第九十話 王国は、飢饉に備えて一年分の麦を蓄えることにした
王都アルディア。
国王アルベルト三世は、エリクを呼び出した。
「……エリク」
「はい」
「二度と、同じ飢饉を起こしたくない」
エリクは頷いた。
「私もです」
国王は続けた。
備蓄令が村に届くと、農民たちは顔を曇らせた。
「収穫の一割を預けろと言われたら、今年の冬はどうする」
エリクは村長と倉庫を回った。
屋根の隙間から雨が入り、古い袋の底には虫がついていた。
これでは集めた麦を腐らせるだけだ。
「まず屋根を直します。次に保管の方法を決める。供出量は村の収穫と食べる人数を見てからです」
「備蓄は、いま飢えている者から取り上げる口実にはしません」エリクは村人の前で言った。
「最低限の食用麦と来春の種麦を先に確保する。その残りを、豊作の村から少しずつ預けてもらう。預かった量も放出した量も、皆に見せます」
王都へ戻ると、大臣は予算が足りないと言った。
「倉庫を建てる金で、今年の麦が買える」
「はい。でも来年の凶作で同じ麦を買える保証はありません」
会議は日暮れまで続いた。
決まったのは壮大な倉庫の建設ではなく、三つの村での小規模な試行だった。
国を変える制度は、まず雨漏りを塞ぐところから始まった。
村の倉庫番が古い麦袋を持ち上げると、底から虫がこぼれた。
「蓄えれば安心、というわけではありません」
エリクは保存期間と検査日を帳面に加えた。
新しい麦を積むだけなら簡単だが、古い麦を先に使い、傷んだ袋を捨てる判断には費用がかかる。
国王はその費用も備蓄令に明記させた。
一年分の備蓄という言葉に、議場がざわついた。
「そんな量をどうやって集める」
「一度に集めれば、今食べる麦がなくなります」
エリクは収穫のたびに少しずつ積み立て、古い麦から使い、傷んだ袋を検査する仕組みを提案した。
備蓄とは、山のような麦袋ではない。
毎年続ける仕事だった。
「そのためには、何が必要だ?」
エリクは考え込んだ。
「……備蓄です」
国王は頷いた。
「どれくらい?」
エリクは答えた。
「……最低でも、一年分」
大臣たちがざわめいた。
「一年分だと!」
一年分の備蓄を命じると、農夫が来年の種はどうするのかと尋ねた。
食べる麦と蒔く麦を分ける議論が始まった。
備蓄は積み上げるだけでは守れない。
腐敗を調べ、鍵を分け、使った理由を記録する。
エリクは未来の飢えに備える仕事の地味さを受け入れた。
「そんな量を、どうやって蓄える!」
エリクは頷いた。
「すぐには無理です」
そして続けた。
「ですが、毎年少しずつ増やしていけば……」
国王は静かに言った。
「……可能性はある」
その日。
王国は、新しい制度を制定した。
『王国食料備蓄法』
収穫の一部を、毎年備蓄する。
種麦は、食用とは別に保管する。
各地方に分散倉庫を作る。
倉庫の麦は、定期的に点検する。
そして、古い麦から順に配給し、新しい麦を補充する。
エリクはその内容を確認した。
「……これなら、少しずつ備蓄できます」
ユリウスが頷いた。
「ただし、問題がある」
「……何ですか?」
「備蓄するためには、今食べる麦を減らさなければならない」
エリクは黙った。
その通りだった。
飢えている人々から麦を取り上げて備蓄しても、意味がない。
エリクは静かに言った。
「……余裕がある地域から、少しずつ始めましょう」
国王は頷いた。
「……そうしよう」
その日。
王国は、未来の飢饉に備える第一歩を踏み出した。
制度の説明が終わると、辺境の村長が手を挙げた。
「余裕のある地域とは、誰が決めるのですか」
大臣が答えるより早く、エリクは口を開いた。
「村ごとの収穫と人口を記録して、公開します。病人や子供の食事を削る村からは集めません」
「豊作だった年だけ、重く取られるなら、収穫を隠す者が出ますよ」
その指摘に議場が静まった。
エリクは備蓄法の草案に線を引いた。
「供出した村には、凶作の年に優先して返す約束が必要です。保管中に腐らせた分を農民の負担にするのもおかしい」
倉庫の検査役は一人ではなく、役人と村の代表を組にする。
封印は二人で確認する。
古い麦を配給に回した記録も残す。
「これなら、王都が勝手に持ち出すことはできませんか」
村長の問いに、国王が答えた。
「私も、勝手には持ち出せない制度にする」
王が自分の手を縛ると宣言した瞬間、エリクは初めて、この法律が倉庫の鍵以上の意味を持つと感じた。
会議が終わる直前、クリスが一つだけ尋ねた。
「一年分って、誰の一年分なの?」
王都の人口だけで計算された草案を見て、役人たちは顔を見合わせた。
ドランは輸送地図に遠隔地の村を記し、カールは冬に閉ざされる峠へ赤い線を引いた。
備蓄の目標は王国全体の必要量とし、各地に分散する。
宰相は法案の冒頭に「各地の備蓄と輸送経路を定期に公開する」と書き加えた。




