第56話 祝福は正常です
北の町は、思ったより大きかった。
治療所も、大きかった。
待つための部屋が、三つある。
俺は、名乗らずに中庭で待った。
ルドが取り次いだわけではない。
俺が来たことは、たぶん誰も知らない。
だが、その男は、中庭に出てきた。
白い法衣ではなかった。
染めていない、粗い上着だった。
俺を見て、足を止めた。
止まったまま、動かなかった。
「……あなたでしたか」
俺は、その顔を知らなかった。
知らないはずだった。
「どこかで」
「一度だけ」
男は、そう言った。
「広場です」
広場。
英雄候補生が並んで、順に祝福を流されていた場所だ。
「列の外に、立っておられた」
思い出した。
人垣の外から、俺は見ていた。
治療官の一人と、目が合った。
それだけだ。
言葉も交わしていない。
「あのとき」
男は、両手を軽く合わせた。
昔の癖なのだろう。
胸元に、もう聖紋はない。
「私は、報告書にこう書きました」
息を吸って、言った。
「本日の治療、異常なし」
「英雄候補生、全員行軍可能」
俺は、黙っていた。
「祝福は正常です、と」
「私は、七年、そう書き続けました」
「……そうか」
「あの日から、書けなくなりました」
中庭に、風が入った。
洗った布が、物干しで鳴っている。
「戻っていない、と思ったんです」
男は、そう言った。
「動いている。数値も出ている」
「なのに、戻っていない」
「それを、上に」
「言えませんでした」
「言えば、七年が嘘になる」
俺は、その気持ちが分かってしまった。
分かってしまったことに、少し腹が立った。
「神殿は」
「出ました」
男は、あっさり言った。
「追い出されたのではありません」
「自分で、出ました」
俺と、同じだ。
この男も、選んで出ている。
「その後、あの紙を」
「読みました」
男は、初めて笑った。
嬉しそうだった。
本当に、嬉しそうだった。
「救われました」
「私が七年、間違えていた理由が、書いてありました」
俺は、何も言えなかった。
この男は、俺の書かせたもので、立ち直っている。
立ち直って、それを配っている。
「申し遅れました」
男は、頭を下げた。
「エルディアと申します」
名乗られてしまった。
名乗られると、断りにくくなる。
それを知っていて名乗ったわけではないだろう。
この男は、そういう手を使う人間ではない。
だから、余計に困った。
「あなたの名は」
「……通りすがりだ」
エルディアは、少しだけ寂しそうに笑って、
それ以上は聞かなかった。
物干しの布が、鳴っていた。
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