第九十五話 十年間蓄えた麦を、国王は一日で失いかけた
王都アルディアの中央備蓄庫で、管理官が一袋の封を切った。
湿った、酸っぱい臭いが立ち上った。
「……何だ、これは」
備蓄の鍵を開ける前に、国王は記録係を呼んだ。
十年かけて集めた麦は、一人の善意で守れる量ではない。
誰がいつ何袋動かしたかを残すことが、次の飢饉を防ぐ。
指を入れると、麦は固い塊になっていた。
隣の袋も、さらに隣も同じだった。
十年間、王国は豊作の年に麦を蓄え、不作の年には古い麦から順に放出してきた。
倉庫は複数に分け、火災にも備えた。
国王アルベルト三世は、その仕組みを誇りにしていた。
ところが、倉庫の屋根から雨水が染み込み、壁際の袋が腐り始めていた。
「点検表には、異常なしとあります」
若い役人が帳簿を差し出した。
先月も、先々月も、同じ印が並んでいる。
クリスは点検表の筆跡を比べた。
雨が降った日も晴れた日も、同じ角度の丸印が続いている。
「倉庫を見ていない人が、見たことにしている」彼女の指摘で、問題は雨漏りだけでなく、点検を誰も確かめない仕組みにあると分かった。
「本当に中身を調べたのか」
管理官は答えなかった。
王宮に呼ばれたエリクは、報告書の一行を指さした。
「使用不能、数千袋。これは確定した数ですか」
「確認できた範囲だけです」
「ならば、もっと増えるかもしれません」
国王が玉座の肘掛けを握った。
「十年かけて守った麦を、我々は失ったのか」
「全部ではありません。ですが、残っている袋を数えるだけでは駄目です。食べられる麦を数えなければ」
宰相はすぐに責任者の処罰を求めた。
「処罰は必要です」とエリクは言った。
「ただし、先に調査を終わらせてください。罰を恐れて隠されれば、ほかの倉庫でも同じことが起きます」
国王は長い間、黙っていた。
「腐敗を見つけた者は、責めない。隠した者は、責任を問う。そう告示せよ」
その日の午後、エリクとカールは備蓄庫へ向かった。
濡れた袋には印をつけ、無事な袋を離れた乾いた床へ移した。
屋根の破損箇所を塞ぎ、検査が終わるまで出荷を止めた。
だが、検査は思いがけない問題を暴いた。
「帳簿より三百袋少ない倉庫があります」
若い役人の声が震えた。
「盗まれたのか?」
カールが問う。
「まだ分かりません。古い記録には鼠の被害を書く欄がなく、減った分を翌月へ繰り越した形跡があります」
エリクは帳簿を閉じた。
「腐った麦と、消えた麦は別に調べましょう。原因を混ぜると、誰も責任を取れなくなる」
カールが苦笑した。
「敵の兵糧を奪う方が、よほど簡単だったな」
「奪うなら一度で済みます。守るには毎月、確かめなきゃいけない」
数日後、全国の倉庫で抜き取り検査が始まった。
点検表には袋の外観だけでなく、内部の湿り気、害獣の痕跡、実数との差を記す欄が加わった。
二人一組で確認し、記録は村にも公開することになった。
国王は腐った麦を一握り、掌に載せた。
「袋があるだけで安心していた。十年前の私と同じだ」
「違います」とエリクは答えた。
「十年前は、間違いを隠す仕組みしかなかった。今は直せます」
国王はその麦を机に置いた。
「ならば、次の十年に残すべきものは、麦だけではないな」
倉庫の扉が開き、乾いた風が吹き込んだ。
エリクは点検表の新しい欄に、最初の印をつけた。
一週間後、検査結果が王都の掲示板に貼られた。
失われた袋数だけでなく、無事だった倉庫の数、修繕に要る費用、次の点検日まで記されていた。
「こんな数字まで公開して、民が不安になりませんか」
若い役人に、クリスは答えた。
「隠したまま食べ物がなくなる方が、ずっと怖いです」
エリクは掲示板の前に立つ人々を見た。
十年前、彼らは倉庫の扉を破ろうとしていた。
今は、記録の誤りを指さし、訂正を求めている。
腐った麦を発見した係員は、責められるのを覚悟して報告した。
エリクは報告書の冒頭に「発見に感謝する」と書いた。
その下に、傷んだ袋を隔離した日時を記入した。




