第八十話 王都で初めて、登録された全員にパンが配られた
収穫から一か月。
王都アルディアの中央広場に、長い列ができていた。
以前と違ったのは、怒鳴り声が聞こえないことだった。
広場の窯から、焼きたての黒パンの匂いが流れてくる。
「……お兄ちゃん」
クリスがエリクの袖を引いた。
「何だ?」
「いい匂い」
その言葉を聞いたとき、エリクは何年も前の朝を思い出した。
母がまだ生きていて、パンを二つに割っていた朝だ。
王都の収穫麦と輸入麦を合わせ、王都で登録された配給対象者の分が、ようやく揃った。
だが、エリクは配給所の入口に立ち、最後尾まで目を配った。
「木札がない人は?」
配給係が答えた。
「登録窓口へ案内しています。身元が分からない人も、別に記録して今日の分を渡します」
「子供だけで来た場合も、追い返さないでください」
「はい」
列の最後にいた少女が尋ねた。
「明日も、もらえる?」
エリクは言葉を選んだ。
「明日の分も用意しています。でも、ずっと同じ量を約束できるわけじゃない。だから、届いた数と残った数を毎日みんなに知らせるよ」
クリスは列の最後にいた子供へ自分のパンを見せた。
「今日の分は、ここにあるよ」かつて兄の無理な約束を聞いていたクリスは、今は確かめられることだけを口にした。
配給係が少女の木札に印を付けた。
少女はパンを受け取っても、その場から動かなかった。
「どうした?」
「これ、本当に私の?」
「そうだよ」
「昨日は、弟の分だけでいいって言われたの」
係は一瞬、手を止めた。
昨日までの不足を、今日のパンで消すことはできない。
「今日は二人分ある。君の分も、弟の分も」
少女は列の端にいる弟を呼んだ。
弟は手を洗ったばかりの濡れた指を服で拭い、姉の顔を見上げた。
少女は頷き、受け取ったパンを半分に割った。
「弟に持って帰るの?」
「ううん。隣にいるよ」
少女は弟へ半分を渡した。
二人はすぐに食べず、顔を見合わせてから小さくかじった。
老婆が列から離れようとしていた。
「わしより若い者にやっておくれ」
「あなたの分もあります」と配給係が言った。
パンが配られる列に、かつて母と並んだ記憶が重なった。
エリクは喜びながらも、列に来られない人がいないか振り返った。
「本当に?」
老婆の後ろに並んでいた若い男が、そっと場所を譲った。
以前なら、誰かが一歩でも列を離れれば、その場所を奪い合っていた。
老婆はパンを両手で受け取った。
何度も確かめてから、半分を懐にしまった。
やがてクリスの番が来た。
小さな黒パンが、その手に置かれた。
「……パンだ」
クリスは一口食べた。
涙が頬を伝った。
「おいしい」
エリクは黙っていた。
「お兄ちゃん。お母さんにも、食べさせたかった」
母は最後のパンを子供たちに譲った。
自分は食べずに、二人が食べる姿を見ていた。
「……ああ。食べさせたかったな」
エリクもパンを一口かじった。
温かかった。
母が焼いたパンと同じ味ではない。
それでも、確かに人を生かす味だった。
夕刻、係たちは配給台に残ったパンを数えた。
帳簿に記された配布数と木札の印を照らし合わせる。
数が合わず、若い係が青ざめた。
「三つ、足りません」
エリクが振り向くと、クリスが列の外を指した。
「朝、木札のない子供に渡した分よ。別の紙に書いてある」
二枚の記録を合わせると、数は一致した。
「明日からは同じ帳簿に記そう。誰に渡したか分からなくなると、次にその人が来たとき困る」
係は頷いた。
パンを渡すだけでなく、明日も渡せるようにする。
それが今の彼らの仕事だった。
その日、王都では登録された配給対象者全員にパンが渡った。
ただし、城外の仮小屋には登録を知らない人もいた。
クリスは名簿係に声をかけ、翌朝、巡回して人数を確かめるよう頼んだ。
全国では、まだ届かない村があった。
次の冬を越す備蓄も十分ではなかった。
エリクは最後の配給表に印を付け、翌日の輸送予定を確認した。
クリスが隣で言った。
「お兄ちゃん、明日もこの匂いがするといいね」
「……ああ」
エリクは掲示板の端に、まだ届いていない村の名前を残した。
今日だけの奇跡で終わらせない。
そのための仕事が、明日も待っていた。




