第九十七話 老いた国王は、最後に一つだけ願った
王都アルディア。
王宮の寝室。
国王アルベルト三世は、病床に伏していた。
年齢は六十代半ば。
十年前の飢餓戦争以来、王国の再建に力を注いできた。
だが、長年の疲労と病が、体を弱らせていた。
エリクが呼ばれたのは、冬の始まりだった。
「……陛下」
エリクが寝室に入ると、国王はゆっくりと目を開けた。
「……来たか、エリク」
「はい」
国王は小さく笑った。
「相変わらず、泥のついた靴を履いているのか?」
エリクは苦笑した。
「今日は、ちゃんと拭いてきました」
国王の手は細くなっていた。
かつて王冠を置いた机に、今は麦の穂が一つ飾られている。
「余は、間違えたことも多かった」
エリクは否定しなかった。
あの冬に失った人々の名を、二人とも覚えていた。
それでも王は最後まで、明日食べる者のことを尋ねた。
「……そうか」
国王は静かに笑った。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、国王が口を開いた。
「……十年前のことを覚えているか?」
エリクは頷いた。
「はい」
「王都の城門の外に、五万人の難民が集まっていた」
エリクは黙った。
「私は、城門を閉じた」
国王は続けた。
「王都を守るためだと思っていた」
エリクは静かに聞いていた。
「……だが、あのとき私は、多くの民を見捨てた」
国王の声が震えた。
「今でも、夢に見る」
エリクは答えなかった。
国王は続けた。
「城門の外で、子供が泣いている」
老王は庭の小さな麦畑を見ていた。
豊作を喜ぶ声ではなく、凶作の年に誰が門を開くかを案じていた。
王の願いが届くのは、王が生きているあいだだけでは足りない。
エリクは一人の言葉を、次の世代が守れる約束に変えようとした。
「母親が、パンを求めている」
「兵士たちが、門を開けるなと叫んでいる」
国王は目を閉じた。
「……私は、王だった」
そして、静かに言った。
「だが、すべての民を救えなかった」
エリクは長い沈黙のあと、答えた。
「……私もです」
国王が目を開けた。
「……何?」
「私も、多くの人を救えませんでした」
エリクは続けた。
「母を救えませんでした」
「村を守れませんでした」
「戦争で死んだ人たちも、救えませんでした」
そして、静かに言った。
「……だから、忘れないようにしています」
国王はエリクを見つめた。
「……忘れない?」
「はい」
エリクは頷いた。
「失敗したことを忘れたら、また同じことを繰り返してしまいます」
国王は長い沈黙のあと、微笑んだ。
「……そうだな」
そして、枕元から一枚の羊皮紙を取り出した。
「……これを」
エリクが受け取る。
そこには、国王の署名があった。
『王国穀物備蓄制度は、いかなる戦時においても民の生存を最優先とする』
『種麦の強制徴発を禁ずる』
『飢饉時の食料配給は、身分によって差別してはならない』
エリクは息を呑んだ。
「……陛下」
国王は静かに言った。
「私の最後の願いだ」
「……何でしょうか?」
「……この国を、二度と飢えさせないでくれ」
エリクは深く頭を下げた。
「……はい」
国王は微笑んだ。
「……頼んだぞ」
それから数日後。
国王アルベルト三世は、静かに息を引き取った。
王都の鐘が鳴った。
エリクは、すぐには泣けなかった。
ただ、国王から受け取った羊皮紙を握りしめていた。
王の寝台のそばには、十年前の配給命令の写しが置かれていた。
赤い線で消された村名を、エリクは一つずつ読み直した。
次の王が見る記録から、その名を消してはならなかった。
そして、静かに呟いた。
「……必ず、守ります」
だが、誓いだけで麦は届かない。
エリクは書記を呼び、王の失敗した命令も含めて十年前の配給記録を保存するよう頼んだ。
次の王が同じ判断を迫られたとき、失われた命を数字の外へ追いやらないためだった。




