12.青リンゴの香りと近づく影
セリカは化粧室にいた。
水が貴重な宇宙では入浴ができない。彼女は体臭を気にして、エチケットシートで軽く体を拭き、手首と首筋に香水をつける。
(ふふ……神谷さん、気づいてくれるかしら。できる女はこういう事にも気を配らないとね)
そして、お気に入りの歯磨きガムを口に放り込んだ。
月をはじめとする水が貴重なこの空間では、歯磨きに使用する水すら貴重だ。その為多くの人々は歯磨き成分入りのガムで歯磨きを済ませる事が習慣化している。やや空腹を満たせるこのアイテムは、朝食を抜く人々にも人気なアイテムだ。
ミントをはじめ、色々な味があるのだが、バニラやプリン、チョコレート味──そんな味が歯磨きになるのか疑問である。セリカは青リンゴ味が好きだった。
(きっと、神谷さんも口臭気にするわよね……そうだ!)
セリカは、つけた香水をさりげなくアピールするポーズを、鏡に映った自分を相手に研究するのだった……
ところ変わってこちらは船室。
左手に伝わる微かな振動で、神谷は目を覚ました。
ウェアブル端末が震えている。メッセージだ。
画面に浮かんだ名前は――アレックス。
《共有フロアまで来て欲しい》
(こんな時間に?)
時刻を確認すると、9:00を過ぎていた。こんな時間どころか、起床には少々遅い時間だ。
船内には僅かにオルディウム反応炉の燃焼音が聞こえる。重低音が体を揺らす感覚だ。
このフロアは最上階に位置し、船室クラスは最上位だ。
とはいえ、フロンティアスピリッツ号は中型クルーザー級の輸送船型客船。客船レベルで言えばビジネスクラスに過ぎない。
隣席にセリカの姿が無い事に気づく神谷。化粧室だろうと予想する。このフロアには神谷達3人以外の乗客はいない。 今、このフロアにいるのは神谷だけだった。
ポッドをシート状態に戻し、大きく伸びをする。
自分の肌に刺さる伸びた髭の感触に、神谷は顎をさする。鏡で確認するまでもなく髭が伸びていた。研究職の神谷は調査に没頭するあまり徹夜は日常茶飯事だ。無精髭など気にしないが、とりあえず手櫛で髪を整える。
その時、セリカが化粧室のドアを開き現れた。
「おはようございます。アレックスさんからメッセージ見ました? 行きましょうか?」
瑞々しい青リンゴの香りが乾いたフロアに広がる。
(入浴できないために香水をつけ直したのだろうか?)
神谷は思わず呟いた。
「……いい香りだ」
セリカは、狙い通りの効果に笑みを浮かべると、控えめな胸を張り、右足を前に半身になり脇をきゅっと締めた。そして、『こちらを……どうぞ』と、先程研究した香りを振りまくポーズで、追い打ちをかけるべく、歯磨きガムを差し出した。
神谷は僅かに頬を緩め、ガムを口に放り込むとエレベータに乗り込んだ。
(あぁ…この香りか……)
「ちょっと暑いかも……」
セリカは小声でつぶやくと、手うちわで首筋をパタパタと仰いでいる。
彼女は、香水の香りがガムに打ち消されている事に、全く気づいていなかった。
密閉された空間に漂う消毒臭と金属臭。そこに青リンゴの香りがわずかに広がる。
(なるほど、この空間であくびをしたら口臭が気になるな……)
神谷はそんなことを考えながら、共有フロアに降り立った。
オルディウム反応炉搭載型宇宙船は、継続して1Gを発生する加速を生む事ができるため、移動中の利便性を考え、階層構造の客室が特徴だ。対して、核融合プラズマ推進機関搭載型は、最大でも0.6G程度で継続加速ができず、燃料効率からある程度加速すると慣性航行に入る。なので、フロアは横長── 旅客機の様な一般フロアが特徴だ。
共有フロアは静かだった。
五層の客室の中央──三階に位置する広い空間。簡易食堂を兼ねており自動販売機が何台か並んでいるが、朝食時間を過ぎており人気はない。
壁面には観葉植物のホログラムが揺れ、人工の朝光が床に淡い影を落としている。
アレックスは端のテーブルに座り、ピアニストのように指を動かしていた。2人はすぐに仮想端末を操作している事に気づく。 眉間には深い皺。その様子が張り詰めた空気を感じさせる。
「おはようございます」
セリカが声をかけると、アレックスは目だけで返事をした。
指は止まらない。何か良くないことが起きていると感じさせる。
やがて、彼は顔を上げた。
「早くからすまない。面倒なことが起きた。今話しておいた方がいい」
低い声。周囲を目で確認し、さらに声を落とす。
「出港直前、もめ事があったのを覚えてるか?」
セリカは首を傾げる。
「……あったんだ。その後、二隻の船がこの船を追うようにクウロンから出港した」
神谷の胸に冷たいものが落ちた。
「軍の船か?」
「多分な。だが、第五世代型核融合炉搭載艦では、この船に追いつける筈がない。こちらはオルディウム反応炉だ。速度差は40倍以上。そんな事に気づかない連中ではないと思うが、案の定、地球スイングバイに切り替えた」
アレックスは一息つき、さらに声を絞った。
「最初に言っておく、大きな声を上げず聞いてくれ。 ……今朝、トアの最下層でこの船の正規航海主任が、拘束された状態で発見されたと定期連絡で話が出た」
神谷の心臓が跳ねあがる。
「なんだって!? それって……」
大きな声を上げかけた二人を、アレックスが手で制する。
「静かに。そうだ。今この船にいる航海主任は……偽物だ」
二人は空気が凍りついたかのように感じた。
アレックスは神谷を見据える。
「そして、奴らの目的は間違いなく……お前だ、神谷。あれが関係している」
土曜日夕方更新します。




