第八十一話 麦を奪った兵士が、麦を守る兵士になった
王国北部。
かつて、ヴァルシア軍が侵攻した地域。
そこには、今では共同農場が広がっていた。
元兵士たちが、畑を耕していた。
鍬を持つ男たち。
水路を修理する者たち。
穀物倉庫を守る者たち。
翌朝、倉庫の前に老婆が戻ってきた。
手には空の木椀があった。
「今日の分を量っておくれ」
トビアスは計量係を呼び、決められた目盛りまで麦を入れた。
老婆は袋を受け取っても立ち去らない。
「お前が昔したことを、私は忘れないよ」
「はい」
「でも、今日の分は足りている」
老婆はそれだけ言って帰った。
トビアスはしばらくその背中を見送った。
許されたわけではない。
次の配給日も、その次の日も、同じ量を渡すだけだ。
午後、倉庫の戸板が歪んでいるのを見つけ、彼は釘を打ち直した。
剣を握っていたころには気にも留めなかった小さな仕事が、今は誰かの冬を支えていた。
トビアスが倉庫の鍵を受け取ると、村人の男が腕をつかんだ。
「昔は奪いに来たくせに」
トビアスは言い返さず、鍵を村の代表に渡した。
「俺一人では開けられないようにしてください」
男は鍵を受け取ったが、礼は言わなかった。
トビアスはそれでいいと思った。
信用は謝罪一度で戻るものではない。
翌朝も彼は配給の袋を運んだ。
農地の見回りに来た兵士を、子供が物陰から見つめていた。
昨日まで麦を奪う側だった制服を、今日から守る側だと信じてもらうには、命令書より長い時間が必要だった。
倉庫の前で警備に立つ兵士は、かつて徴税のために村を回っていた。
近づいた老婆が、彼の紋章を見て足を止める。
「また取りに来たのかい」
兵士は槍を脇に置き、倉庫の鍵を見せた。
「いいえ。今度は、誰にも勝手に持っていかせません」
老婆はすぐには信じなかった。
その不信も、兵士は黙って受け止めた。
その中には、トビアスもいた。
故郷へ帰り、家族の墓を見つけた男だった。
畑を守る兵士は、以前なら奪っていた麦袋を運んだ。
袋の重さは変わらないのに、背負う意味だけが違った。
元兵士が麦畑の柵を直す姿を、農民はまだ疑わしそうに見ていた。
「昨日まで奪っていたくせに」
男は言い返さず、壊れた杭を打ち直した。
信用は命令ではなく、毎日の仕事で積み重なる。
トビアスは倉庫の前で、老婆の家へ続く道を見つめた。
謝っても失われた命は戻らない。
それでも彼は毎朝、鍵の数を村の代表と照合した。
兵士の命令だけでは扉が開かないようにするためだ。
ある日、老婆の孫が配給の列に並んだ。
トビアスは目を伏せず、決められた量を量って渡した。
槍を持った手が麦袋を守る。
かつて奪うために使われた力を、今度は届けるために使えるかどうかが問われていた。
彼は、再び国境の共同農場へ戻ってきていた。
なぜなら、そこには人がいたからだ。
生きている人間がいた。
そして、守るべき畑があった。
ある日。
若い兵士がトビアスに尋ねた。
「……どうして、そんなに働くんですか?」
トビアスは鍬を止めた。
「……何でだろうな」
若い兵士は続けた。
「家族は、もう……」
トビアスは頷いた。
「……ああ」
そして、静かに言った。
「だからだよ」
「……え?」
「俺の家族は、もう帰ってこない」
トビアスは畑を見つめた。
「でも、ほかの誰かの家族は、まだ生きてる」
若い兵士は黙った。
「その人たちが、俺と同じ思いをしなくて済むなら……」
トビアスは鍬を握り直した。
「……それでいい」
その日。
元兵士たちは、夕方まで畑を耕した。
かつて、彼らは麦を奪うために戦った。
だが、今は違う。
麦を作るために働いていた。
そして、麦を守るために立っていた。
翌朝、倉庫の戸に泥で書かれた文字があった。
『人殺しに麦を守らせるな』
若い兵士が消そうとすると、トビアスが止めた。
「そのままにしておけ」
「でも、隊長」
「俺たちがしたことだ。文字だけ消しても、なくならない」
昼過ぎ、老婆が倉庫の前に来た。
昨日、彼の紋章を見て立ち止まった女だった。
「お前の隊は、三年前にこの村の麦を持っていった」
トビアスは槍を地面に置いた。
「……そうです」
「うちの孫は、その冬を越せなかった」
謝罪は、孫を生き返らせない。
トビアスは言葉を探すのをやめた。
「今ここにある麦は、村のものです。鍵は村の代表にも預けます。俺たちは命令があっても、勝手には開けません」
老婆は答えず帰った。
数日後、倉庫の戸に別の文字が増えた。
『今日の配給、予定どおり』
それを書いたのが誰か、トビアスは尋ねなかった。
信用は許しとは違う。
毎日、壊さずに積み上げるしかないのだ。
パンを受け取った少年が去ったあと、クリスは配給表の最後の欄を指で押さえた。
「王都の名簿は埋まった。でも山の村は?」
ドランは答えられなかった。
到着確認の印がない村が、地図の端に残っていたからだ。
「今日を祝っていいのかな」
エリクは焼きたてのパンを半分に割った。
「祝おう。だけど、王都でできたことを国じゅうでできたことにはしない」
翌朝、三人は未着の村から順に輸送表を作り直した。
王都の成功を知らせる使者より、先に荷車を出した。




