第63話 名乗れば止まる
その晩は、何もしなかった。
宿の板間に、荷を担いだまま座っていた。
降ろせばいいのに、降ろさなかった。
降ろすと、留まることになる気がした。
一言でいい。
俺が元の者だと言えば、それで済む。
言えば、あの男は信じる。
あの男は、俺の書かせた紙で立ち直っている。
信じたら、書き直す。
三のところを、直す。
あの部屋は、たぶん、良くなる。
死ぬ人間は、減る。
それは、ほぼ確かだ。
問題は、そのあとだ。
直した帳面には、直した理由が要る。
誰が言ったのか。
なぜ、その言い方が正しいのか。
答えは、一つしかない。
元の者が、そう言ったからだ。
その日から、俺は根拠になる。
根拠になったものは、確かめられない。
次の町で誰かが迷ったとき、
その人間が見るのは、目の前の相手じゃない。
俺の言葉だ。
俺は、そこにいない。
いない人間の言葉で、
いる人間が死ぬ。
(……同じだ)
祝福と、同じだ。
神殿は、悪意で人を壊したわけじゃない。
正しいとされたものを、疑わずに配っただけだ。
疑わなくていい、というのが、いちばん楽だからだ。
俺が名乗れば、
俺の言葉が、次の祝福になる。
板間が、冷えてきた。
荷が、肩に食い込んでいる。
(……降ろせ)
自分に言った。
降ろさなかった。
昔、村の英雄に、今日はもう戦うなと言った。
言えたのは、俺があの男を見ていたからだ。
同じ場所にいて、顔色を見て、息を見て、それから言った。
今、俺が言おうとしていることは、それとは違う。
見ていない人間のことまで、まとめて言おうとしている。
まとめて言えるほど、俺は自分を信じていない。
窓の外が、少し明るくなった。
結局、一晩、そうしていた。
答えは出なかった。
出ないまま、朝になった。
荷を、担ぎ直した。
降ろさないままだったので、担ぎ直す必要もなかった。
外に出ると、中庭に光が入っていた。
部屋には、まだ五人いる。
息を吐く。
吐く方を、長く。
吐き終える前に、決めていた。
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