第八十三話 飢餓戦争が終わった日、誰も勝利を叫ばなかった
秋。
王都アルディア。
城門の鐘が、昼を告げる時刻より早く鳴った。
広場へ集まった人々の前で、国王アルベルト三世の宣言が読み上げられる。
『領主軍の武装解除を完了した。
王国内の大規模な戦闘は終結した。
以後、兵と倉庫は農地の保護と食料輸送に充てる』
読み終えた役人は、紙を持つ手を下ろした。
拍手は起きなかった。
鐘の音が止むと、広場にいた誰かの咳が聞こえた。
「勝ったのか、俺たちは」
ガルムがエリクに尋ねた。
鍛冶屋の大きな手には、戦場で折れた槍の柄が握られている。
「俺の息子は、戻らない」
エリクは返事を探した。
麦一袋のために人を殺した日。
母が息を引き取った夜。
畑を守るために倒れた農民。
どれも、終戦の布告一枚で消えるものではなかった。
「……勝ったと言うより、これ以上奪わずに済むところまで来たんだと思う」
ガルムは目を伏せた。
広場の端では、帰還兵の名簿が掲げられていた。
女が指で行を追い、何度も最初から読み直している。
名前がなかった。
女は泣き崩れなかった。
ただ、空の荷車を引いて帰っていった。
城壁に国王が姿を現した。
「この戦争に、勝者はいない」
王の声は広場の奥まで届いた。
「飢えた者が、飢えた者から麦を奪った。兵が畑を焼き、農民が槍を持った。国が守るべきものを、国自身が壊した」
国王はそこで一度言葉を切った。
「明日から、戦いに使った荷車で麦を運ぶ。兵舎の一部を帰る家のない者へ開く。武器を作っていた鍛冶場には、農具の注文を出す。これを命令するだけでなく、王都の帳簿に毎日記録し、誰でも確かめられるようにする」
今度は、ざわめきが起きた。
「うちの村にも届くのか」
「冬までに道が直るのか」
答えのない問いが、次々に広がった。
エリクはその声を聞いていた。
戦争が終わっても、飢えは終わっていない。
「お兄ちゃん」
クリスが袖を引いた。
「もう逃げなくていいの?」
「ああ。もう、逃げなくていい」
「母さんにも聞かせたかったね」
エリクは頷いた。
妹の手は、あの冬より少し温かかった。
その夕方、ガルムは鍛冶場に戻った。
戦争で曲がった剣を炉に入れ、赤くなった鉄を金床へ載せる。
「何を作るんだ?」
エリクが尋ねると、ガルムは槌を振り下ろした。
「鍬だよ」
鉄の音が、夕暮れの村に響いた。
夜、家々の食卓にはまだ空席があった。
エリクは母の席を見つめ、そっと椀を一つ置いた。
勝利の宴ではない。
明日も働く者が、今日を生き延びたことを確かめる食事だった。
窓の外で、鍬を研ぐ音が続いていた。
エリクはその音を聞きながら思った。
戦争が終わった日、人々が最初に取り戻したのは、勝利の歓声ではない。
明日の仕事を選べる時間だった。
その夜、エリクはかつて街道で殺した兵士の手紙を思い出した。
妹のエマに、パンを届けてほしいと書かれていた。
戦争が終わっても、彼女に謝れる日は来ないかもしれない。
エリクは戦死者名簿の欄外に、分かっていることだけを書き添えた。
『街道の輸送隊。
若い兵士。
妹エマ』誰かがいつか探しに来たとき、せめて名前につながる手掛かりが残るように。
その日の午後、戦死者の家族に渡す名簿が届いた。
名前の誤りが七つあり、帰還したはずの兵士が二人、まだ見つかっていなかった。
クリスは役人に訂正を求めた。
「戦争が終わったなら、誰が帰ってこないかを、きちんと知らせてください」役人は言い訳をせず、紙を書き直した。
ガルムが作った最初の鍬は、かつて村を焼いた軍の兵士へ渡された。
ガルムは一瞬だけ手を離せなかった。
兵士も受け取らずに立っていた。
「お前のことを許したわけじゃない」とガルムは言った。
「それでも畑は耕さなきゃならん」兵士は頭を下げ、鍬を受け取った。
誰も歓声を上げなかった。
鍬の柄が、二人の手の間で小さく軋んだ。
ガルムは戦死者名簿の前で長く立ち尽くした。
「昔、俺は奪えば生きられると思っていた」
エリクは黙って隣に立った。
「息子を失った日、ほかの誰かの息子を奪っても構わないと思った。あのときのお前を止められなかった」
「俺も、自分で短剣を突き出しました」
「そうだ。だから、俺たちは勝った顔をしてはいけない」
クリスが二人に一枚の紙を差し出した。
戦死者の遺族に届けるため、家族が最後に知っていた住所を書き集めたものだった。
「謝るだけでは戻ってこない。でも、残された人が明日食べられるかは、まだ変えられる」
その日の会議では、戦勝の記念碑より先に、遺族への食料配給と復員兵の仕事を決めた。
会議が終わると、人々は名簿を持ってそれぞれの村へ向かった。
広場の戦勝旗は畳まれた。
代わりに、翌朝出発する荷車の行き先が壁に貼り出された。




