第58話 戻れる状態にする
その晩、あの男が宿に来た。
酒は持ってこなかった。
この男は、そういうところが律儀だ。
「聞きたいことがあります」
「聞くな、とは言えないな」
男は、帳面を出した。
ルドのものではない。自分で作ったものだ。
手順が、番号を振って並んでいた。
一、触れる。
二、押す。
三、待つ。
俺は、そこまで読んで、指を止めた。
「これは」
「教える順です」
「三のところ」
俺は、紙を指した。
「なんて書いてある」
「戻るまで、待つ」
即答だった。
迷いがなかった。
この男は、それを一度も疑ったことがない。
「俺は、そうは言っていない」
男の顔が、動いた。
「……と、言いますと」
「戻れる状態にする、だ」
部屋の音が、落ちた。
外で、犬が鳴いた。
「同じ、では」
男が、そう言った。
責めるつもりはなかった。
この男は、本当に、同じだと思っている。
「違う」
俺は、湯呑みを二つ、机に置いた。
片方に、湯を注いだ。
「戻るまで待つ、は」
湯呑みを指した。
「相手が戻るかどうかを、時間に任せてる」
「はい」
「戻れる状態にする、は」
俺は、もう片方の、空の湯呑みを指した。
「戻れないやつがいる、という前提から始まる」
男は、動かなかった。
「待てば戻るやつは、待てば戻る」
「問題は、待っても戻らないやつだ」
「……その者には」
「光を入れる」
言った。
言ってしまった。
「あるいは、何もしない」
「終わってるなら、触らない」
「終わっている、というのは」
「見れば分かる」
俺は、そこで口を閉じた。
見れば分かる。
俺は、それを説明できない。
説明できないものを、この男は、書き写せない。
だから、削られた。
削られたのは、三のところだけだ。
一と二は、正確に残っている。
いちばん大事なところが、いちばん軽く見えた。
だから、落ちた。
「あなたの言い方だと」
男の声が、少し掠れていた。
「私は」
「順番を、教えてる」
「……順番では、駄目なのですか」
俺は、答えられなかった。
順番は、教えられる。
判断は、教えられない。
教えられるものだけを集めたら、
教えられないものが、抜け落ちた。
抜け落ちた場所に、人が落ちる。
俺は、湯を飲んだ。
冷めていた。
息を吐く。
吐く方を、長く。
男は、帳面を閉じなかった。
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