第九十八話 最後の一粒の麦を、エリクは食べなかった
アルト村に、雪解けの水が流れ始めていた。
エリクは自宅の小さな木箱を開けた。
布に包まれた一粒の麦が、底に残っている。
十年前、母が死ぬ前に残した種だった。
『……種だけは、残しなさい』
飢えた夜、エリクはその意味を理解できなかった。
腹を満たせない一粒を守るより、今すぐ口に入れたかった。
だが、食べなかった。
母の最後の言葉まで失うのが怖かったからだ。
麦一袋を奪うために人を殺し、村を焼かれ、戦場を歩き、畑を守った。
王国の倉庫には今、何万袋もの麦がある。
それでも、この一粒だけは木箱の中に置いたままだった。
「お兄ちゃん、何を見てるの?」
戸口からクリスが顔を出した。
「母さんの麦だよ」
クリスはそっと近づいた。
「……まだ持ってたんだ」
「ああ」
二人は麦粒を見つめた。
小さく乾き、十年のあいだに色も褪せていた。
「いつまでしまっておくの?」
エリクは答えられなかった。
クリスが窓の外を見た。
村人たちは冬の終わりに残った枯れ草を片づけ、春の種蒔きの支度を始めている。
「蒔いてみない?」
「十年前の種だ。芽は出ないかもしれない」
「それでもいいよ。お母さん、種は残しなさいって言ったんでしょ」
エリクは麦を掌に載せ、母の手を思い出した。
痩せて、冷たくなりかけた指が、それでも一粒を離さなかった。
窓の向こうでは、村人たちが次の種を運んでいた。
「……そうだな」
二人は家の裏の小さな畑へ出た。
陽の当たる場所を選び、エリクは指で浅い穴を掘った。
「母さん、見ていてくれ」
一粒を穴に落とし、土をかぶせた。
クリスが水差しを傾けると、土の色がゆっくり濃くなった。
「芽が出なかったら、どうする?」
クリスが尋ねた。
「そのときは、ここに何も生えないだけだよ」
口にしてみると、エリクは自分が以前なら決して言えなかった言葉だと気づいた。
かつて一粒の不作は、誰かの死を意味した。
今は失敗した畝の隣にも、次の種を蒔く人がいる。
エリクは濡れた土に手を置いた。
「母さん、ここなら春が来るよ」
クリスは小さな土の盛り上がりを見つめた。
「芽が出なくても、またここへ来ようね」
「ああ」
二人は並んで立った。
風が吹き、遠くの畑から農民たちの声が聞こえてきた。
エリクは空になった木箱を閉じた。
そこにはもう、一粒も残っていなかった。
畑の向こうでは、次の春の種を運ぶ荷車が、いつもの道を通っていった。




