第86話 読めない指先
その間に、一人だけ触った。
男が、書いている最中だった。
運ばれてきたのは、若い男だ。石を運ぶ仕事だと言った。
腰から下が、動かないと言う。落ちてきた石が、掠めたそうだ。
当たっては、いない。当たっていないのに、動かない。
そういうことが、ある。
驚いた身体は、閉じる。閉じたまま、戻らないこともある。
男は、筆を置いて立ち上がった。俺が、先に膝をついた。
男が、俺を見た。
俺は、頷いた。
見ていろ、という意味ではない。自分の分は自分で決めろ、という意味だ。
男は、反対側に膝をついた。二人で、同じ身体を診た。
腰に、手を当てる。
硬い。
どこが硬いのか。
右か、左か。
上か、下か。
指を、沈める。
抵抗が、返ってくる。
返ってくる、はずだ。
――返ってこなかった。
いや、返っている。
返っているのが、遠い。
厚い布の上から、触っているような。
(……)
俺は、指を止めた。止めて、待った。
待てば、分かるはずだった。いつもなら、待つ前に分かる。
一つ、数えた。
二つ、数えた。
三つ目で、輪郭が来た。
(……遅い)
昔、そう言ったことがある。冷たいんじゃない、遅いだけだ。
あれは、他人の身体の話だった。
指は、減るものだと思っていなかった。
目が悪くなるのは、聞く。耳が遠くなるのも、聞く。
指の話は、誰からも聞いたことがない。誰も、これで食っていないからだ。
あと何年もつのかは、分からない。数える気も、ない。
「右の、下です」
男が、言った。俺より、先だった。
俺は、手を離した。
「押せ」
男が、押した。
順番は、合っていた。深さも、合っていた。
若い男の足が、動いた。それで、終わりだ。
「見えましたか」
男が、聞いた。
「見えた」
嘘では、ない。見えたのは、本当だ。
遅かったことを、言わなかっただけだ。
俺は、立ち上がった。
指先を、握って、開いた。開いて、握った。
何度か、そうした。
誰も、見ていなかった。男は、次の患者の記録を書いていた。
俺は、外に出た。日が、傾いていた。
息を吐く。
吐く方を、長く。
次の街のことを、考えた。
三つ数えて、やっと輪郭が来ました。
この場面は、いつ回収するかを決めずに置いています。
主人公は数える気がないと言っていますが、書いている側は数えています。
次回、町を出る朝の水場に、白い法衣が立っています。
指先の一行に気づかれた方は、評価をお願いします。




