第59話 見分けられない
男は、朝まで帰らなかった。
机の前に座ったまま、自分の帳面を見ていた。
夜が明ける前に、こう言った。
「一つだけ、教えてください」
「教えない」
「教えてほしいのではありません」
男は、顔を上げた。
「確かめたいだけです」
俺は、黙って続きを待った。
「あなたは、見れば分かると言った」
「言った」
「では、私が見れば」
俺は、首を横に振った。
振ってしまってから、後悔した。
もっと、言い方があった。
「分からないと」
「そうは言ってない」
「同じことです」
男の声は、静かだった。
怒鳴られた方が、まだ楽だった。
「私は、七年、人を見ました」
「知ってる」
「見て、正常だと書きました」
男は、両手を膝の上で組んだ。
「見えていなかったんです」
「毎日見て、毎日、見えていなかった」
俺は、何も言えなかった。
「だから、順番にしました」
そこで、声が少し強くなった。
「順番なら、見えなくてもできる」
「私みたいな者でも、できる」
――ああ。
そういうことか。
この男は、自分を信じていない。
自分の目が節穴だったと知っている。
知っているから、目に頼らない形にした。
誠実だ。
誠実であることが、そのまま毒になっていた。
「見分けられる人間だけが、やればいい」
男は言った。
「そう言うなら、それは」
「あなた一人の技です」
「そうだ」
「一人では、間に合いません」
その通りだった。
俺は、一人だ。
一人で歩いて、目の前の人間しか触れない。
だが――
この町の三人は、俺なら救えなかった。
俺は、この町にいなかったからだ。
「私は、間に合わせたかった」
窓が、白み始めていた。
「間に合わせるには、教えるしかない」
「教えるには、教えられる形にするしかない」
男は、そこで初めて、俺を正面から見た。
「あなたのやり方は、正しい」
「正しいが、広がらない」
「知ってる」
「広がらないものは」
息を吸って、言った。
「救えないのと、同じです」
俺は、返す言葉を探した。
探して、見つからなかった。
昔、ルドが同じことを言った。
君のやり方は、広まらない。
だが――消えもしない。
消えなかった。
消えないまま、形を変えて、人を殺している。
俺は、立ち上がった。
「今日は、ここまでにしよう」
昔、俺が患者に言っていた言葉だ。
言ってから、気づいた。
窓は、もう白かった。
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