第七話 麦倉庫の前で、百人が死んだ
ベルンに来て七日目、領主が三日に一度の麦の配給を始めた。
一人につき半椀。
粥にすれば二食にも満たない。
それでも倉庫前には夜明け前から数千人が並んだ。
「お兄ちゃん、今日こそ麦がもらえるね」
倉庫の扉には新しい錠が下がり、その下には人の爪でついた細い傷が幾筋も残っていた。
エリクは錠の下に残った爪痕を見た。
昨日も、扉が開くまで待ち続けた人がいたのだろう。
クリスの手は冷たかった。
エリクはその指を握り直した。
列の前では、杖をついた老人と子連れの母親が言い争っていた。
「昨日からここにいるんだ。割り込むな」
「この子は三日もまともに食べていないんです!」
「わしだって食べておらん!」
どちらも嘘をついていない。
だから誰も仲裁できなかった。
昼過ぎ、倉庫の扉が開き、役人が叫んだ。
「本日の配給は終了だ!」
列の半分以上が、まだ麦を受け取っていなかった。
「明日来い!」
「明日は配給日じゃないだろう!」
抗議の声が膨らむ。
そのとき、扉の隙間から積み上がった麦袋が見えた。
「あるじゃないか!」
兵士が槍を構えた。
役人は青ざめて言った。
「残りは種麦と軍の備蓄だ。勝手に配れば春の作付けができなくなる!」
役人の背後にいた倉庫係が小声で言った。
「食用に回せる古麦は別の棚にあります。ですが帳簿上は軍の予備です」役人は答えなかった。
何が本当に残せない麦なのか、誰にも説明できないことが、列の怒りをさらに膨らませた。
説明はもっともだった。
だが、今夜を越せない人間に春を語っても、慰めにはならなかった。
前方で老人が倒れた。
誰かが助けようと身をかがめ、その背中を後ろの群衆が押した。
エリクはクリスを壁際へ引き寄せた。
「そこをどけ!」
一人の男が二人を押しのけようとした。
男の腕には、息をしているかも分からない幼児が抱かれていた。
エリクは押し返しかけ、手を止めた。
自分がクリスを守れば、この子が踏まれるかもしれない。
「こっちだ!」
エリクは男の袖をつかみ、壁沿いの細い荷運び通路へ導いた。
だが、その間に列が崩れた。
槍が突き出され、倉庫の扉が破られた。
麦袋が裂け、金色の粒が石畳に散る。
人々は膝をつき、踏まれながら麦を拾った。
城壁の上から「鎮圧せよ!」という声が響いた。
弓兵が弦を引く。
「撃つな! 子供がいる!」
エリクの叫びは鐘の音にかき消された。
倉庫の内側へ通じる扉は閉ざされ、外では倒れる者が増えていく。
エリクは鍵を持つ者と、鍵を持たない者の距離を思った。
矢が降った。
荷運び通路へ逃げ込む途中、エリクは転んだ老人を見つけた。
助けに戻ればクリスが危ない。
通り過ぎれば、老人は死ぬ。
「お兄ちゃん、あの人……」
倉庫の門前で、母親が子の名を呼び続けていた。
警備兵は列を動かすよう命じたが、誰もその母親をまたげなかった。
エリクは地面に残された空の椀を拾い、門番に見せた。
「この椀が必要だった人の数を、数えてください」
クリスが自分の手を離した。
エリクは老人の脇に腕を差し込み、男にも肩を貸してもらった。
三人で引きずるようにして路地へ運んだ。
夕刻、倉庫前には百人以上の遺体が残された。
エリクは監督官に紙と炭を求めた。
身元が分かる者から名前を書き、分からない者には服装と見つかった場所を記した。
「数だけで片づけないでください。家族が捜しに来ます」
監督官は顔を背けたが、紙を取り上げなかった。
助けた老人は生きていたが、幼児を抱いた男の姿は見つからなかった。
クリスが震える声で尋ねた。
「麦があるのに、どうして殺し合うの?」
「……足りないからだ」
「じゃあ、誰がもらうか決める人は、どうしてお腹が空いてないの?」
エリクは答えられなかった。
彼は石畳から拾った麦を一粒、手のひらに載せた。
石畳に落ちた椀を拾う者と、倒れた人を運ぶ者がぶつかった。
門番は命令を待ち、命令を出す者は死傷者の数を知らなかった。
エリクは近くの女に頼み、怪我人のいる場所を壁に炭で記してもらった。
助けられる命を探すための印だった。
それを見た兵士が一人だけ槍を下ろした。
だが門は開かなかった。
今日、クリスを守ろうとして、見知らぬ老人から目を背けかけた。
明日も同じことが起きれば、同じ選択をするかもしれない。
その恐ろしさを、忘れてはいけないと思った。




