く」
「君は、今度は何をしたと思っている」
俺は、口を締めた。
最初のときは、考えた。
この前は、即答した。
今度は――
「押し付けた」
「押し付けた、だな」
「……ああ」
男は、笑わなかった。
「自分の紙の後始末を、あの男にやらせた」
「そうだ」
「名前まで、出させた」
「出させた」
「君は、出さない」
「出さない」
俺は、水袋の口を締めた。
「出せば、また同じことになる」
「なるだろうな」
男は、立ち上がった。
「四度目が、来る」
「来るだろうな」
「そのときは」
白い法衣が、道の方を向いた。
「君では、ないかもしれん」
俺は、答えなかった。
いなくても、誰かがいる。前に、そう思った。
今度は、その誰かに名前がある。
名前がある方が、たぶん、続かない。
続かないが、残る。
名前は、残る。
残った名前は、責められる。
責められている限り、教義にはならない。
「達者でな」
男は、背を向けて歩き出した。
俺は、水袋を担ぎ直した。
思ったより、軽かった。
名前がある方が、たぶん続かない。続かないが、残る。
残った名前は、責められる。責められている限り、教義にはならない——第三部の答えです。
次回、道を下ります。紙も、そのうち届きます。




