第八話 王国で最も裕福な男が、麦を買い占めた
倉庫前で百人以上が死んだ翌朝、ベルンの市場に黒塗りの馬車が入った。
降りてきたのは、穀物商アコギ・ヴァレンだった。
彼は領主の執務室に金貨の袋を置いた。
アコギの帳簿には麦の仕入れ値と売値が整然と並んでいた。
しかし、値上がりを示す線の外に、食べられなくなった家族の数は記されていない。
エリクはその空白が何より恐ろしかった。
「麦を買わせていただきたい」
「昨日、麦のために民が死んだばかりだぞ」
「存じております。だからこそ、保管と輸送を私が引き受けるのです」
アコギは隣領の軍勢が動いているという報告書を差し出した。
「兵を雇わなければ、残った麦も奪われます。兵を雇うには金が要る」
領主は長く沈黙した。
やがて軍の備蓄から一部を売る契約に署名した。
契約書には、移送先が『北部倉庫』とだけ記されていた。
数日後、麦の値は倍になり、さらに倍になった。
パン一つに金貨一枚という札が掛かった。
「これと交換してくれませんか」
パン屋の前で、母親が靴を差し出していた。
「粉が入ってこないんだ。俺も売るものがない」
母親は靴を抱き締めた。
隣の子供は裸足だった。
エリクはパン屋を責められなかった。
粉を隠しているのか、本当に仕入れられないのか、見ただけでは分からない。
市場の外れでは、別の男がアコギを罵っていた。
「商人が全部奪ったんだ!」
その男の家からも麦を煮る匂いがした。
隠す者を責める声と、隠さなければ生きられない恐怖が、同じ街にあった。
夜、ガルムがエリクを呼び出した。
「アコギの倉庫には何千袋もの麦があるらしい。奪えば子供たちを食わせられる」
「その麦はどこから来たんですか」
「知らん」
「領主の備蓄なら、春の種かもしれない。ほかの村から奪った麦かもしれない」
ガルムは苛立った。
「調べている間に、クリスも飢えるぞ」
「分かっています」
エリクは妹の細い手首を思い出した。
「だから今夜、倉庫を見に行きます。中身と運び先を確かめる。奪うかどうかは、その後です」
「証拠を集めて腹が膨れるか?」
「証拠がなければ、俺たちが奪った麦のせいで別の村の子供が死ぬかもしれません」
ガルムはしばらく黙り、最後に頷いた。
アコギは帳簿の端に、麦一袋の値が昨日より上がったと記した。
部下が「門の外で死者が出ています」と告げると、彼は筆を止めた。
だが値を下げる指示は出さなかった。
その一瞬の沈黙を、部下だけが覚えていた。
二人が港へ続く裏道に出ると、アコギの紋章をつけた荷車が列をなしていた。
一台の荷台から、袋が少し破れて白い粉がこぼれている。
麦ではない。
挽き終えた小麦粉だ。
「袋の印を見ろ」
ガルムが囁いた。
そこには、領主軍の焼き印があった。
「軍の備蓄を、もう運び出している……」
荷車の最後尾には武装した護衛がいた。
彼らが通り過ぎるのを待ちながら、エリクは荷の数を数えた。
明日になれば、この荷は街から消える。
エリクは荷車の車輪についた赤茶色の泥を見た。
北へ続く街道でも見かけた土だ。
「軍の印がある。少なくとも、軍から出た荷が商会に入っている」
どこで誰が売ったのかまでは、まだ分からなかった。
ガルムはすぐに門へ向かおうとしたが、エリクは止めた。
怒鳴っても荷は戻らない。
見張りの交代を待つ間、ガルムは倉庫へ入る荷車と出る荷車を別々に数えた。
入る数だけを見ていては、買い占めた麦の行き先を見失う。
誰が運び、誰が受け取ったかを突き止めなければ、また別の倉庫へ消える。
「ガルムさん。今夜のうちに、どこへ運ぶのか確かめましょう」
パン屋の母親は、靴を差し出した手を引っ込めた。
子供がその袖を引いたからだ。
「お母さん、明日なら買える?」
母親は答えられなかった。
店主も札を裏返せなかった。
彼自身、次の仕入れ値を知らなかった。
エリクは店先に貼られた価格と日付を書き留めた。
怒りだけでは、誰がいつ値を吊り上げたか証明できない。
翌朝、エリクは市場の入り口に立ち、値札を書き写すだけでなく、買えずに帰る者の人数を数えた。
子を背負った父親は、店の前を三度通って一度も列に並ばなかった。
「値段が下がるまで待つつもりか」
「待っているんじゃない。昨日の賃金では、今日の半斤も買えないんだ」
父親はそう言い、空の袋を折り畳んだ。
エリクは帳簿に価格の横へ、日雇い仕事の賃金を書き足した。
麦が倉庫にあることと、人がそれを食べられることは別だった。
暗い倉庫街の奥で、見張りの灯が一つ、また一つと点いた。




