第84話 書けるのは、お前だ
朝、治療所へ行った。
男は、床を掃いていた。俺の顔を見て、箒を止めた。
「返事を、聞かせてください」
「いない」
俺は、そう言った。
男は、目を閉じた。閉じて、頷いた。
「分かりました」
「まだ、終わってない」
俺は、寝台の縁に腰を下ろした。
「書け」
「……何を、ですか」
「お前が、どう決めたかを書け」
男は、俺を見た。
「事例は、書くな」
俺は、言った。
「あの紙と同じものを、書くな」
「あの紙は、事例です」
「事例だ」
「手順と、結果しか書いていない」
「だから、誰にでも読める」
「誰にでも読めるから、一行になった」
男は、箒を壁に立てかけた。
「では、何を」
「お前が見たものを書け」
「腹がどうだった」
「脈がどうだった」
「それで、お前が何を思って、どっちに決めたか」
「戻せると思ったか、思わなかったか」
「間違えたなら、間違えたと書け」
男は、黙っていた。
「それは」
しばらくして、言った。
「読んでも、真似ができません」
「できない」
「役に、立ちません」
「立たない」
俺は、頷いた。
「立たないものを、書け」
「誰のために、ですか」
「お前のためだ」
俺は、言った。
「書けば、次に迷ったときに読める」
「他人には、読めん」
男は、床を見ていた。
「それから」
俺は、言った。
「名前を、入れろ」
顔が、上がった。
「私の、名前を」
「お前のだ」
「……なぜ」
「俺の紙には、名前がなかった」
俺は、そう言った。
「誰の名前もない紙は、誰のものにでもなる」
「だから、壁になった」
「壁は、迷わない」
男の指が、動いた。自分で言った言葉だ。
「名前が入っていれば」
「読んだ人は、お前の顔を見る」
「顔は、迷う」
「迷う紙は、規則になりません」
「ならない」
「連盟も、使えません」
「使えん」
男は、長いこと黙っていた。
「責められます」
やがて、そう言った。
「責められる」
「戻らなかった人の家族が、来ます」
「来る」
「私は、何と言えばいいんですか」
「言うな」
俺は、立ち上がった。
「聞け」
男は、俺を見ていた。
「それが、名前を入れるということだ」
男は、掃きかけの床に膝をついていた。
「名前を入れろ」は、主人公がこの物語で唯一、他人に強いたことです。
自分は名乗らないまま、そうさせています。
なぜ名前なのかは、本文で言い切らせました。
その代わり、それが誰の得になるのかは書いていません。
次回、書かれた紙が、写されて出ていきます。
名前を入れる側の重さが伝わりましたら、ブックマークをどうぞ。




