第九十九話 飢えた王国で、最後に戦った相手は忘却だった
春。
王都アルディアで、若き国王の即位式が行われた。
アルベルト三世の後を継いだ新王は、父の食料政策を引き継ぐと宣言した。
しかし、十年前の飢餓戦争を知らない世代が増えていた。
市場にはパンが並び、冬には備蓄がある。
それが当たり前の風景になっていた。
ある日の会議で、若い大臣が提案した。
「備蓄制度を縮小すべきです」
エリクは顔を上げた。
「理由を聞かせてください」
「維持費が高すぎます。倉庫の管理人、麦の入れ替え、輸送費。ここ数年、大規模な飢饉はありません」
大臣は帳簿を差し出した。
「この費用を学校と道路に回せば、もっと多くの人を助けられます」
エリクはすぐには否定しなかった。
「学校も道路も必要です。だから、費用の無駄は調べましょう」
「では、削減に賛成を?」
「必要な量まで削ることには、賛成できません」
「なぜです。記録では、十年前のような飢饉は稀です」
「記録では、そうでしょう」
エリクは持ってきた古い手帳を開いた。
そこには死者の名が並んでいた。
靴職人ハルム。
マティアス。
名も知らぬ子供たち。
記せなかった名前のための空白もあった。
「私の母は、最後のパンを私たちに譲って死にました」
会議室が静まった。
「備蓄がなければ、次に干ばつが来たとき、また誰かが同じ選択をします」
大臣は唇を噛んだ。
「ですが、使わない麦のために、今の子供の教育を削るのですか」
その問いも、間違いではなかった。
新王が尋ねた。
「必要量と無駄な費用を、分けて計算できるか」
ユリウスの後任の役人が答えた。
忘却は音を立てて攻めてこない。
だからこそ、備蓄の帳簿と子供たちの授業に、あの冬の記憶を残す必要があった。
「備蓄の下限を決め、古い麦は市場へ出して新しい麦と入れ替えれば、廃棄を減らせます。倉庫の修繕も優先順位を付けられます」
「では、それを制度にしよう」と新王。
「備蓄の下限は守る。管理費は公開し、監査する。学校と道路の予算も、別に見直す」
若い大臣は頷いた。
「私の案は、無駄を減らすためのものでした」
「分かっています」とエリク。
「忘れないことは、昔のやり方を変えないことではありません」
会議のあと、エリクは学校を訪ねた。
子供たちは飢餓戦争を知らなかった。
教師が「なぜ倉庫に麦を残すのか」と尋ねると、一人の少年が答えた。
「食べるためじゃないの?」
「そうだよ」とエリクは言った。
「今食べる人のためでもあるし、まだ生まれていない人のためでもある」
彼は教科書の最初の一文を、黒板に書いた。
『戦争は、麦を増やさなかった。
麦を作る人々を減らしただけだった。
』
授業が終わると、若い大臣が校庭に来ていた。
「私は備蓄を減らしたいと言った。あなたは私を、あの冬を知らない人間だと思ったでしょう」
「思いました」とエリクは答えた。
「ですが、あなたが学校の予算を守ろうとした理由も分かります」
大臣は黒板を見た。
「子供に飢えの歴史を教えるために、子供の教室を削ってはいけない」
「ええ。だから、倉の無駄も学校の不足も、同じ帳簿に隠さず載せましょう」
二人は握手しなかった。
ただ翌月、倉庫の監査と学校の修繕を同じ日に始めると決めた。
クリスは学校で、最初の飢餓戦争の死者名簿を開いた。
子供たちは静かに耳を傾けた。
「この名前を覚えるだけでは足りないの」彼女は続けた。
「配給の数をごまかさないこと。種麦を奪わないこと。隣の村が困ったら知らせること。
そういう小さな約束が、次の戦争を止める」窓の外で、麦が風に揺れた。
数日後、若い大臣は修繕費と監査費を分けた新しい予算案を持ってきた。
「昔の人が決めたから守る、では納得できません。でも、次の飢饉で誰が死ぬかを知らないまま削ることもできない」
クリスは書類を読み、赤い筆で一か所を囲んだ。
「この村への運搬費が抜けています。ここが一番遠いんです」
大臣はその場で書き足した。
「これで来年も届くでしょうか」
「分からない。だから来年、届いたか確かめるんです」
若い書記は訂正した予算を二部作り、一部を遠い村へ送る封筒に入れた。
記憶を守る仕事は、次の予算の一行から始まった。




