第85話 写しても効かない
半月ほど、町にいた。
男は、書いた。
速くはない。一日に、一人分だ。
書けない日も、あった。書けない日は、書かなかった。
俺は、寝台の縁に座って、それを見ていた。
最初の一枚を、読んだ。
――私は、この人の腹に手を当てました。
――硬さが、右の下にありました。
――押せば戻ると、思いました。
――押しました。
――戻りました。
――なぜそう思ったかは、うまく書けません。
最後の一行に、消した跡があった。
消して、また書いたのだろう。消しきれて、いなかった。
「消さなくていい」
俺は、そう言った。
「うまく書けない、が、いちばん要るところだ」
「そうでしょうか」
「書けないものを、書けないと書いた」
「それだけは、間違っていない」
男は、消した跡を指でなぞった。
紙は、写された。誰かが写して、持っていった。
止めなかった。止める規則も、作らなかった。
十日ほどして、写しが戻ってきた。戻ってきた写しは、そのままだった。
一行に、痩せていない。痩せようが、なかった。
私は、で始まる紙は、私以外には使えない。
真似ようとした者が、いたらしい。やってみて、分からなくて、やめたそうだ。
やめて、こう言ったと聞いた。
「あれは、あの人の話だ」
それで、いい。
それが、いい。
だが――
男は、責められた。名前が、入っているからだ。
戻らなかった患者の家族が、来た。紙に、書いてあった。
押しました。戻りませんでした。私は、見誤りました。
息子が、その紙を持って立っていた。
「認めるんだな」
「認めます」
「じゃあ、あんたが殺したんだな」
男は、答えなかった。答えずに、座っていた。座って、聞いていた。
息子は、一刻ほど喋った。喋って、泣いて、帰った。
紙は、置いていった。
男は、それを拾って、束に戻した。捨てなかった。
「効きますね」
男は、そう言った。
「何が」
「名前です」
笑っては、いなかった。
俺は、何も言わなかった。言えることが、なかった。
この男は、俺が書かなかったものを書いて、俺が受けなかったものを、受けている。
俺は、後ろに立っているだけだ。
息を吐く。
吐く方を、長く。
男は、次の一枚を書き始めた。
消しきれていない一行を、消さなくていいと言わせました。
うまく書けない、と書いてあることが、この紙のいちばん大事な部分です。
次回、書いている最中に、一人だけ触ります。




