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飢えた王国 ~麦を奪って生き延びた俺は、誰も麦を奪わなくていい国を作る~  作者: レモンティー


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第九話 穀物商人の倉庫には、五千袋の麦があった

アコギ商会の倉庫は、街の西側にあった。

高い石壁。

鉄で補強された門。

見張り台には弓兵が二人。

門の前には槍を持つ私兵が四人、壁の内側にも人影が動いている。

「見える範囲だけでも十人近い。中に何人いるか分からん」

扉の隙間から乾いた麦の匂いが漏れた。

腹が鳴った者を責める声はなかった。

エリクは見張りの交代時刻をもう一度確かめた。

ここで一人が焦れば、五千袋どころか仲間の命まで失う。

荷車の陰に伏せたガルムが囁いた。

「中を見るだけです。戦うつもりはありません」

エリクはそう答えたが、握りしめた指は汗ばんでいた。

夜半、街道から荷馬車が三台やってきた。

門番は荷札を確かめると、すぐに閂を外した。

馬車の側板には塗り潰された紋章があった。

松明の光が当たると、削り残した王国軍の鷲が浮かび上がった。

「軍の補給車だ」

「なぜ商会に?」

エリクは数えた。

一台に五十袋ほど。

三台で百五十袋。

運び込まれるたび、門番は板に印をつけている。

門が閉まる直前、エリクは壁際の排水溝へ身を滑らせた。

格子の隙間から倉庫の中庭が見える。

壁の向こうで鎖が鳴り、エリクは息を止めた。

見張りが荷車の車輪を蹴り、泥についた新しい轍を見つめている。

軍の麦袋がここにあると分かっても、証拠を持ち出せなければただの噂だ。

ガルムが囮になると言ったが、エリクは首を振った。

「俺たちが捕まれば、明日ここへ来る人たちまで罠にかかる」

二人は巡回の足音を数え直した。

「馬鹿、見つかるぞ」

ガルムが腕を引いた。

そのとき、中庭から番頭の声がした。

「旦那様、これで五千袋を超えました。街のパン屋にはもう粉がありません」

「なら、来週は倍で売れる」

アコギの声だった。

「軍に返す分は?」

「帳簿には輸送中の損耗と書け。領主の印はもうもらってある」

番頭は帳簿を開いた。

軍からの受領二百袋、倉庫への搬入百九十八袋、損耗二袋。

だが市場への出荷欄は空白のままだった。

売り先を記さないことで、軍の麦は「どこにもない麦」に変わっていた。

エリクの胸が冷えた。

麦が足りないのではない。

麦を届けるはずの者が、途中で流れを変えている。

中庭の秤に、一袋が載せられた。

番頭が重さを読み上げると、アコギは首を振った。

「市場へ出す袋は、口を少し詰め直せ。見た目が同じなら客には分からん」

その瞬間、エリクの足元で小石が転がった。

「誰だ!」

見張りの松明が排水溝を照らす。

ガルムはエリクの襟を掴み、荷車の車輪の裏へ引きずり戻した。

矢が一本、石畳に跳ねた。

二人は息を殺した。

見張りが壁の外を一巡し、やがて門へ戻る。

「今なら引き返せる」

ガルムの声は震えていた。

怒りではなく、恐怖で。

エリクも怖かった。

ここで捕まれば、クリスに麦を届けることすらできない。

「戻りましょう」

「……諦めるのか」

「違います。五千袋があることと、軍の麦が横流しされていることを、街の人に知らせるんです」

ガルムは見張りの交代時刻を指で数えた。

エリクは塗り潰された軍の紋章から目を離せない。

「商人が買った麦なのか、それとも誰かが横流しした麦なのか」

答えを知るには、門の内側の帳簿が必要だった。

「証拠は?」

エリクは門の横に積まれた、鷲の紋章が残る空袋を指した。

「一つだけ持ち帰れればいい」

見張りが背を向けた隙に、ガルムが袋を引き抜いた。

二人は走らず、曲がり角まで歩き、そこから闇の中へ駆けた。

街の広場には、今夜も配給を待つ人々が眠っていた。

子供を抱いた母親の前を通ったとき、エリクは足を止めた。

倉庫には五千袋。

ここには明日のパンさえない。

「ガルムさん。明日の朝、人を集めてください」

「倉庫を襲うのか」

「まず、皆に見てもらいます。この袋を。そして、誰の麦だったのかを」

夜が明ける前、エリクは泥で汚れた荷札の印を紙に写した。

数字を一つ間違えれば、商会は「見間違いだ」と言い逃れるだろう。

ガルムは見張りの交代時刻を覚え、二人は別々の道で戻った。

麦袋を見た怒りを証拠に変えるまで、誰にも倉庫を襲わせない。

それが今のエリクにできる、最も危うい約束だった。

ガルムは袋の鷲を見つめ、静かに頷いた。

剣ではなく、証拠を持って門の前に立つ。

それがエリクの選んだ最初の戦い方だった。


挿絵(By みてみん)

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