第九十六話 飢えた子供たちが、大人になって王国を支え始めた
アルト村の学び舎。
朝の鐘が鳴った。
子供たちが教室へ集まってくる。
机の上には、木の板と筆記具が並んでいた。
教師が黒板に文字を書いた。
『麦』
子供たちは声を揃えた。
「むぎ!」
教師は笑った。
「そうです」
そして、次の文字を書いた。
『種』
「たね!」
かつて配給の列にいた少年が、今は倉庫の帳面をつけていた。
「数字は嫌いでした」
彼は笑う。
「でも、一袋足りないと誰が困るか、今は分かります」
エリクは頷いた。
飢えた記憶が、誰かを責めるためでなく、誰かを守る仕事へ変わっていた。
「正解です」
教室の後ろでは、クリスが子供たちを見守っていた。
この学び舎には、飢饉で親を失った子供たちも通っていた。
十年前。
王国では三万人以上の孤児が確認された。
その多くは、今では成人し始めていた。
農民になった者。
職人になった者。
船頭になった者。
教師になった者。
そして、役人になった者。
その中に、一人の青年がいた。
名はノア。
二十三歳。
かつて、パン一切れを盗み、処刑されかけた少年だった。
かつて配給所で椀を差し出した子供が、今は帳簿を持って立っていた。
エリクはその手を見て、救われた者が次に誰かを救う仕組みこそ、十年の成果だと思った。
倉庫の若い記録係が、古い配給表をエリクへ差し出した。
「ここ、数字が合いません」
かつて飢えた子供だった彼は、今では大人の間違いを指摘できる。
エリクは帳簿を受け取り、誤りを訂正した。
「よく見つけた」
若者は照れくさそうに笑った。
救われた子供たちが、今度は誰かを飢えから守る側に立っていた。
学び舎の窓から、かつて飢えた子供だった若者たちが畑を眺めた。
「字を覚えたら、最初に何を書きたい?」教師が尋ねる。
若者の一人は少し考えた。
「今年の麦の量。去年より減ったら、早く知らせられるように」エリクは廊下でその声を聞いた。
守りたいのは英雄の名ではない。
危険を見つけた誰かが、声を上げられる王国だった。
かつて配給の列にいた子供が、今は倉庫の鍵を預かっていた。
「昔、ここでパンをもらいました」
エリクは頷いた。
「今度は君が、次の子に届けてほしい」
世代が変わるとは、そういうことだった。
かつて飢えた子供が、いまは誰かの食事を守っている。
エリクはその姿に、復興の成果が数字以外にもあることを見た。
ノアが配ったパンを受け取った子供が、「また明日もある?」と尋ねた。
かつて同じ問いを口にした少年は、すぐには頷けなかった。
自分の手にあるパンだけでは約束できないと知っている。
「明日も届けられるように、みんなで働いている」
そう答えると、子供はパンを半分に割り、隣の子へ渡した。
かつて配給の列にいた子供が、今は舟の荷役を指揮していた。
名を聞いたエリクは、その父親を思い出した。
今では、王都のパン屋で働いていた。
その日、ノアはアルト村を訪れていた。
「……エリクさん」
エリクが振り向いた。
「ノア!」
青年は深く頭を下げた。
「お久しぶりです」
「元気そうだな」
「はい」
ノアは小さな包みを差し出した。
「……これを」
エリクが開くと、中には焼きたてのパンが入っていた。
「……パン?」
「はい」
ノアは笑った。
「僕が焼きました」
エリクは一つ手に取った。
まだ温かかった。
「……立派になったな」
ノアは首を振った。
「まだまだです」
そして、静かに続けた。
「でも、今は自分でパンを焼けます」
エリクは頷いた。
ノアは言った。
「昔は、パンを盗むことしかできませんでした」
そして、少し笑った。
「今は、パンを作って人に渡せるんです」
エリクは何も言えなかった。
ノアは続けた。
「だから、今度は僕が誰かを助けたいんです」
かつて配給列で倒れた少年が、今では倉庫の検査役になっていた。
「なぜこの仕事を選んだ」とエリクが尋ねる。
「昔、袋の数が合わなくて、俺の妹の分がなくなったんです」
少年だった男は封印を一つずつ確かめた。
「今度は俺が数えます。誰かが数えてくれるのを待たずに」
別の村では、戦争で親を失った娘が教師になり、種麦を守った農民の息子が水路の設計を学んでいた。
エリクは気づいた。
国が変わったのは、ひとりの英雄が正しい命令を出したからではない。
生き延びた人々が、二度と同じことを繰り返さないと決め、それぞれの場所で働き続けたからだった。
その日。
ノアは学び舎の子供たちにパンを配った。
子供たちは歓声を上げた。
「パンだ!」
「ありがとう!」
ノアは笑った。
かつて、パン一切れを盗んだ少年。
その少年が、今では子供たちにパンを配っている。
エリクはその光景を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……これが、本当の復興なのかもしれないな」
かつて配給列に並んだ子供たちは、今では配給札を配る側にいた。
若い係員が古い台帳を見て言った。
「数字が合わない。去年の分が少ない」
上司は「昔のことだ」と片づけようとした。
だが係員は帳簿を閉じなかった。
「昔のことを調べられない制度なら、明日のことも任せられません」
エリクは何も言わず、若い係員が帳簿を開き直すのを見守った。




