第77話 来ない患者
北の町に入った。
覚えのある道だ。
治療所は、そのままあった。
戸が、開いていた。
中を、見た。
寝台が、二つ。
増えても、減ってもいない。
どちらも、空だった。
男が、床を掃いていた。
白い法衣は、着ていない。
神殿を出てから、一度も着ていないのだろう。
俺に気づいて、手を止めた。
「……戻られましたか」
「通りかかった」
「通り道では、ありません」
男は、そう言った。
俺は、答えなかった。
男は、箒を壁に立てかけた。
壁には、何も書かれていない。
削った跡が、まだ白い。
「あの人は」
俺は、聞いた。
男は、すぐに分かったらしい。
「戻りませんでした」
「そうか」
「朝まで、待ちました」
「待ったか」
「はい」
男は、頷いた。
「光を入れて、待って、戻りませんでした」
言い訳を、しなかった。
当てすぎてはいなかった、とも言わなかった。
俺が見ていたことは、二人とも知っている。
「家族は」
「怒っています」
「今も」
「今もです」
男は、寝台の縁を撫でた。
「あの日から、人が来ません」
「来ないのか」
「来ます」
男は、少し言い直した。
「来て、戸口で止まります」
「止まる」
「入って、こう言われます」
男は、自分の胸の前で掌を合わせた。
「触らないでください、と」
「言うのは、誰だ」
「本人です」
男は、言った。
「連れてきた家族では、ありません」
「運ばれてきた人が、自分で言います」
俺は、寝台を見た。
二つとも、空だ。
「光だけなら、当ててよいと言われます」
「当てるのか」
「当てます」
「触らないのか」
「触ります」
即答だった。
「触って、それから、当てます」
「言われるぞ」
「言われます」
男は、箒を取った。
「毎回、言われます」
「やめないのか」
「やめません」
「なぜ」
「触らないと、分かりませんから」
毎回、迷うことになるぞ。
いつか、俺がそう言った。
迷う相手が、いなくなるとは言わなかった。
男は、床を掃き始めた。
掃くほど、汚れていない。
やることが、それしかないからだ。
俺は、戸口に立っていた。
息を吐く。
吐く方を、長く。
箒の音は、止まらなかった。
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