第百話 最終話 最後の一粒が芽吹かなくても
初夏。
アルト村。
エリクは、小さな畑の前に立っていた。
そこは、自宅の裏にある、わずかな土地だった。
その年の春。
彼はそこに、一粒の麦を蒔いた。
母親が残した、最後の一粒。
十年間、大切に持っていた麦だった。
だが芽は出なかった。
エリクは失敗した畝を埋め戻さなかった。
春が過ぎても。
雨が降っても。
暖かな日差しが続いても。
土の上には、何も現れなかった。
エリクは静かに畑を見つめていた。
「……駄目だったか」
そのとき、クリスがやってきた。
「お兄ちゃん」
「……クリス」
クリスは畑を見た。
そして、静かに言った。
「……芽、出なかったね」
エリクは頷いた。
「ああ」
十年前の麦。
十年も経った種だ。
発芽する力を失っていたのかもしれない。
エリクは膝をついた。
そして、土に触れた。
「……ごめんな、母さん」
その声は、小さかった。
「……せっかく残してくれたのに」
クリスは首を振った。
「……違うよ、お兄ちゃん」
エリクは顔を上げた。
「……何が?」
クリスは育った麦畑を見渡した。
風が吹くと、穂は一斉に頭を下げる。
「お兄ちゃん。あの日、パンがあるって言ったよね」
エリクは頷いた。
「嘘だった」
「知ってたよ」
クリスは少し笑った。
「でも、お兄ちゃんが諦めなかったのも知ってる」
エリクは畑の向こうに目をやった。
母の墓に置いた小さな石を、今も忘れていない。
クリスは笑った。
「お母さんが残したのは、その一粒だけじゃないよ」
エリクは黙った。
クリスは続けた。
「お兄ちゃんが守った畑も」
「みんなが作った麦も」
「今、子供たちが食べているパンも」
そして、静かに言った。
「……全部、お母さんが残してくれたものだと思う」
エリクは何も言えなかった。
クリスは畑を指差した。
「……見て」
エリクが振り向く。
遠くには、黄金色の麦畑が広がっていた。
早生の畑では刈り取りが始まり、遅い畑にはまだ穂が揺れていた。
風に揺れる麦の穂。
その向こうには、農民たちがいた。
鍬を持つ者。
水路を修理する者。
麦を運ぶ者。
そして、子供たち。
かつて、飢えで死にかけていた子供たち。
今では、笑いながら畑を走っていた。
エリクは静かに立ち上がった。
「……そうだな」
その日の午後。
アルト村では、早く実った麦の収穫を祝う小さな祭りが開かれた。
広場には、長い食卓が並んでいた。
パン。
豆の煮込み。
野菜のスープ。
そして、焼いた肉。
十年前なら、王侯貴族しか食べられなかったような食事だった。
だが、今では村人たちが分け合っていた。
ガルムは、相変わらず大きな声で笑っていた。
「おい、エリク!」
「何ですか?」
「もっと食え!」
エリクは苦笑した。
「十分食べていますよ」
「昔のお前は、骨と皮しかなかったからな!」
カールも笑った。
「確かにな」
ドランはパンをかじりながら頷いた。
「俺たちも、よく生き残ったもんだ」
エリクは仲間たちを見つめた。
ガルム。
カール。
ドラン。
そして、クリス。
何度も死にかけた。
何度も逃げた。
何度も戦った。
それでも、生き残った。
そのとき一人の少年がエリクに近づいてきた。
年齢は、十歳ほど。
手には、小さなパンを持っていた。
「……エリクさん」
「何だい?」
少年は尋ねた。
「昔、本当にパンがなかったの?」
エリクは頷いた。
「ああ」
「……どうして?」
エリクはすぐには答えられなかった。
雨が降らなかったこと。
種を食べなければ冬を越せなかったこと。
麦を運ぶ道が戦場になったこと。
そして、麦が残っている倉庫の前で、百人もの人が死んだこと。
「麦が育たなかった年があった。育った麦も、必要な人に届かなかったんだ」
少年は首を傾げた。
「……じゃあ、作ればよかったのに」
エリクは黙った。
そして、少しだけ笑った。
「……そうだな」
少年は続けた。
「畑を耕して、種を蒔けばいいんでしょ?」
エリクは頷いた。
「ああ」
少年は笑った。
「簡単じゃん!」
エリクは少年の目線まで腰を落とした。
「簡単だと思えるなら、それはいいことだ。だけど、畑だけではパンにならない。種を残す人、水路を直す人、荷車を走らせる人がいる」
「じゃあ、みんなで作るんだね」
「ああ。誰か一人が倒れても、ほかの誰かが支えられるようにな」
かつては、その当たり前を守ることが何より難しかった。
畑を守ること。
種を守ること。
農民を守ること。
水を守ること。
そして、人々が安心して麦を作れる国を守ること。
そのために、何万人もの人間が死んだ。
だがこの少年は、それを知らない。
知らなくてもいいのかもしれない。
少なくとも、飢えを経験しなくても生きていけるのなら。
エリクは少年の頭を撫でた。
「……大きくなったら、何になりたい?」
少年は元気よく答えた。
「農民!」
エリクは驚いた。
「……農民?」
「うん!」
少年は笑った。
「いっぱい麦を作って、みんなにパンを食べさせたい!」
エリクは何も言えなかった。
そして、静かに笑った。
「……そうか」
夕方。
エリクは一人で、村の外れにある小さな墓を訪れた。
母親の墓だった。
墓石には、名前が刻まれていた。
エリクは、焼きたてのパンを一つ置いた。
「……母さん」
風が吹いた。
麦畑が揺れた。
「……今年も、麦が実ったよ」
返事はなかった。
エリクは続けた。
「……今年は、誰かの畑から奪わずに済んだんだ」
遠くから、子供たちの笑い声が聞こえた。
「……みんな、自分たちで作ってる」
エリクは空を見上げた。
青い空。
白い雲。
そして、黄金色の麦畑。
エリクは墓石の前に膝をついた。
「俺は昔、麦を奪って人を殺した。そのことを、今も忘れていない」
母の返事はない。
だからこそ、忘れずに生きていくしかなかった。
今では配給の帳簿を誰でも確かめられる。
種麦を守る決定にも、飢えた家族の声が届く。
制度があるからといって、二度と凶作が起こらないわけではない。
それでも、あの冬のように、一人の子供が妹の明日を守るために剣を握るしかない国には戻したくなかった。
「最後の一粒は、芽を出さなかったよ」
少しだけ笑った。
「でも、母さんが守ろうとしたものは、ちゃんと育った」
そのとき遠くからクリスの声が聞こえた。
「兄ちゃーん!」
エリクが振り向く。
「何だー!」
「パンが焼けたよー!」
エリクは笑った。
「今行く!」
そして、母親の墓にもう一度頭を下げた。
「……行ってくるよ、母さん」
エリクは歩き始めた。
麦畑の中を。
夕日に照らされた道を。
かつて、飢えた人々が逃げ続けた道を。
今では、子供たちが笑いながら走る道を。
途中でエリクは一度だけ振り返った。
母の墓は、夕暮れの麦畑の向こうに小さく見えた。
忘れないために振り返ることと、過去に縛られて歩けなくなることは違う。
「お兄ちゃん、早く!」
クリスの声がした。
「ああ、今行く!」
彼は前を向いた。
その先には、誰かから奪ったものではない、温かいパンが待っていた。




