第55話 書いた者の顔
川を渡った先の町で、俺は呼び止められた。
「やはり」
革表紙の帳面を抱えた男が、通りの向かいに立っていた。
学者風の外套は、前より草臥れている。
髪に、白いものが混じっていた。
「ルド」
「久しいな」
俺たちは、川沿いの茶屋に入った。
あの男は、こういうとき、余計なことを言わない。
注文して、帳面を開いて、それから顔を上げた。
「探していた」
「俺をか」
「いや」
帳面から、紙が押し出された。
俺が古物屋で見たものと、同じ書き出しだった。
「これで、七枚目だ」
「燃やされなかったんだな」
「都市連盟が、預かった」
ルドは、湯を一口飲んだ。
「危険な事例集として、だ」
保管は厳重だったという。
だが、写す者がいた。
写した者を罰する規則が、なかった。
「誰も、そんなものが要ると思わなかったからだ」
俺は、天井を見た。
「私は」
ルドが、珍しく言い淀んだ。
「正確に書いた」
「知ってる」
「一語も、足していない」
「知ってる」
「では、なぜこうなった」
俺は、答えを持っていなかった。
持っていないまま、少し考えた。
「正確に書いたからだろう」
ルドの顔が、動いた。
怒ったのかと思った。
違った。
あの男は、ずっと前からそれを考えていた顔をしていた。
「……そうだ」
ルドは、帳面を閉じた。
「正確に書けば、正確に伝わると思っていた」
「思うだろうな」
「思っていた」
しばらく、川の音だけがしていた。
「私は、これを何冊書いた」
誰にも聞いていない言い方だった。
「あんたは、俺の失敗も書いた」
「書いた」
「あれは、写されなかったのか」
「写されていない」
川の音が、戻ってきた。
人は、写したいものだけを写す。
効いた話は写す。
効かなかった話は、紙が惜しい。
俺が触って死なせた男の話は、
どの写しにも、入っていなかった。
「責めないのか」
ルドが言った。
俺は、少し驚いた。
「何を」
「私を、だ」
この男は、俺が名前を出すなと言ったから書かなかった。
断片だけ残せと言ったから、断片だけ残した。
全部、俺が言ったことだ。
「責めたら」
俺は、言った。
「あんたが、間違った人になる」
「……」
「そうなると、次に書く奴がいなくなる」
ルドは、しばらく黙っていた。
それから、また帳面を開いた。
「今、書いてもいいか」
「好きにしろ」
「名前は」
「要らない」
筆が、紙を擦る音がする。
この音が、どこかで一語ずつ形を変えていく。
それでも、書く者がいなくなるよりはましだ。
それでいい。
「北で、教えている者がいる」
やがて、ルドが言った。
「知っている」
「会うのか」
俺は、すぐには答えなかった。
この町から、川沿いに少し下れば、門番をしている男がいる。
寄れば、半日だ。
寄らなかった。
あの男は、俺が渡したもので、今も立っている。
渡したものがこんな形になっていると知って、
それでも同じ顔ができる自信が、なかった。
「……北へ行く」
俺は、そう言った。
息を吐く。
吐く方を、長く。
ルドは、もう歩き出していた。
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