第83話 ここにいてください
朝、あの男が宿に来た。
俺は、荷をまとめていた。
男は、それを見た。見て、何も言わずに土間に立っていた。
「出るのか、と聞かないんだな」
「聞けば、答えが出ますから」
俺は、紐を締めた。
「昨日、並んでいた人たちは」
男が、言った。
「今朝も、来ています」
「治療所にか」
「宿の前にです」
俺は、手を止めた。
「あなたを、待っています」
「待たせておけ」
「待ちます」
男は、そう言った。
「あなたが出ていくまで、待ちます」
「出ていけば」
「私のところに来ます」
「来るなら、いい」
「来ません」
男は、首を振った。
「触るな、と言いながら来ます」
「触らずに治せ、と」
俺は、荷を背負った。
男は、道を塞がなかった。塞がずに、頭を下げた。
「お願いがあります」
「教えない」
「教えてくださいとは、言いません」
男は、下げたまま言った。
「ここに、いてください」
俺は、動けなかった。
「いてくれれば、聞けます」
「迷ったときに、聞けます」
「一度でいい」
「一度あなたが頷けば、私は決められます」
俺は、土間を見ていた。
「それは」
俺は、言った。
「俺が、決めることになる」
「なります」
「分かってるのか」
「分かっています」
男は、顔を上げた。
「分かっていて、お願いしています」
目が、赤かった。
「私は、間違えました」
「あの人を、戻せませんでした」
「私が決めて、私が間違えました」
「それでいい、と言われました」
「言った」
「言われても、続きません」
男は、そう言った。
「毎回、迷って、毎回、決めて、間違えて」
「その次も、また決めるんです」
「無理です」
「無理だ」
俺は、頷いた。
「無理なことを、やってる」
「あなたは、やってきた」
「一人でな」
「私も、一人です」
その通りだった。違いは、一つしかない。
この男には、俺がいる。俺には、誰もいなかった。
だから、続いたとも言える。誰にも聞けないから、誰のせいにもできなかった。
いれば、聞く。
聞けば、俺が決める。
俺が決めれば、俺が正解になる。
三度目が、ここで始まる。
俺は、荷を降ろした。降ろして、土間に座った。
「一晩、考える」
男は、頭を下げて出ていった。
息を吐く。
吐く方を、長く。
窓の外が、明るくなるまで座っていた。
聞けば、俺が決める。俺が決めれば、俺が正解になる。
三度目が、ここで始まります。
次回、朝いちばんに治療所へ行きます。




